休日の賑やかな巨大ショッピングセンター。
行き交う人々が楽しげに笑い合うその雑踏のなかで、祈は完全に立ち往生していた。
「……お洋服というものは、これほどまでに種類があるのですね」
現在の彼女の出で立ちは、いつもの厳格な黒い修道服ではない。相澤やミッドナイトから「動画のこともあるし外へ出る時は少しは目立たない格好をしなさい」と注意され、公安から支給されている生活費決済用のクレジットカードを手に、自ら用意した私服だった。
上は汚れ一つないシンプルな白いシャツ。下は、店員に勧められるがままに購入した、ふわりと広がるベージュのフレアスカート。
首元には、修道服の襟がない代わりに、公安の冷たい黒い電子首輪が隠しきれずに傲慢に鎮座している。本人は完璧に一般人へと「擬態」したつもりだったが、長年の監禁生活がもたらした世間知らずな佇まいと、レースのヴェールを外したことで完全に露わになった神様すら嫉妬するほどの圧倒的な美貌のせいで、周囲の買い物客からは「どこかのモデルか女優か……?」と別の意味で凄まじく目立っていた。
「服を選ぶという行為に、どのような合理性があるのでしょうか……。皆様をお支えするために、最も目立たない色を選んだつもりなのですが」
マネキンを真面目な顔で見つめながら、ブツブツと狂気的なまでの完璧主義でコーディネートに頭を悩ませる祈。普段着も修道服で事足りると思っていたのだが、どうやらほかのみんなはそうではないらしい。お洒落着、という概念がないため、やはり機能性を重視してしまうのだった。
その、白昼の商業施設にはあまりにも不釣り合いな、神聖で、どこか現実離れした儚い背中を見つめ、思わず足を止めた女性がいた。
白い髪に、赤いメッシュ。
手に食材の入った買い物袋を抱えたその女性――轟冬美は、祈の背中を見た瞬間、その心臓を直接掴まれたかのような激しい衝撃に目を見開いた。
その、どこか世俗から切り離されたような、白く美しい佇まい。
今はお見舞いでしか会うことのできない、病院の静かな部屋で一人静かに佇んでいた、あの最愛の人の面影。
「……あれ……? お母さん……?」
冬美の口から、掠れた声が自然と漏れ出た。
あり得ない。母は今も病院にいる。年齢だって、目の前の女性はどう見ても自分と同じか、少し若いくらいの二十代の姿だ。分かっているのに、その纏う空気があまりにも酷似していたせいで、冬美は吸い寄せられるように祈の後ろ姿へと声をかけてしまっていた。
「え……?」
声をかけられた祈がゆっくりと振り返る。
薄いレースの網目の向こうではなく、今度は遮るものもなく露わになったその人間離れした美貌と、夕面のように穏やかで、しかしどこか感情の死んだ美しい瞳が、冬美を真っ向から捉えた。
「っ、あ……! ご、ごめんなさい! 人違いでした……っ!」
冬美は顔を真っ赤にして、慌てて両手を振って頭を下げた。
近くで見れば見るほど、母とは違う。シワ一つなく、まるで現世の理から切り離されたかのような美。だが、その瞳の奥にある、他者への濁りのない博愛の光は、やはりどこか自分の知る母の面影を連想させるものがあった。
「いいえ、お気になさらないでください。……轟、冬美様、ですね」
「えっ……? どうして、私の名前を……?」
冬美は目を丸くした。名乗ってもいないのに、自分の素性を正確に言い当てられた驚き。
祈はすでに、雄英の全生徒のデータ――すなわち、1年A組の轟焦凍の家族構成や、その姉である冬美の顔写真と経歴に至るまで、すべて公安の機密情報経由で完璧に頭に叩き込んでいたのだ。だが、彼女にはそれが一般の人間にどれほどの不気味さを与えるかという客観的な視点が欠落していた。
「私は雄英高校の救護補佐を務めております、神代祈と申します。焦凍くんにはいつもお世話になっておりますので」
「あ、焦凍の……! 雄英の先生、だったんですね……!」
冬美はホッと胸を撫で下ろした。焦凍の学校の関係者なら、家族のデータを知っていてもおかしくはない。
「お母さんに見間違えちゃって、本当に失礼しました」
そこで冬美は、祈が手にしたクレジットカードと、目の前にある膨大なレディース服の棚、端正な姿勢のまま微かに小首を傾げている彼女の雰囲気に気がついた。
持ち前の面倒見の良さと、少しのおせっかいが冬美のなかで発動する。
「あの……神代先生、もしかして何かお買い物、迷われてます? もしよかったら、私に少しお手伝いさせてもらえませんか?」
