限界は、思ったよりも早くやってきた。
自覚よりも先に肉体の悲鳴として訪れたそれは、強固な私の意思と反し、あまりにもあっさりしていた。
いつものように鉄のベッドへ横たわり、いつものように『健康診断』という名の搾取を受ける。
私の腕を切り裂いたメスが、いつの間にか、肉に食い込む冷たさすら感じさせなくなっていた。
痛みの感覚が麻痺しているわけではない。
度重なる『死と再生』の強要によって、私の神経そのものが、これ以上の苦痛を受け入れることを拒んで、焼き切れてしまっているのだ。
「……は、ぁ、っ……」
呼吸をするたびに、胸の奥がひどく熱く、そしてスカスカと冷たい風が通り抜けるような錯覚を覚える。
「い…っ…」
傷は一瞬で治る。
血も、公安の用意した特殊な栄養剤によって無理やり造り出される。
表面上はどこにも異常のない15歳の少女。
けれど、私の『個性の器』は、もうとっくにひび割れていた。
自分の意思とは関係なく、ただ目の前の白衣の大人たちを失望させないために、そしてあの暗い地獄へ戻らないために、私は『ハイド』の境界線を綱渡りのように歩き続けている。
しかし最近は個性を発動させるたびに、指先が凍りついたように冷たくなり、自分の魂がずるずると体から抜け落ちていくような恐怖に襲われる。
(……ああ、今日はいつもより、体が重い……)
検査が終わって自室に戻ると、私は泥のようにベッドへ倒れ込んだ。
(息ができない…)
指一本動かす気力が湧かない。
どれだけ毛布を被っても、骨の髄から這い上がってくるような寒気が止まらなかった。
ガラスの向こうで、研究員たちが眉をひそめて囁き合っていた声を思い出す。
『マズいな、サンプルの精神と肉体の調和が崩れかけている』
『個性の過剰駆動によるリバウンドか』
『器が壊れては元も子もない』
『一度、実験の頻度を落とせ。精神的、肉体的な安定を最優先する環境へ移す必要がある』
彼らの焦る声を聞きながら、私は毛布の中で、そっと自嘲気味に目を伏せた。
(お優しいことで)
心配されているのではない。
彼らはただ、貴重な『最高機密(おもちゃ)』が、使い物にならなくなるのを恐れているだけだ。
そんなこと、とうに分かっている。
分かっていて、私は今日も「何も気づいていないお人形」のフリをして、彼らの言葉を頭の中で削ぎ落とした。
限界だった。
このままここにいれば、いつか私の心は完全に死んで、ただ呼吸をして再生を繰り返すだけの肉塊になってしまう。
そんな、自ら選んだはずの「真っ白な平穏」の終わりを予感していた、ある日の午後。
私の部屋の重い扉が、いつもとは違う、どこか静かで、穏やかな音を立てて開いた。
「初めまして、迷子のお嬢さん」
「…?」
「……ずいぶんと、寒い場所にいるのだね」
そこに立っていたのは、公安の冷徹な大人たちとは明らかに異なる、白髪の細身の老人だった。
その声は驚くほど低く、そして毛布の隙間から染み込んでくるように温かかった。
私がゆっくりと顔を上げると、そこに立っていたのは、公安の職員たちが着るような冷たい制服でも、研究員たちの白い衣でもない、酷く古びた漆黒の法衣をまとった老人だった。
細身の体に、雪のように真っ白な髪。
そして何より、その目元や鼻筋には、この国の人々とは明らかに異なる異国の面影が色濃く混ざり合っている。
研究員たちの、獲物を見定めるような視線とは違う。
老人はただ、壊れ物をそっと見つめるような、酷く痛ましそうで、けれどどこか慈愛に満ちた瞳で私を見ていた。
「……どなた、ですか」
ろくに呼吸もできないなか、私は言った。
聞きとりにくいだろうに、その老人は私の言葉を聞き取れたようだった。
「私の名はエリアス。エリアス・神代という」
「昔、君のいるこの組織で、少しばかり泥水をすすっていた男さ。今はただの、うらぶれた街の神父だよ」
神父。
教養の授業で習った、神の教えを説く人。
老人は、鉄のベッドの脇にある硬い丸椅子に、自身の細い体をゆっくりと預けた。
その拍子に、彼の胸元から鈍い銀色の十字架――ロザリオが、チリンと小さな音を立てて揺れる。
「君の『健康診断』の記録を見せてもらった。ずいぶんと、手荒な扱いをされてきたようだね」
「いえ…皆様、とても親切にしてくださいます」
「…ほう」
「お腹が空けば食事をくださいますし、お薬も、お菓子も……。私が皆様のお役に立てているのなら、それで」
私はいつものように、心の肌に触れる大人の打算をわざと無視して、お人形のように綺麗な敬語を紡いだ。
私は「おめでたい良い子」でいなければならない。
そう自分に言い聞かせるように。
けれど、エリアス神父はそんな私の言葉に、ただ静かに首を振った。
「嘘をつかなくていい、お嬢さん」
「君の目は、すべてを知りながら、自らその心を殺して騙されにいっている、とても哀しい目をしている」
