辿り着いた神様の家は、街の片隅にひっそりと佇む、古びた木造の小さな教会だった。
そこには、私を閉じ込めていた真っ白な壁も、肉体を切り刻む冷たいメスも、数字で値踏みするガラスの向こうの視線も、本当に何一つなかった。
あるのは、窓から差し込む柔らかな木漏れ日と、古い木製椅子の匂い。
指示を出す機械の電子音ではなく、エリアス神父様が淹れてくれる、少し苦くて温かいお茶の湯気だけだった。
「今日はスープを多めに作ったからね。たくさんお食べ。君の体は、もっと栄養を蓄えなきゃいけない」
「はい、神父様。いつもありがとうございます。とても美味しいです」
最初の数ヶ月、私はまだどこかで、この平穏を疑っていた。
急にドアが開いて、またあの白衣の大人たちが私を連れ戻しに来るのではないか。
神父様のこの優しい眼差しも、いつか私から血を抜くための嘘に変わってしまうのではないか。
そんな怯えが消えなくて、食事の時も、彼が部屋に入ってくる時も、私の指先はいつも小さく震えていた。
神父様にお願いして仕立ててもらった、漆黒の修道服。
私はいつも、その黒い衣装を身に纏い、さらに頭からは顔が隠れるほどの白いレースのヴェールを深く被って過ごしていた。
心の強張りが少しずつ解けてきたとはいえ、私はまだ、外の世界の「人間」と真っ直ぐに目を合わせることが怖くて仕方がなかったのだ。
相手の瞳を覗き込んだ瞬間、あの施設の大人たちの冷徹な打算や、あるいは過去の記憶の底にいる何者かのぎらついた視線がフラッシュバックしてしまいそうになる。
だから私は、薄い白いレースという「隔たり」を一枚挟むことで、辛うじて自分の心の平穏を保ち、その隙間から怯えながら世界を覗き見ていた。
そんな私の脆さを、神父様は何も言わずに包み込んでくれた。
「それでいいんだよ、その白いレースはね、君の心を外の冷たい風から守るための、優しい薄衣だからね」と。
毎日欠かさず温かい料理をテーブルに並べ、私がそれを喉に通すのを、神父様は静かな微笑みで見守ってくれた。
◇
そんな、どこか壊れ物を扱うように静かだった礼拝堂に、ある日、小さな足音が響き渡った。
「神父様ー! あそびにきたよ!」
教会の扉を押し開けて入ってくる、近所の小さな子どもたち。
彼らが私を見つけて不思議そうに近寄ってくるたび、私は無意識に身をすくめ、白いレースのヴェールをさらに深く引き下げて、彼らの視線から逃げるように目を伏せていた。
「あれー? おねえちゃん、だれ? 」
「なんでお顔を隠してるの?」
「……あ、あの……」
目を合わせるのが怖くて、レースの網目の向こうでじっと息を潜める私。
子どもたちはそんな私を気味悪がることもなく、ただ純粋な瞳で私を見上げていた。
そして、一人の男の子が、小さな手いっぱいに握りしめられた、どこかで摘んできた野花を、私のレースの裾を持ち上げるようにして差し出してきたのだ。
「これ、あげる! 白いレース、お花の妖精さんみたいでかっこいいね!」
「え……?」
戸奮して花を受け取る私の指先に、男の子の小さな、温かい手のひらが触れる。
その瞬間、レース越しに見つめた子どもの瞳には、私を値踏みするような色も、搾取しようとする悪意も、本当に一滴すら含まれていなかった。
ただただ、純粋な「親愛」の光。
神父様はそれを見ながら、「彼女は少し人見知りなのだよ。優しくしてやっておくれ」と、彼らの頭を愛おしそうに撫でていた。
毎日、毎日、飽きもせず教会にやってきては、私の黒い修道服の裾を引っ張って「おねえちゃん、お絵描きしよう!」「絵本読んで!」と懐いてくる子どもたち。
彼らの無垢な温かさに触れ続けるうちに、私はいつしか、白いレースのヴェールを少しだけ、自分の手で持ち上げられるようになっていた。
彼らの可愛い笑顔を、この目でちゃんと見つめたい、と私の心が願い始めたからだ。
気づけば、彼らの騒がしい足音が聞こえると、私の心には小さな喜びが灯るようになっていた。
◇
――そんな風に、子どもたちとの触れ合いで私の心がほぐれ始めていた、ある日の夜のことだった。
礼拝堂の掃除を終えた私は、神父様が淹れてくれた温かいハーブティーを飲みながら、ふと、ずっと胸の奥に引っかかっていた疑問を口にしてみた。
「あの、エリアス神父様」
「ん?どうかしたかな」
「私には、本当の名前はないのでしょうか」
施設にいた頃、私の書類には『被保護者・○○』とだけ書かれていた。
過去の記憶がない私は、自分が本当はなんて呼ばれていたのかを知らない。
自分の名前すら持たない空っぽの存在なのだという事実が、時折、暗い夜に私をひどく孤独にさせた。
神父様はカップを机に置き、私の寂しげな視線を受け止めると、皺の刻まれた顔をふっと和らげて微笑んだ。