「え……? 冬美様にお時間を取らせてしまうのは、非常に不合理ですが……」
「不合理だなんて気にしないで! 夕飯の買い物、まだ時間に余裕がありますし、何よりいつも弟がお世話になっている先生のお手伝いができるなら楽しいですから!お洋服ですか? そのベージュのスカート、すっごく似合ってますよ。これに合わせるトップス、一緒に選びましょ!」
冬美に少し強引に腕を引かれ、祈はほんの少しだけ驚いた。感情を抑えて、ただ淡々と与えられた仕事をこなすことだけを考えて生きてきた彼女にとって、冬美の純粋な親しみと暖かさは、計算式にはない未知の温もりだった。
「まずね、神代先生。その白いシャツもシンプルで素敵だけど、かっちりしすぎてお仕事着みたいに見えちゃうの。普段着なら、もう少し柔らかい印象のものがおすすめですよ。たとえば……これ! このサックスブルーのブラウスなんてどうですか?」
冬美がハンガーから取り出したのは、淡い水色のとろみのあるブラウスだった。
「ブルー……ですか。救護員として、前線での血痕などの汚れが目立ちやすい色は避けるべきかと思われますが……」
「もう、お仕事のことは忘れてください! お洒落着です! このブルーなら、先生の綺麗な髪にも映えるし、今のベージュのスカートと合わせると一気に優しくてオシャレな雰囲気になるんです。ほら、鏡の前で当ててみて!」
「はぁ……なるほど、色彩の調和というわけですね。確かに視覚的な負担は少ないかもしれません」
(……視覚的な負担? なんだか、感想の言葉選びが凄く独特な先生だな……)
冬美は鏡の前でブラウスを真面目に分析する祈を見つめながら、心の内で小さく首を傾げた。
(それに……焦凍の学校の先生だって言ってたけど、どう見ても私と同じか、下手したら私より若く見える。それなのに、この浮世離れした落ち着きはなんだろう。さっき私の名前を呼んだ時の声も、まるで全部知っているみたいに淡々としていて……。お母さんに似ていると思ったけど、なんだか、生きている人間っていうより、精巧に作られた美術品を前にしているみたいな、不思議な冷たさがある……)
そんな冬美の微かな戸惑いを知る由もなく、祈はきょとんとした顔で次の棚を見つめている。冬美はすぐにいつもの笑顔を取り戻し、お節介を再開した。
「じゃあね、次はガラッと雰囲気を変えて、このネイビーのサマーニットはどうかな? 縦のラインが入ってるから、先生のスタイルの良さがもっと引き立つし、ベージュと合わせるとすごく大人っぽくて上品になるんですよ」
「大人っぽい、ですか。私の実年齢からすれば、これ以上は不要かと思いますが……」
「え? これ以上って……ふふ、先生、そんなに若くて綺麗なのに面白いこと言うんですね。女性はいくつになっても、その年齢に合わせた大人っぽさを楽しんでいいんですよ?」
「いくつになっても……ですか。時間の感覚が人と違うので、少々難解な概念ですね」
祈はヴェールのない素顔のまま、ひどく淡々と、しかしどこか遠い目をして呟いた。
「え……? 時間の感覚……?」
冬美はその言葉に、胸が締め付けられるような奇妙な感覚を覚えた。冗談にしては、彼女の瞳があまりにも平坦で、嘘を言っているようには見えなかったからだ。
「いいえ、独り言です。冬美様のトレンチコートなどの組み合わせ、機能性の面でも着回しという『効率化』が期待できそうです」
「あ、あはは……先生、本当に個性的で面白いです!」
冬美は無理に明るい声を出しながら、祈のネイビーのニットや、上品なレースのカットソーを次々とカゴに入れていった。監禁生活のなかでは絶対に触れることのなかった、外の世界の暖かで色鮮やかな時間。
「先生、身長も高いからなんでも似合いますねぇ…」
「そう、ですか?いつもと違う系統の服なので、似合っているかというのはあまりわからないのですが」
「ええっ、もったいない!じゃあこれなんてどうです?」
店を変え、アクセサリーを見たり、靴を合わせたり。
祈としてはとても助かるのだが、あまりにも冬美が楽しげなため、そのままにしていた。
「うん! やっぱり思った通り、何を着てもすっごく綺麗! なんだか私が着せ替え人形を楽しんじゃってるみたいでごめんなさい」
「いいえ、冬美様。お洋服の明確な基準と合理性を教えていただき、非常に助かりました。ありがとうございます」
祈はいつもの穏やかな笑みを浮かべ、冬美が選んでくれた服の袋をそっと胸に抱いた。
