合宿2日目。
山の麓の広大な演習場は、夜明けと共に文字通り「生体地獄」と化していた。
「個性のキャパシティを広げる。やることはシンプル、ただ死ぬ気で使い込み、限界の壁をぶち破り続けるだけだ」
相澤の冷徹な号令のもと、1年A組とB組の生徒たちは吐血し、絶叫しながら自らの個性を限界まで酷使する猛特訓に直面させられていた。爆豪はドラム缶の熱湯に両手を突っ込んで特大の爆破を連打し、緑谷は負荷に耐えながら崖を駆け上がり、轟は炎と氷を交互に放って体温の限界を削り続けている。
その凄惨な修羅場の傍ら。
祈は円環の杖を手に携えて、生徒たちのバイタル数値を管理していた。相澤との合理的な協議の通り、今回の合宿では『死にかけるような致命傷』でない限り、彼女の光による直接の治療は行われない。健気に己の限界へ挑戦する若者を尻目に、祈は懐かしい気持ちになっていた。
(そうなんですよ、死ぬ気で使い込むことで新しい世界が見えてくるのです)
思い出したくもない訓練の日々ではあるが、過酷な毎日があったからこそ、この場に立つことができているのだ。
事故現場から救われたのはいいものの、子供のうちはサンプルとして血液を始め、髪の毛、唾液、汗、涙、胃液、爪、…と身体組織を採取され続けた。
たしかに最初は痛かった。けれど個性の防御反応なのかいつのまにか痛みは感じなくなり、泣くことや笑うことすらしなくなった。エリオス神父と暮らすようになってからある程度人間らしい感情を取り戻したとは思ったけれど、やはり一度失った感覚を取り戻すのは容易ではない。教会に遊びに来る子供たちや、筑紫や啓悟と過ごしても、どこか心は冷えていた。
二人がいなくなり再び公安の地下に放り込まれてからは、さらに酷い実験が行われるようになった。
個性の特性上即死することはないものの、「痛みの限界値を測る」「肉体の欠損はどの程度まで回復可能なのか」から始まり、ジキルとハイドが魂に宿っていると判断されるまで、科学者の欲望を満たすためのありとあらゆる拷問を受けた。即死しないぶん、モルモットよりも酷い扱いだったと思う。自身の個性の把握というよりも、他人に対してどこまで干渉できるのかという実験も多かった。もしかするとだが、クローンまで作られている可能性もある。あの地下で、祈に人権はないに等しかった。
ぼんやりと監禁時代の頃を思い出していると、マンダレイからテレパスが届いた。
「神代先生、ちょっとそこの3人のバイタル数値を見ておいて頂戴!」
「はい、マンダレイ様。ただちに記録いたします」
祈は思い出を思考の端に追いやり、いつものように穏やか微笑みを浮かべた。
(いけない、今はお仕事をしないと)
雄英高校に来てから、なんだかおかしい―――無意味なことを考える時間が増えた気がする。
生徒たちの限界に近い数値を管理していた祈の視線が、演習場の隅の岩場へと向けられた。
そこには、「くだらない。どいつもこいつも、狂ってる」と、特訓の様子を心底嫌悪するような瞳で見つめている少年――出水洸汰が、一人きりでポツンと座り込んでいた。
(あれは…)
感情の大半を『ハイド』に抑え込まれてはいるものの、孤独な子供を放っておけない深い博愛の心が、無意識のうちにその足を動かさせる。祈は戦闘服の裾を軽やかに揺らしながら、足音を消して、ゆっくりと洸汰のいる岩場へと歩み寄っていった。
「洸汰様」
「っうわぁ!!…なんの用だよ」
「このような場所で一人でいては、砂埃で喉を痛めてしまいますよ」
「……っ、あっち行けよ」
「ここにいては危ないですよ?」
「ヒーローの仲間なんて大嫌いだ、どっか行けよ!」
突然頭上から降ってきた祈の声に、洸汰はびくりと肩を揺らし、鋭い言葉で拒絶した。だが、祈はレースのヴェールの向こうから、あのお祭りの夜に幼い出久たちを包み込んだ時と同じ、いつも以上に柔らかく穏やかな微笑みを洸汰へと向けた。
ツンとそっぽを向く洸汰のその頑なな小さな背中を見つめながら、祈の脳裏には、ふっとひどく懐かしい残像がよぎっていた。
(……あ。なんだか……あの頃の、幼い啓悟くんに少しだけ似ていますね。ふふ、可愛いなぁ……)
感情を失っているはずの胸の奥で、かつて共に過ごした子供たちの面影が重なり、祈は無自覚にその慈愛の目を細めていた。
「な、なんだよ」
「いえ、別に…ふふ、懐かしい気持ちを思い出しまして」
そんな彼女の無防備な近づき方に、洸汰はスマートフォンで密かに見てしまった、あの保須市から拡散された「ステインの思想動画」を思い出していた。あの薄暗い路地裏で、世界を冷徹に見下ろしながら『その善意を搾取されるべきではない』と昏い瞳で言い放った、黒き聖女のもう一つの側面を思い出していた。
洸汰はどこか彼女の真意を確かめるような声音で、その小さな胸の内にある疑問をぶつけた。
「なぁ。あいつらはあんな馬鹿みたいに叫んで訓練してるけどさ……あんたは、どうやってその個性を使いこなせるようになったんだよ?」
「……え?」
その問いかけに、首を傾げた。
まさに先ほど思考の海に溺れていた時の情景だったからだ。表面上穏やかな仮面の裏側で、祈は冷や汗をかきながら、かつてないほどのパニックに陥っていた。
(ど、どうやって使いこなせるようになったか……!? 正直に答えてしまえば、光すら届かない真っ白な公安の地下室での六年間、抑制器から最大出力の電流を流されて肉体を骨の奥までじりじりと灼かれ、ショック死を繰り返しかけながらただ淡々と自らを再構成し続けた歴史です。その他etc…しかし、これのどこがヒーロー科の特訓ですか。ある意味で完全にR-18指定というか、あまりにもグロテスクで猟奇的な内容になってしまいます! 駄目です、こんなピュアで愛らしい少年の心に、私のそんな暗黒の歴史をそのまま叩き込めば、一生モノのトラウマという名の巨大な数値を刻みかねません。むしろさらにヒーローというものを嫌いになってしまう……ッ!!)
