林間合宿を目前に控えた、ある日の放課後。
1年A組の生徒たちが合宿の買い出しのためにショッピングモールを訪れ、それぞれ賑やかに散っていくなか、祈はそれとは全く別のフロアにある、少し落ち着いたカフェテラスの前に佇んでいた。
今日の彼女の服装は、以前に轟冬美と選んだサックスブルーのブラウスに、ふわりとしたベージュのフレアスカート。レースのヴェールがない代わりに、白い首筋には公安の冷たい黒い電子首輪が隠しきれずに傲慢に鎮座している。本人は完璧に一般人へと擬態しているつもりだったが、相変わらず浮世離れした圧倒的な美貌のせいで、周囲からは別の意味でめちゃくちゃ目立っていた。
「……メニュー表の文字列が、非常に難解ですね。フラペチーノ……エクストラホイップ……チョコソース追加…キャラメル…ソース?これは、どのような注文方法なのでしょうか…先ほどの方々はなにやらメニューに載っていない言葉を発しておられましたが…」
レジの前で真面目な顔をしてフリーズしている祈。
長年の監禁生活のせいで、彼女の常識は現代のカフェの呪文のような注文システムに全く追いついていなかったのだ。
そんな彼女の無防備な背後に、音もない悪意の影が忍び寄る。黒いフードを深く被り、狂気的な手つきで首筋をガリガリと掻きむしりながら近づいてきた男――死柄木弔は、その不気味な五本の指を、祈の華奢な肩へと容赦なく伸ばした。
ガチリ、と四本の指が彼女の肩に触れる。あと一本触れれば、触れたものを粉々にする『崩壊』の個性が発動する、絶体絶命のコンタクト。
「……見つけた。なぁ、お話しようぜ、聖女様。声を上げたら、この街の有象無象ごと、お前をここでバラバラのチリにする」
死柄木のフードの奥から、ドロドロとした殺意と、ステインの動画を見て以来募らせていた「最悪の執着」が混ざり合った、耳障りな声が響く。
(そうだ……怯えろ、絶望しろ。ステインのクソ野郎があの日、路地裏で唯一言葉を失った『不老の聖女』。雄英の鳥籠に保護されて、綺麗に澄ました面の裏に、どれほどの綺麗事が詰まってるのか、暴いてやる――)
死柄木は愉悦に口元を歪めた。
だが、祈は恐怖に震えるどころか、ゆっくりと端正な動作で振り返り、死柄木の顔をじっと見つめた。
「死柄木弔様、ですね。私に何かご用でしょうか? 申し訳ありませんが、ただいまこちらの調達の手続きに手間取っておりまして……」
「……は? お前、俺が誰だか分かってんのか? ヴィラン連合の――」
「はい。拝見しております。それよりも死柄木様、不躾ながらお伺いしたいのですが……この『キャラメルフラペチーノ』というものを注文する際、トールとグランデ、どちらのサイズが私の体の大きさに対して水分補給として合理的だと思われますか?」
「…………は?」
死柄木は、生まれて初めて見るタイプの会話の通じなさに、脳の処理が完全に停止した。
なんだこいつ。……おい、待て、マジで何を言ってるんだ……!? 恐怖? 警戒? 1ミリもねえじゃねえか。指名手配犯を目の前にして、大真面目な顔してスタバのサイズ選びの相談……!? 冗談、だよな? 脳みそのバグか?)
「私には、この外の世界のシステムが少々複雑すぎまして……。先ほどからレジに向かうタイミングに失敗し続けているのです」
「……お前、マジで言ってんのか? 脅しじゃねえんだぞ、今すぐここでお前を崩壊させてやろうか?」
「崩壊? いいえ、私はいつでも、皆様をお支えするために真剣でありたいだけなのですが……」
全く悪びれることなく、夕面のように穏やかで、しかしどこか感情のズレた瞳で死柄木を見つめる祈。
五本の指を今にも突き立てようとしていた死柄木だったが、彼女の瞳に恐怖という概念が最初から全く欠落しているのを間近で浴び、怒りを通り越し、完全に「お前マジかよ……」と引いてしまい、肩に置いていた手を思わず引っ込めてしまった。
「チッ、調子が狂うな……。おい、そこの席につけ。俺が注文してやるから」
「……っ! ありがとうございます、死柄木様。大変助かります」
(チッ……殺す価値もねえ天然ボケかよ。だが、あの動画の目が、言葉が、ただの勘違いだったとは思えねえ。……クソ、なんなんだよこいつは……!)
