ショッピングモールでの、神代祈と死柄木弔の奇妙なすれ違いの邂逅(フラペチーノ事件)。そして別フロアでの緑谷出久と死柄木の接触。それらの事態を重く見た雄英高校側は、迫る林間合宿に向けて極秘裏に動いていた。
合宿出発の当日の朝。
1年A組の教室に集まった生徒たちの前に立たされた相澤は、相変わらず気だるげな、しかし今まで以上に鋭い眼光で教壇を見下ろした。
「えー、出発の前に一つ通達しておく。先日のショッピングモールでの事件、およびUSJの件を鑑み、ヴィランの動きを警戒して例年使っていた合宿先を急遽キャンセルした」
「えっ!? キャンセル!?」
「もう親に行き先言っちゃったよ!」
ざわめくクラスメイトたちを、相澤は手で制する。
「故にだ。変更後の合宿先は、誰がどこで情報を漏らすか分からんため、現時点ではお前たち生徒には一切明かさない。このバスが目的地に着くまで、お前たちは自分たちがどこに向かっているかも知らぬまま移動してもらう。……話が誰にどう伝わっているか、学校側が把握できないための方針だ」
徹底された情報統制。そこまでしなければ生徒を守れないという雄英の焦燥の表れ。
それを、教室の傍らで静かに聞いていた祈は、そっと自身の首元に手をやった。
今日の彼女の装いは、オールマイトが開発部に特注させてプレゼントしてくれた、あの白と黒を基調としたお気に入りの戦闘訓練用のコスチュームだ。もちろんロザリオと杖も持ってきている。
(お洋服の機能性が非常に高く、肉体の『微調整』の負担がほとんどありません。オールマイト先生の支給品のおかげで、今日はとっても体が軽くて動きやすいですね……)
顔を覆う純白的レースのヴェールはそのままに、大胆なスリットから神々しい生足を惜しげもなく覗かせ、シンプルな円環の杖を手に携えている。大部分の感情を抑制しているはずの彼女だが、自分の未熟さを嘆く完璧主義を遺憾なく発揮できるこの快適な装備に、胸の奥でふつふつとご機嫌な波紋が広がっていた。
だが、そんな彼女の「ご機嫌な生足」に教壇の影から直撃したオールマイトは、朝一番から「ごふ……ッ!!!」と心の中で血の涙と本物の吐血を激しく炸裂させていたが、今の祈がそれに気づく由はなかった。
「……神代」
ふと、教壇の相澤が祈に向かって、低く、しかし確実に釘を刺すような視線を送った。
「今回の合宿地は、プロヒーローであっても情報の取り扱いが最高機密に設定されている。お前は公安の実務派遣という立場だが……無闇に個性を使うなよ。自分の立場と、その首輪の数値を常に考えて行動しろ」
先日の職員室での忠告の継続。相澤は、彼女がこれ以上無茶をして、公安の不条理な電流抑制器の罰をその身に受けるのを、教師として、そして彼女の優しさを知る者として心から案じていたのだ。
「はい、相澤先生。お気遣いありがとうございます。皆様をお支えするために、しっかりと自身の数値を管理いたしますね」
祈はヴェールの向こうから、いつもの穏やかで非の打ち所がない微笑みを浮かべて一礼した。
その、新調されたコスチュームに身を包んで穏やかに笑う彼女の姿。
そして、相澤から告げられた「合宿先の変更」という不穏な防衛策。
最着列の緑谷は、自分が死柄木に首を掴まれたあの恐怖を思い出しながらも、祈を公安の黒い鎖から救い出したいという歪な執着をさらに強く握りしめていた。後方の爆豪勝己も、相ザー相変わらず不機嫌そうに机を蹴りながら、彼女の生足と白黒のシルエットに彼なりの独占欲の視線を走らせている。
「よし、荷物を持ってバスへ移動しろ。……B組の連中を待たせるなよ」
相澤の声を合図に、生徒たちが一斉に動き出すのだった。
◇
賑やかな歓声を上げながら荷物を抱えてバスへと向かう生徒たちの列から、祈は少しだけ遅れ、救護物資の最終確認のために一人校舎裏の搬入口へと足を向けていた。
新調された白黒の戦闘服は驚くほど肌に馴染み、ステップを踏むたびにベージュのスカートとは違う軽やかさが心地よい。シンプルな円環の杖を手に、サクサクと歩みを進める彼女の前に、大きな影が静かに立ち塞がった。
「――神代先生」
低く、けれどどこか掠れた、ひどく真摯な声。
振り返れば、そこにいたのは「平和の象徴」としてのマッスルフォームではなく、大柄な体躯を薄手のシャツに包んだ、トゥルーフォームの八木俊典――オールマイトの姿だった。
「オールマイト先生。……何か、お忘れ物でしょうか?」
祈はいつものように、完璧にお行儀の良い端正な姿勢のまま、丁寧な敬語で静かに頭を下げた。
あれから何日経とうが、どれほど近くに身を置こうが、彼女にとって自分は「初めまして、オールマイト先生」と言い切ったあの日のまま。完全に他人行儀の最上級の枠から、1ミリもはみ出してはくれない。