大好きな子供を前にして、なんとしてでも「オブラートに包んだ、安心安全な回答」を導き出さなければと、脳内で猛烈な勢いで言い換えを走らせる祈。
「どうやって、ですか……。そうですね。私は、何万通りもの個性の使い方を試して、たくさん、たくさん頑張ったんですよ」
限界まで美化し、完璧にマイルドに整えたどこまでも優しく健気な声。
洸汰からすれば、それは単なる「努力した」という大人のありふれた回答に聞こえた。
――だが、彼女の首元に嵌められた公安の黒い電子首輪が、その瞬間にピピッ、と静かに、しかし冷酷に青白く発光したのを、洸汰は見逃さなかった。電流は流れていない。だが、彼女の脳裏をよぎった過酷な記憶の残滓に、機械のログが冷たく反応していた。
(何万通りもの、使い方……。たくさん、頑張った……?)
洸汰は、彼女の首輪の不気味な光と、その穏やかな笑顔の奥にある、言葉にできないほど平坦で底知れない「世界の不条理」を直感的に察知していた。
そして、そのあまりにも濁りのない彼女の優しさが、洸汰のなかに溜まっていた、大人たちへの怒りを限界まで決壊させた。
「んだよ…」
「え?」
「……何が、頑張った、だよ……ッ!!」
洸汰は拳を強く握りしめ、顔を真っ赤にして祈を睨みつけた。その瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「どいつもこいつも、そんなに頑張って、個性を強くして、何になるんだよ!」
「 僕の、父さんも、母さんも……! 『ウォーターホース』なんて名前でさ、みんなからヒーローって持て囃されて、頑張って、頑張って……!! それで最後は、ヴィランに殺されて、僕を置いていなくなったんだ!!」
小さな身体を震わせながら、洸汰は胸の奥の叫びを真っ向から祈にぶちまけた。
「ヒーローなんて、個性を自慢して殺し合う異常者の集まりだ! 自分の子供を置いて死ぬのが『正義』だなんて、そんなの、狂ってる!! 世界中が、死ぬほど大嫌いだ……ッ!!」
両親への愛と、それ以上の深い裏切り。
社会の不条理を全身で呪う小さな洸汰の慟哭を前に、祈はただ静かに一歩進み、洸汰と同じ目線になるようにその場にしゃがみ込んだ。
「……私は、聞くことしかできませんが」
祈はそっと、自身の白い手のひらを、洸汰の震える小さな肩へと優しく添えた。
「――けれど、洸汰様。あなたがそのように傷つき、泣くほどに怒っているということは、あなたがそれほどまでに、お父様とお母様を深く愛していらしたという、何よりの証明なのですよ」
「っ、……ぅ、あ……」
「自分の手を汚さずに私腹を肥やすような輩の手のひらの上で、都合のいいように消費され続ける不条理……。あなたが彼らを理不尽だと責めるのは、当然のことです。何も、間違ってなどいませんよ」
いつもは非の打ち所がない丁寧な敬語。なのに、どうしてだろう。その声は、驚くほどに洸汰の凍りついた心の最奥へと、優しく、じんわりと染み込んでいった。
(この人、やっぱり……あの動画の通りだ。ただの綺麗な大人じゃない。この人も、この不条理な世界が、死ぬほど大嫌いなんだ……)
子供ゆえの直感は、祈の心の奥深くに眠っている、この社会への憎悪を正確に捉えていた―――
◇
猛特訓が終わり、夕食作りと祈の特製薬膳スープによる内側からの微調整を経て、合宿二日目の夜が更けていく。
緑谷は、一人で宿泊施設を抜け出し、マンダレイから聞いた洸汰の「秘密の隠れ家」である崖の上の岩場へと足を運んでいた。その手には、プラスチックの容器に入った夕飯(今日はオムライスだった)が握られている。
「……洸汰くん」
「っ、……またお前かよ。ヒーロー科の居残り組が、僕に何の用だよ」
岩場に膝を抱えて座り込んでいた洸汰は、現れた緑谷を鋭い瞳で睨みつけた。