結局、世界の破滅を企むヴィランの首領が、世間知らずな不老の聖女をエスコートする形で、二人はカフェのテラス席へと着席することになった。
死柄木が不気味な顔で適当に買ってきた、甘ったるいフラペチーノが二つの机に置かれる。
祈は「これが外の世界の飲み物ですか……」と、ストローを真面目に見つめながら、一口含むみヴェールのない素顔のまま、どこか上機嫌に微笑んだ。
「甘くて…美味しいですね。糖分の補給として、非常に優秀な数値です」
「……お前さ、動画で随分と上等な本音を吐いてたじゃねえか。ヒーローの善意を搾取するな、って。ステインのクソ野郎がお前に見惚れてた理由を確かめにきてやれば、中身はただの一般常識ゼロの人形かよ。拍子抜けだ」
死柄木がガリガリと首を掻きむしり、ストローを乱暴に咥えながら吐き捨てるように言う。
「うげ、甘ったりぃな」
「一般常識ゼロ、ですか。私はただ、救護員として合理的に行動しているだけなのですが……」
「ふーん、合理ねぇ。じゃあ、お前がその首に嵌めてる不気味な首輪は何なんだよ。公安の犬として、いいように飼われてるだけのシステムのおもちゃが、合理を語るんじゃねえよ」
死柄木の鋭い追求。だが、祈はフラペチーノのグラスを両手で包み込んだまま、ふっとその穏やかな笑みを少しだけ引いた。
その瞳に宿ったのは、現世の不条理をすべて見下ろすような、暗く、昏い、どこか虚無に満ちた眼光だった。
「人形……。ええ、確かにそうかもしれません。……けれど、人を助けたいと本気で行動している方々が、自分の手を汚さずに私腹を肥やすような輩の手のひらの上で都合のいいように消費され続ける……そんな歪んだ現世の理は、やはり間違っていると思うのです」
その言葉。その一瞬だけ漏れ出た、世界を冷徹に見下ろすような、圧倒的な怨嗟の気配。
死柄木は、その彼女の瞳の奥にある決定的な歪みを至近距離で浴びた瞬間、背筋にゾクりと狂気的な戦慄が走るのを感じていた。
(――これだ。これだよ。見間違いじゃなかった。……なんだこいつ、話は通じねえし頭はおかしいが、最高に面白いじゃねえか……!)
死柄木はフードの奥で、その歪んだ口元を歓喜に歪めて低く笑った。彼の脳内で、濁った思考が急速に、しかし狂気的な方向へと組み上がっていく。
(そうだよ。こいつの言っていることは、俺のやりたいことと根本は同じだ。人を救う光の裏で、その善意の汁を吸って太ってる汚いお偉いさんども……社会のシステムそのものへの憎悪。……ハッ、アハハ! ヒーローのサポーターのツラして、こいつ、一歩間違えたらヴィラン側に引き込めるんじゃねえか……!? オールマイトを絶望させるための道具にするつもりだったが、そんなことより、こいつを俺たちの側に引きずり落としたら、どれほど面白いか……!)
胸の奥が、今までにないほどドクドクと熱く脈打つ。
いつもの、ただ世界を壊したいという破壊衝動ではない。壊した後の世界に、あるいはこの世界から強引に奪い去って、自分のすぐ隣に置いておきたいという、底暗い独占欲。
(……待てよ。俺は、何を考えてるんだ?)
死柄木はふと、自らの胸のざわつきに気がつき、ハッとして首を掻きむしる手を止めた。
傷だらけの指先が、微かに震えている。
画面の向こうの彼女を見た時も、保須市での彼女を思い返した時も、ただ「先生の邪魔になるバグを壊す」ための標的としてしか見ていなかったはずだ。それなのに、今、目の前で自分の買ってきたフラペチーノを美味しそうに啜り、自分に向かって「親切な人」とズレた感謝を向けてくるこの不老の聖女から、どうしようもなく目が離せなくなっている。
(俺が……こいつに、惹かれてる……? 冗談じゃねえぞ。俺は世界を壊すヴィランだ、こんな人形の女一人に……。だけど……チッ、クソ、意味が分かんねえ……!)
生まれて初めて経験する、利己的な他者への執着。
死柄木自身すら全く自覚していなかった、彼の心の奥底にある少年の部分が、神代祈という「世界に拒絶された美しいバグ」に、どうしようもない速度で魅了されていたのだ。
――そして、その芽生えたばかりの感情は、彼の「根幹」をも歪に揺らし始めた。
(……先生。俺は、先生のために世界を壊す。先生の言う通りに……。けど、どうして、俺は今、先生の命令よりも、こいつをここに引き止めたいと思ってんだ……?)
脳裏をよぎる、自分を育ててくれた「先生」への絶対的な服従の心。
その忠誠心に、今までにない微かな、しかし決定的な『違和感』が染み込んでいく。
自分は何のためにここにいる。自分を縛るこの憎悪の鎖は何だ。
死柄木弔という名前の奥底から、かつてすべてを失ったあの日に置き去りにしてきたはずの、幼い『志村転弧』としての純粋な人間としての感情が、激しい痛みを伴って頭をもたげ始める。
(あ、頭が痛ぇ……! 何なんだよ、クソが……ッ!)