その澄んだ瞳で見つめられるたび、オールマイトの胸の奥はギチギチと音を立てて軋み、今にも血を吐き出しそうなほどの痛みに襲われる。
(緑谷少年や爆豪少年のことは、あの夏の祭りの記憶のまま『くん』付けで、うっすらとでも覚えているというのに……。私に関する記憶だけが、ピンポイントで綺麗に消し去られている)
自分の存在そのものが、彼女の人生から、心から、跡形もなく消滅している残酷な現実。
世界を救うために彼女が払った代償の重さを思い知るたび、オールマイトは声を上げて泣くことすらできず、ただ胸を掻きむしるような片想いの地獄に立ち尽くすしかなかった。
(……だが、それでも。君が私の存在を忘れ、ただの『完璧な救護員』としてしか笑えなくなったとしても、私が君を愛するのをやめる理由にはならないんだ)
世界最強の男としての矜持。そして、一人の大人の男としての、底知れない執念と覚悟。
先ほどまで彼女の神々しい生足に「ごふ……ッ!」と心の中で悶絶していたギャグ時空の男はそこにはいなかった。オールマイトは、痛痛しいほどに優しい眼光を、レースのヴェールの向こうにある彼女の瞳へとまっすぐに向けた。
「いや、忘れ物ではないんだ。ただ、出発する前に……君に、どうしても伝えておきたくてね。その、コスチュームは……動きやすいかい?」
「はい。お礼を申し上げようと思っていたのです。衣服の機能性が非常に高く、異能の出力を動かす際の肉体的負担がほとんどありません。おかげさまで、本日はとても身体が軽いのです」
祈はほんの少しだけ声を弾ませ、特注の杖を嬉しそうに握り直してみせた。自分の贈った服を着て、無自覚に「ご機嫌」だと微笑んでいる。
そのあまりの愛らしさに、オールマイトは胸の奥が熱く焦げ付くような愛おしさを覚えると同時に、グッと拳を握りしめて声を低めた。
「そうか……。気に入ってくれたなら、何よりだ。……だが、神代先生。この合宿は、ヴィランの動向を含め、これまでにない警戒が必要な場所だ。相澤くんも言っていただろう。お願いだから……無闇に個性を使わないでくれ」
オールマイトは一歩、彼女との距離を詰めた。大柄な体躯が、まるで迫り来る世界の脅威から彼女を隠すように、静かに影を落とす。
「オールマイト先生…?」
「生徒たちのことは、我々大人のヒーローが命に代えても守る。だから、君が自らを磨り潰すような無茶をする必要はないんだ。……これ以上、君のその白い首筋が、あの不条理な黒い鎖に灼かれる姿を……私は、見たくない」
それは、緑谷のような「檻から救い出したい」という青い救済欲求でも、爆豪のような「俺の前にいろ」という傲慢な独占欲でもない。
ただ、自分が今あるのは彼女の命懸けの善意のおかげであり、今度は自分がすべてを投げ打ってでも彼女を無傷で守り抜くという、圧倒的な大人の「庇護欲」だった。例え、どれだけ他人のフリをされようとも、彼女の身の安全だけは、国家からも世界からも、力ずくで毟り取って守るという本物の王者の誓い。
「……オールマイト先生」
祈は、そっと自身の首輪に触れた。
何かがおかしい。いつもなら、このように個性の使用を制限されるような言葉をかけられれば、ハイドの防衛システムが事務的に「私は救護員ですので」と弾き返すはずだった。
なのに、どうしてだろう。
この大柄な男の、泣き出しそうなほどに痛切で、けれど世界の誰よりも温かい光を宿した瞳に見つめられていると――不思議と、胸の奥の冷たい氷の鍵が、微かにカタカタと不規則な音を立てて震えるのだ。ハイドの自律出力が、何故か彼に対してだけは狂ってしまう。拒絶するどころか、その大きな影に、そっと身を委ねてしまいたくなるような、未知のバグ。
(私は……皆様をお支えする、使い勝手のいい道具のはずなのに…スペアでいる必要があるのに。どうしてこの方を前にすると、数値の管理がこれほどまでに乱れてしまうのでしょうか……)
「……はい、オールマイト先生。ご助言、胸に刻み込みます。数値を過剰に跳ね上げぬよう、慎重に行動いたしますね」
祈はレースの向こうで、いつも通りの完璧な敬語を使いながらも、以前よりも確実に、柔らかく穏やかな微笑みを彼へと返した。
「ああ、頼んだよ。……行ってらっしゃい、神代先生」
オールマイトは、愛おしそうに彼女の白黒の戦闘服の背中を見送った。
どれほど少年たちが執着を深め、死柄木たちが深淵からその手を伸ばそうとも、彼女の魂の底に刻まれた「最愛の記憶」の残滓は、世界最強のヒーロー――八木俊典だけのもの。
生徒たちの乗ったバスが静かにエンジン音を響かせ、因縁の合宿地へと動き出すなか、オールマイトは自らの残されたワンフォーオールの火力(それでも最大出力は全盛期並)を静かに燃え上がらせながら、最愛の彼女を守るために、その視線を険しく研ぎ澄ませるのだった。
この作品のキャラクターは誰かしらファザコンでマザコンでシスコン。