ドサリ、と。
私の胸の奥で、何かが崩れ落ちるような衝撃があった。
(どうして)
――見抜かれた。
公安のどんな優秀な研究員も気づかなかった、私の「わざと無視している」という、一番醜くて卑怯な心の裏側を、この老人は初対面で一瞬にして暴いてみせた。
「……私の、何がわかるというのですか」
私の声から、いつもの丁寧なお行儀の良さが消え、ひどく冷たい地声が漏れ出た。
けれど、神父は怒るどころか、優しく目を細めて、自身の白衣の袖をゆっくりと捲り上げた。
そこにあったのは、おぞましいほどの古い傷跡の数々だった。
刃物で切り裂かれたような痕、火傷の痕、そして歪に引き連れた皮膚。
私の『治癒』が瞬時に消し去ってしまうような悍ましい傷痕が、老人の細い腕を埋め尽くしていた。
「私の個性はね、人の傷をほんの少しだけ、肩代わりして直せる程度の酷く小さな異能だ……そして見ての通り、私はこの異国混じりの外見をしている。まだ『個性』というものが世間に受け入れられていなかった頃、私はこの見た目と中途半端な異能のせいで、数え切れないほどの迫害を受け、化け物だと石を投げられ、傷つけられて生きてきた」
神父は自嘲気味に笑い、そっと袖を戻す。
「だから分かるのさ。傷つけられる恐怖も、世界を呪いたくなる絶望も……そして、それら全てから身を守るために、心を凍らせて『良い子』の仮面を被るしか中り得なかった、君のその痛みがね」
老人の手が、私の毛布の上から、そっと重ねられた。
その手は驚くほどに温かく、そして、これまで私に触れてきたどの注射器やメスよりも、優しかった。
「ここは君のような優しい子がいていい場所じゃない」
「どうして…」
「…私の教会へおいで、お嬢さん。あそこには、君を切り刻むメスも、数字で値踏みするガラスも、何もない。ただの、静かな神様の家だ。そこで、凍ってしまった君の心を、もう一度ゆっくりと温め直すといい」
周囲の声をわざと無視して、騙されたフリをしてすがりついていた、真っ白な檻。
そこから私を連れ出そうと差し伸べられた、傷だらけの、けれど本物の優しさに満ちた手。
私の封印された『空っぽの心』はまだ動かない。
けれど、私の目からは、自分でも理由の分からない涙が、一筋だけ静かに流れ落ちていた。
エリアス神父様が私の部屋を訪れた、翌日のこと。
「荷物はそれだけで全部かい? 」
「はい、エリアス神父様。元々、私のものは何もありませんでしたから」
施設からあらかじめ用意されていた、数冊の教科書と数着の着替え。
それだけが詰め込まれた小さな鞄を胸に抱き、私は住み慣れた真っ白な自室のベッドに腰掛けていた。
神父様は「手続きをしてくるから、ここで少し待っていておくれ」と優しく私の頭を撫でると、白衣の研究員に連れられて、廊下の奥にある重厚な応接室へと入っていった。
静まり返った部屋の中で、私は一人、お行儀よく背筋を伸ばして待つ。
分厚い壁の向こうで、一体どのような大人の会話が交わされているのか、今の私には知る由もなかった。
――まさか、その部屋の机の上で。
私の肉体を「実験動物」ではなく「委託管理される最高機密(サンプル)」として扱うための、冷徹な契約書が交わされているなんて。
神父様が私の『救世主』としてではなく、公安委員会から公式に命令を下された『監視役』として署名させられているなんて、この時の私は一ミリも、これっぽっちも気づいていなかった。
『いいですか、神代神父。名目は保護ですが、彼女は未曾有の危険個性の保持者だ。外界に存在が漏れることは許されない。定期的な健康診断のデータ提出、および監視報告の義務を怠れば、即座に彼女を強制回収する』
『……ああ、承知しているよ』
『もし過去の記憶がフラッシュバックし、個性が暴走して第二の災厄を引き起こす兆候があれば、即座に君の権限で――あるいは我々の手で『処理』を行う。飼い犬に手を噛まれないよう、丁重に見張ることだな』
そんな、吐き気がするほどに冷酷な公安の大人たちの脅迫を。
神父様がたった一人で、私に聞こえない裏の部屋で、すべて背負い込んでくれていたのだということを、私は何も知らなかった。
カチャリ、と。
静かに部屋のドアが開く。
「お待たせしたね。さあ、行こうか。私たちの家へ」
戻ってきた神父様は、少しだけ疲れたような顔をしていたけれど、私を見るとすぐに、昨日と変わらない聖母のような、本当に優しい微笑みを浮かべてくれた。
その差し出された傷だらけの手を、私は迷わずに、小さな両手でぎゅっと握りしめる。
「はい、神父様。よろしくお願いいたします」
幾重もの電子ロックが解除され、施設の重苦しい鉄の扉が私の背後で閉じていく。
初めて浴びた外界の風は、真っ白な部屋の空気とは違って酷く雑多な匂いがして――そして、涙が出るほどに、生温かかった。