激しい内面の葛藤と、無自覚な恋情の拒絶反応。
死柄木は息を荒くし、激しく首筋を掻きむしりながら、苦しげに机に突っ伏した。
「……死柄木様? 額から、冷や汗が酷いですよ。顔色も……あちこち酷く肌が荒れてしまっています」
その様子をじっと見つめていた神代が、レースのヴェールのない素顔のまま、ひどく純粋な博愛の瞳で死柄木を案じるように覗き込んできた。
「具合が悪そうですね、大丈夫ですか? 少し、失礼いたします。私の個性であれば、その痛みを――」
祈がそっと、自身の白く美しい手のひらを、死柄木の額へと伸ばしようとした、その瞬間だった。
「触るんじゃねぇよ……っ!!」
死柄木は、弾かれたように祈の手を激しく振り払った。ガタッと椅子が大きな音を立てる。フードの奥の瞳は、これまでにないほど激しくおののきに揺れていた。
それは、拒絶の暴力を振るったわけではなかった。
死柄木自身、自らの行動に一番驚愕していた。
五本の指で触れれば、相手を塵にしてしまう自分の呪われた個性。
無防備に近付いてきた彼女に、もし、自分の指が五本とも触れてしまったら――。
死柄木は無意識のうちに、自分の悍ましい『崩壊』の力から、神代祈という存在を「本能的に守ろうとして」、その手を全力で遠ざけていたのだ。
(俺が……今、こいつを、守った……? 壊すんじゃなくて、触れたら消えちまうからって、遠ざけたのか……!? 俺が……っ!?)
信じられない自らの行動に、死柄木は呆然と自らの手を見つめた。
そんな、自分自身の狂気的な変化にパニックを起こしている死柄木を前に、祈は振り払われた自らの手をそっと胸元に引き戻すと――優しく、いつも以上に穏やかで深い微笑みを、その美しい顔に浮かべた。
「……やはり、優しい方でしたね」
「な……っ」
「ただ世界を壊したいだけの方なら、そのようなお顔はなさいません。死柄木様、お茶の注文を教えてくださったこと、および、私を傷つけないように配慮してくださったこと……心より、感謝いたします」
まっすぐに自分に向けられる、濁りのない博愛の光。
死柄木はもう、何も言い返す言葉を持たなかった。
「それでは、合宿の準備がありますので、私はこれで失礼いたしますね。本日はありがとうございました」
祈は満足げに空になったグラスを持つと、サックスブルーのブラウスを揺らし、お行儀よく端正なお辞儀をして、静かに雑踏の中へと去っていった。
一人残されたテラス席で、死柄木は激しく脈打つ胸を押さえながら、彼女の去った残像をいつまでも睨みつけることしかできなかった。
「優しい、だと……? ふざけんな、俺は世界を壊するヴィランだ……! だけど……クソ、だけど……あいつ、絶対に……絶対に俺のところに連れてきてやる……ッ!」
「先生への服従」という絶対の秒針が狂い始め、失われたはずの「志村転弧」の残影が彼女への狂気的な恋情となって深淵の底で暴れ出す。
同じショッピングモールの別のフロアで、緑谷が死柄木の本体に遭遇して絶望しているとは夢にも思わない。
――だが。
死柄木弔は、そして彼の心の奥の志村転弧は、永遠に知る由もない。
先ほど、祈の手を弾き飛ばした、あの死柄木の『拒絶』の正体を。
(……先ほどの死柄木様の異能……私の肉体を分子単位で崩壊させようとする、非常に強力な指向性のバグでしたね)
ショッピングモールのエスカレーターを静かに下りながら、祈はサックスブルーの袖の奥で、自身の白い手のひらをじっと見つめていた。
(ですが、私の肉体を常に『完治・再構成』し続けているジキルとハイドの防衛本能が、彼の『崩壊』が完全に発動する寸前にその出力を検知し、強制的に相手の手を弾き飛ばして拒絶してしまいました。私の意思とは無関係に、彼を拒絶してしまったのは少々不調法でしたね。……次からは、もう少し自律出力を抑えるように調整しなければ)
死柄木が「俺が本能的に彼女を守ってしまった……!」と甘美な絶望と無自覚な恋情に悶絶していたあの決定的な瞬間。
それは死柄木の意志による優しさなどではなく、祈の内に潜む『ハイド』の防衛システムが、死柄木の『崩壊』の危険性を察知し、物理的に強制介入して相手の手をパァンと弾き飛ばして拒絶しただけという、恐るべきすれ違いによるもの。
どこまでも狂気的な恋情を深めるヴィランの首領と、それをただのバグへの自動防衛として事務的に処理し、自分の未熟さを嘆いている不老の聖女がいたのだった。
死柄木はきっとおばあちゃんに弱い。