オリンピックをも超える、今や日本中――いや、世界中が熱狂するビッグイベント。それが雄英高校の体育祭だ。
超常社会において、かつてのスポーツの祭典はその意味合いを大きく変えた。日本最高峰のヒーローの卵たちが、己の全てを賭して競い合うこのステージは、若き新星を青田買いしようと目を光らせる名だたるプロヒーローたちのスカウトの場であり、同時に社会全体のヒーローに対する注目度を測る最大の指標でもあった。満員のスタジアムは、割れんばかりの歓声と、きらびやかなテレビ中継のカメラの群れに包まれている。
そんな、熱気の坩堝と化した雄英スタジアムの一角―――第一種目である障害物競争がまさに佳境を迎えていた頃。
スタジアム中に響き渡るプレゼント・マイクの爆音の実況の裏で、祈は静かに、放送ブースの入口をノックしていた。
「失礼いたします、相澤先生」
「あ? 神代……何でお前がここにいやがる。しかも止めろって言ったはずの白じゃねえか…」
「これは、リカバリーガール先生が『目立つように白い修道服で』と指定してくださったので…」
ギチギチと全身に包帯を巻いた痛々しい姿のまま、マイクに向かってけだるげに声を張っていた相澤が、入ってきた純白の修道服の姿を見て僅かに眉根を寄せた。隣ではプレゼント・マイクが「おぅ!? 救護補佐のシスターじゃねえか! どうしたんだい!」と相変わらずのうるささで声を上げる。
「皆様の救護データをリアルタイムで精査しておりました。相澤先生、先日の治療による細胞の定着具合はいかがでしょうか。いつでも追加のメンテナンスを行う用意はできておりますが」
祈はいつものお行儀の良い姿勢のまま、レースのヴェールの向こうでふんわりと柔らかい微笑みを浮かべた。
あのUSJの夜、瀕死の彼を死の淵から強引に引き戻した、ジキルとハイドによる『肉体再構成』。相澤は、自分の手首を優しく包み込みながら彼女が囁いた『私は、このためのスペアですから』というあの狂気的なまでに歪んだ言葉を、未だに鮮明に覚えていた。
「……問題ねえよ。見ての通り、リカバリーガールの婆さんも呆れるくらいにはピンピンして実況をやってる。お前が心配するようなことは何もねえ」
相澤はフイと視線をモニターへ戻したが、その声音には、公安の最高機密という檻に縛られながらも自分を救ってくれた目の前のシスターへの、不器用な教師としての、あるいは一人の男としての複雑な危惧が滲んでいた。
「左様ですか。それなら安心いたしました。皆様の命を預かる大切な先生なのですから、どうかご自愛くださいね」
祈は嬉しそうについっこりと笑うと、丁寧に一礼して放送ブースを後にした。
◇
放送ブースを出て、多くのプロヒーローや観客が行き交うスタジアムの通路を歩いていた時のことだ。
ふと、祈の視線が、競技場全体を捉えるために設置された大きな地上波生中継用のカメラへと向いた。
(お仕事の合間に、このテレビを見ているのでしょうか……)
彼女の脳裏に浮かんだのは、かつて公安の本部で自分の修道服の裾を小さな手で握りしめていた「鷹見啓悟」の温もり。今や二十二歳になり、最速のヒーロー・ホークスとして遠い世界へ羽ばたいていったあの子が、もしかしたらこの中継を見ているかもしれない。
そう思った瞬間、祈はカメラのレンズに向かって、いつもの完璧に作り込まれたお人形の微笑みではなく、心の底から愛おしさが零れ落ちたような、優しく、甘やかな、本物の笑顔を「ついにっこり」と投げかけてしまった。
それは、世界中の誰をも一瞬で虜にしてしまうような、純度MAXの聖女の微笑み。
そして、全国に生中継されているその映像が画面に大写しになった瞬間、日本中のプロヒーローたちが陣取る控室や観客席が一気に騒然となった。
「おい、待て今の誰だァアアアアお前ら見たか!?」
「めちゃくちゃ綺麗なシスターがカメラ目線で微笑んだぞ! 新しいプロヒーローか!?」
「いや、雄英の職員用のIDカードをつけてる! 救護班か!?」
若いヒーローの卵たちを冷徹にチェックしていたはずの強面なプロヒーローたちが、画面に向かって一斉に色めき立ち、誰一人として競技の様子を見ていないという本末転倒な事態に陥っていた。
「ちょっと何よアイツ……! なんでシスターの格好なんてして地上波中継で男どもを釣ってんのよ!」