その首元に嵌められた黒い電子首輪が、夕方の店内の照明に反射して不気味に黒光りしている。冬美はその異物感に息を呑み、胸の奥で渦巻く違和感を抑えきれずに、そっと尋ねた。
「あの……神代先生。その、首についている黒いもの……それって……?」
「これですか? これは、私を世界に繋ぎ止めるためのお守りのようなものです。お気になさらないでくださいね」
祈は首輪に触れることもせず、ただいつも通り完璧に綺麗な微笑みを返すだけだった。その朗らかな雰囲気のなかにある、異物。自分の身に起きている不条理を「当たり前」として受け入れているような歪な佇まいに、冬美はそれ以上深く踏み込むことができなかった。
「……そ、そうですか。それじゃ、私、これで! 弟のこと、よろしくお願いしますね、神代先生!」
冬美はペコリとお辞儀をすると、どこか後ろ髪を引かれるような、割り切れない思いを抱えながら雑踏の中へと消えていった。
一人残された祈は、買い物袋と、自分のベージュのスカートをじっと見つめ、小さく首を傾げた。
(皆様、本当に不思議な方々ですね……。私のような存在に、どうしてこれほどまでの温もりを向けるのでしょうか……)
完璧に擬態したはずの白昼のショッピングセンターで、静かに交錯した秒針。
この轟家との暖かな、しかしどこか歪な一幕が、のちに焦凍やエンデヴァー、あるいは世界を巻き込むさらなる因縁の引き金になるとは、まだ誰も知る由はなかった。
◇
その晩、祈は夢を見た。
ひどく懐かしい、けれど、もう二度と戻る合図のない、遠い過去の夢。
真っ白な地下の檻ではなく、まだ自分が世界に存在することを許されていた頃の、穏やかな光に満ちた光景。夢の中の彼女の周囲には、今や記憶の彼方、あるいは歪な形でしか繋がっていない人々の姿があった。
厳格でありながらも、いつも自分を優しく見守ってくれていたエリアス神父。
まだ泥水に塗れる前、二十代の若さで、自分のために虎視眈々と未来を切り開こうとしていた若き日の筑紫聡。
そして、金色の瞳を爛々と輝かせながら、祈と手を繋ぐ幼い頃の啓悟。
みんな、笑っていた。
ハイドによって心の奥底に封じ込められたはずの、あの愛おしい記憶のパズルが、夢のなかでだけは完璧な形を成して、彼女を包み込んでいた。
そして―――。
その光の輪の特等席に、大柄な体躯を揺らしながら、誰よりも不器用で、誰よりも純粋な光を放って、自分の名前を呼ぶ男の背中があった。
(……だれ……?)
祈の口から、現実の世界では決して零れることのない、優しく、そして切ない名前が音もなく漏れ出そうになる。
だが、彼女がその背中に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。首元をジリジリと灼くような、悍ましい激痛が走る。
『――お前はただの、スペアだ』
冷徹な、自らの内なる呪縛の呪文が脳裏を支配する。
一瞬にして世界はひび割れ、エリアス神父も、筑紫も、幼い啓悟も、そして最愛の男の背中も、すべてが真っ白な地下室の冷たい壁へと変貌し、現世の理の中に溶けて消えていった。
「……ん、……あ……」
パチリ、と祈は夜の闇のなかで目を覚ました。
公安から与えられた無機質な一軒家のベッドの上。窓からは静かな月光だけが差し込んでいる。
そっと首元に手をやると、そこには昼間冬美に見咎められた、冷たい公安の黒い電子首輪が、規則正しく赤く明滅していた。電流は流れていない。だが、夢の中の感情の揺らぎに反応した抑制器が、微かな警告を告げていたのだ。
「……不思議な夢を、見ましたね」
祈はベッドの上に端正な姿勢で座り直すと、昼間、冬美と一緒に選んだネイビーのニットやサックスブルーのブラウスが綺麗に畳まれている机を見つめた。
エリアス神父に教え込まれた、完璧な博愛のシスターとして振るう人格。
だが、あの日常の少しの温もりが、彼女の心にかけられた冷たい氷の鍵を、ほんの一瞬だけ狂わせてしまったのかもしれない。
「ふがいない…これではスペアとしての役割が果たせません…。私は皆様をお支えする、完璧な道具なのですから。あのような未熟な幻影に、揺らいでいる場合ではありませんね」
ヴェールのない素顔のまま、いつもの穏やかで非の打ち所がない微笑みを夜の闇に浮かべながら、祈は深く、静かな溜息を吐き出した。
消え去った夢の灯火と、彼女の首を絞め続ける公安の黒い鎖。
「でも―――とても嬉しかった」
夢の中で得た温かな気持ちを抱きしめて、祈は再び眠りについた。