初日にも同じように緑谷が現れ、自分の無個性だった過去や「僕にとってのヒーロー」を熱く語り、洸汰がそれを「自己満足だ」と撥ね退けたのだが…懲りずに現れた緑谷に悪態をつく。
だが今の洸汰の脳裏を支配していたのは、夕方にあの岩場で自分と同じ目線になるようにしゃがみ込んだ、祈の姿だった。
『あなたがそのように傷つき、泣くほどに怒っているということは、あなたがそれほどまでに、お父様とお母様を深く愛していらしたという、何よりの証明なのですよ』
あの自分の怒りも、世界への怨嗟もすべてを「何も間違ってなどいませんよ」と全肯定してくれた、鈴の音のように凛とした声。
洸汰は、オムライスの容器を差し出してくる緑谷の手を拒絶するように押しのけると、膝を抱えたまま、ぽつりと不気味そうに呟いた。
「……なぁ。お前、あいつのこと、どう思ってんだよ」
「え……? あいつって?」
「…シスターだよ」
「あいつ、お前たちの特訓を見て、笑顔で『何万通りもの個性を試して、たくさん頑張った』って言ってた。……でも、あいつがそう言った時、首についた黒い輪っかが、すっごく不気味に、嫌な感じで光ったんだ。僕には、あいつの笑顔が……たくさん頑張ったなんて綺麗な言葉の裏で、死ぬほど理不尽な目に遭ってきたみたいに見えた」
洸汰は自らの小さな胸元を強く握りしめ、緑谷を真っ向から見据えた。
「お前らヒーロー科は、自分の個性を強くして、有名になって、誰かにチヤホヤされるために必死に叫んでる。……だけど、あいつは違う。あいつは、人を助けるために自分のことなんか全部どうでもよくなってて……たぶん、社会が嫌いなんだ…なのに人の役に立ちたくて、頑張ってるだけなんだ。そのせいで、あの首輪で、誰かにいいように消費されてる。
……あの動画で言ってた通りだ。『その善意を搾取されるべきではない』って。あいつ、自分はヒーローなんかじゃないくせに、頑張ってるんだ」
社会の不条理を全身で呪う小さな洸汰の慟哭。
その言葉は、緑谷の胸の最奥に燻っていた、最も暗くドロドロとした部分を完璧に射抜いていた。
(違う。僕は、世界を守るためにヒーローになるんじゃない)
緑谷は暗闇のなかで、静かに自らの拳を強く握りしめた。
彼の脳裏をよぎるのは、USJで傷だらけの相澤先生を救うために自らを犠牲にし、首輪の火花に耐えて微笑んでいた彼女の姿。
そして何より――
その彼女を、誰よりも痛切な、泣き出しそうなほど優しい眼光で見つめ、命に代えても守ろうと誓っていた、自分の憧れの原点――八木俊典の姿だった。
緑谷は知っている。
自分に力を託してくれた大切な師が、かつて祈に命を救われ、その代償として、彼女の記憶から「自分だけが狙い撃ちで消去されている」という残酷な地獄を今も一人で背負い続けていることを。
(僕の人生のすべてをくれたオールマイトを、あの切ない片想いの地獄から救い出したいんだ…!)
祈への想いと、師への狂気的なまでの忠誠心と救済欲。
少しズレているような気がしないでもないが、その二つの巨大な情念が混ざり合い、緑谷の瞳の奥で、限界を突破した歪な執着の火種が激しく燃え上がる。世界を、国家を、そして彼女の記憶の理さえも全てを捻じ曲げてでも、『二人』を救い出すのだと、緑谷は心の中で静かに、深く誓った。
緑谷はそれを洸汰には見せず、ただオムライスの容器を岩場にそっと置くと、いつもの不器用で優しい笑顔を浮かべて静かに告げた。
「……うん。そうだね、洸汰くん。間違ってないよ。……僕は、まだ何もできない未熟者だけど。でも……僕は絶対に、神代先生を、誰も搾取させたりなんてしない。そのために、僕はここにいるんだ」
「……っ」
洸汰はフイッと顔を背けた。その背中は相変わらず頑なだったが、自分の言葉を真っ向から受け止め、神代祈という存在を「誰も搾取させない」と静かに誓ってみせた緑谷の横顔に、大嫌いなはずのヒーローへの拒絶が、ほんの少しだけ狂わされていくのだった。
デク、ナチュラルに歪む。