スタジアムの来賓席でその画面を見ていたマウントレディは、自身の持ち味である「あざとさ」と「美貌」のジャンルにおいて、ヴェールの向こうから放たれた圧倒的な天然の聖性に完全なる敗北を喫し、ギリィ……と歯噛みして悔しがっていた。
「私のプロポーションだって負けてないのに! なんであのお堅そうな服の女にあんなに群がってんのよクソォ!」
と、隣にいるシンリンカムイの袖を引っ張って荒れている。
――なお、その瞬間、カメラの死角となる物陰でその笑顔をダイレクトに目撃してしまったオールマイトが、あまりの尊さとショックにより、白目を剥いて大量に吐血し、リカバリーガールに怒鳴られながら無事に尊死しかけていたことなど、祈は知る由もなかった。
◇
そんな外の狂乱を置き去りにして、祈は負傷者が次々と運び込まれ始めている特設救護テントへと戻っていた。
始まった第一種目・障害物競争。競技の性質上、すり傷を作ったり、泥だらけになった生徒たちが次々とテントへと運び込まれてくる。
感情の大部分をハイドに凍らされているとはいえ、根がとにかく子供好きな祈にとって、一生懸命に未来に向かって走り回る目の前の若い教え子たちは、見ているだけで内心とても喜ばしく、愛おしい存在だった。
そのため、今日の彼女の治療は、USJの時のように悍ましいハイドの気配を微塵も感じさせないほど、ふんわりと柔らかい。擦り傷や打撲といった軽症の範囲であれば、ただ透き通るような白光が、痛みを伴わずに傷口を優しく塞いでいく。
「……ふわぁ、全然痛くない。それに、めちゃくちゃ綺麗なお姉さん……」
「可憐だ……。シスター、ありがとうございます……!」
治療を受けた他クラスの生徒やサポート科の生徒たちは、触れられた瞬間の不思議な温かい匂いと、ヴェールの向こうから覗く圧倒的な美貌に、一瞬にして心を奪われてほわほわとした吐息を漏らしていた。
そんな救護テントへ、大きなゴーグルを頭に乗せ、全身ススと泥だらけになったサポート科の発目明が、自作のメカを抱えてドタドタと飛び込んできた。
「失礼しまーす! 私の可愛い可愛いベイビーたちの性能を試すために、ちょっとばかり無茶をしすぎて擦りむいちゃいました! あ、シスター! 私のベイビー格好いいでしょう! 素晴らしい出力なんですよ!」
勢いよく自作のサポートアイテムを差し出してくる発目に対し、祈は驚く風でもなく、その大好きな子供の頑張りを称えるように、ふんわりと柔らかい微笑みを浮かべた。
「まぁ。一生懸命に作られて、本当に素晴らしいですね。とても上等で、使い勝手の良い便利なベイビーちゃんではありませんか」
「分かりますかシスター! そう、道具こそ至高! 人々の役に立つ、便利な道具こそが世界を救うんです!」
「ええ、本当によく分かりますよ、発目さん。私自身も、皆様のお役に立てればとても嬉しいです」
「お互い素晴らしい思想をお持ちですね!!」
ガシッ、と両手を握り合って、あっちの方向で完全に意気投合してしまう二人。
たまたま追加の救護書類を届けに来て、テントの入り口でその会話を耳にしてしまった緑谷は、「便利で狂気的なベイビーを愛する発目さん」と、「自らを道具と言い切る狂気の神代さん」の、あまりにもちぐはぐで不穏な噛み合い方に、額から冷や汗を流して固まっていた。
「それでは、発目さんのお怪我も現世の理へ戻しますね。これからも素晴らしい道具をたくさん作ってください」
「はい! ありがとうございますシスター! 次はもっと凄いベイビーを開発してきます!」
発目が元気にテントを飛び出していった後、その入れ替わりとして、パイプ椅子に気だるげに腰掛けたのは、普通科1年C組の心操だった。
ヒーロー科の奴らの、派手で華やかな個性の応酬を前に、普通科の自分が泥にまみれて必死に食らいついた結果の、手のひらの無数の擦り傷。
「敵向きの個性」と揶揄される自分の『洗脳』では、こういう光の当たる表舞台には立てないのではないか――そんな、暗い劣等感を胸の奥で燻らせている彼の前に、再び、あの静かな金属の杖の音が響いた。
「お疲れ様でした、心操くん。お怪我を現世の理へ戻しますね」
振り返った心操の視界に飛び込んできたのは、汚れ一つない純白の修道服を纏った祈の姿だった。
今まで遠巻きに見ていることしかできなかった女性がすぐそこにいると思うと、分かりやすく心操は緊張した。
祈は丁寧に膝を突き、心操の泥だらけの手を白く細い両手でそっと包み込んだ。瞬間、ふわりと、この世界のどんなものとも違う不思議な温かい匂いが鼻腔をくすぐった。
「……あ、」
心操が息を呑む間に、彼女の手のひらから透き通るような白光が溢れ出る。
純粋なジキルの温もりが、全くの無痛のまま心操の手のひらの傷を瞬く間に優しく塞いでいった。心操はその神聖な美しさに不覚にもドギマギしてしまう。
しかし、治療を終えてもなお、心操の胸の内に溜まった澱のような劣等感は消えなかった。目の前の、自らをただの道具のように扱って完璧に治療をこなす純白の聖女に対し、心操はつい、自嘲気味な言葉を漏らしてしまった。
「……ハ、綺麗な個性でいいよな」
「…」
「俺の個性は、他人の心を無理やり操る『洗脳』だ。これまでもずっと、周りからはまともなヒーローになれるわけねえだろって言われ続けてきた」
そんな普通科の少年の、痛々しい独白。
だが、祈はそれを聞いても眉一つ動かさず、むしろ大好きな子供の頑張りを称えるように、真剣な表情でまっすぐに心操を見つめた。
「心操くん、個性は個性です。それをどう使うかはその人自身が決めることですよ」
「……、」
あまりにも当たり前の、けれど今まで誰も自分に言ってくれなかった、濁りのない全肯定の言葉。
心操は不意を突かれたように目を見開き、しかしすぐに視線を斜め下に逸らしながら、さらにひねくれた問いを重ねた。
「……俺のこと、気持ち悪いとか怖いとか思わないんですか」
「何故?」
即答だった。祈は不思議そうに小さく小首を傾げている。
「それは……その……俺に、『洗脳』されるとか、思わないんですか?」
言葉に詰まる心操を、レースのヴェールの向こうの澄んだ瞳が見つめる。
祈はそっと胸元に手を当てると、いつものお行儀の良い微笑みのまま、けれどどこか天然で、圧倒的な聖性の宿った言葉を投げかけた。
「では、心操くんは私の心を操ってどうにかしてやろうといういけない心をお持ちなのですか?」
「えっ……いや、ないけど……っ!!!」
いけない心。
その、妙に艶っぽくも聞こえる純潔なフレーズが脳内でリピートされた瞬間、心操の顔面は一気にとんでもない熱量で沸騰した。耳の付け根から首筋に至るまで、文字通りリンゴのように真っ赤に染め上げ、心操はガバッと両手で顔を覆って慌てて首を横に振る。
あんなに綺麗で、傷ついた自分を優しく癒やしてくれたシスターに対して、そんな邪な真似をしようなどとはミリ単位も考えていなかったし、何より彼女の距離の近さと天然な破壊力に、思春期の男子としての心臓が完全にキャパオーバーを起こしていた。
「ふふ、それなら何も怖いことありませんね。私の心を操ろうとしない心操くんは、とても優しくて素敵な男の子です」
祈は目の前の少年が顔を真っ赤にして茹で上がっている理由が全く分かっていない様子でにっこりと笑い、心操の手のひらを優しくポンポンと叩いた。
「個性に良いも悪いもありません。心操くんのその素晴らしい個性が、皆様の役に立つための完璧な道具として機能すれば、それで良いのですから。むしろ、誰よりも…誰かのヒーローになれる個性だと私は思いますよ。
…それでは、次の競技も応援しておりますね」
修道服の裾を揺らし、静かに別の負傷者の元へと向かっていく彼女の後ろ姿。
パイプ椅子に残された心操は、完全に傷が消え失せた自分の手のひらをじっと見つめ、未だに胸の奥でドクドクと爆音を立てる心臓を必死に抑えながら、赤みが一向に引かない顔を両手で覆ったまま俯いていた。
自分の個性を「怖い」とも「悪」とも呼ばず、ただその本質をまっすぐに認め、子供大好きな優しい笑顔で救ってくれた、純白の聖女。
(道具……? あんなに優しくて綺麗な人が、自分を道具だって言うのか……?)
テントを出た心操の瞳の奥に、これまでの劣等感を完全に塗りつぶすほどの、強烈なパラダイムシフトが起きていた。
(もし……俺の『洗脳』が、あの人ひとりにだけ届くなら。俺の力で、あの人を『道具』じゃなくすることだって、できるのか……?)
それは、呪縛に囚われたシスターの檻を暴き、自分だけのものにしたいという、1年C組の少年の胸の内に静かに、けれど激しく灯ってしまった、新たなる歪な執着の火種だった。
心操くんは年上の女性に弱いとみた。