「名前かい? ……そうだね。過去の名前が何であったとしても、今の君はもう、あの真っ白な部屋の『サンプル』ではない。一人の人間として、新しく歩き出すための名前が必要だ」
神父様はゆっくりと立ち上がり、祭壇の方へ歩いていくと、大きな一冊の聖書を手にして戻ってきた。
そして、私の目の前に座り、私の目を見つめながら、その静かな声を響かせた。
「君の名前はね、『祈(いのり)』にしようと思うんだが、どうだい?」
「いのり……ですか?」
「ああ。私の姓を継いで、神代 祈(かみしろ いのり)だ」
神父様は、自身の傷だらけの手を私の頭にそっと置き、祈るように目を閉じた。
「この社会はね、個性という強すぎる力に誰もが振り回され、傷つけ合い、奪い合っている。君が巻き込まれたあの凄惨な事件も、歪んだ狂信と個性がもたらした悲劇だ」
「今はまだ思い出さなくていい……でも私はね、君にはもう、誰かの都合で『神』として祭り上げられるような、そんな偽りの神様にはなってほしくないんだよ」
神父様の手の温もりが、髪を通じて私の頭の芯までじんわりと染み込んでいく。
「神様にはなれなくていい。ただの、一人の人間でいいんだ。その代わりに、君のその優しい心が、いつか誰かの救いになるように。世界を呪わず、ただ穏やかな光を願える子であるように……。そんな『祈り』を込めて、君を『祈』と呼びたい」
いのり。
その響きを口の中で繰り返した瞬間、私の胸の奥の、真っ黒で空っぽだったはずの穴に、温かい灯火がぽっと灯ったような気がした。
記号としての番号でもなく、実験動物としての識別名でもない。
この優しい老人が、私のこれからの人生を祝福するために、心を込めて紡いできた、私だけの本当の名前。
「神代、祈……。はい、神父様。とても、とても素敵なお名前です。ありがとうございます」
私がそう言って、心の底から弾んだ声で微笑むと、神父様は「気に入ってくれて良かった」と、まるで自分のことのように嬉しそうに目を細めた。
この日から、私はただの空っぽな少女ではなく、エリアス神父様の娘としての『神代 祈』になった。
そして、日曜日の礼拝の時間は、私にとって最も誇らしい時間になった。
この小さな街に住む大人たちも、誰もが神父様を慕っていた。
貧しい人、病を抱える人、心に傷を負った人。様々な人がこの古い教会の椅子に座り、神父様の言葉に耳を傾ける。
神父様の個性は、人の傷を少しだけ肩代わりする程度の小さな治癒能力だ。
けれど彼は、その小さな力と、それ以上の深い慈愛をもって、人々の心に寄り添い続けた。
礼拝が終わり、夕暮れの光がステンドグラスに満ちる頃、人々は口々に神父様の手を握る。
「神父様、いつも本当にありがとうございます。お言葉を聞くと、救われる気がするんです」
「神父様のおかげで、また明日から頑張れます」
誰もが彼に感謝を告げ、晴れやかな顔で帰っていく。
彼らを見送る神父様の細い背中を、私は少し離れた柱の影から見つめながら、じわりと胸の奥が熱くなるのを何度も感じていた。
この素晴らしい方のそばに、私はいるんだ。
この優しい世界の片隅に、私の居場所はあるんだ――。
それは、過去を失い、名前も失い、自分が何者でもなかった私が、初めて覚えた「誇り」という感情だった。
こんなにも美しい世界を、私は守りたい。
神父様が愛するこの街の人々を、私も同じように大切にしたい。
神父様の「人を愛しなさい」という言葉が、ただの文字ではなく、私の血肉となって染み込んでいくのを感じていた。
そうして、一つの場所に根を下ろすようにして、私たちはゆっくりと時間を重ねていった。
春には庭に咲いた小さな花を子供たちと一緒に摘み、夏には冷たい井戸水で冷やした果物を皆で分け合い、秋には色づく落ち葉を掃き集めて神父様をお手伝いし、冬には小さな暖炉の火に身を寄せ合って聖書を開く。
何度も、何度も、穏やかに季節が巡っていった。
心の中にあった「地獄に戻る恐怖」が、街の人々の笑顔と、神父様の優しい手の温もりによって、雪が溶けるように完全に消え去っていく。
それに比例するように、私の肉体は、見違えるほどにしなやかで、瑞々しい大人の女性の姿へと変わっていった。
16歳、17歳、18歳――。
実年齢がすでにいくつなのか、私にはもう分からなかったけれど、鏡に映る私は、どんどん健康的で、美しい二十代の姿へと落ち着いていった。まるで、私の体(個性)が、「もうここは安全なのだ」と理解して、怯える子供の姿を脱ぎ捨て、神父様を支えられる一人前の大人になろうと、自ら形を変えてくれたかのように。
「……綺麗に育ってくれた。本当に、良かった」
ある日の夕暮れ、外見がすっかり二十代の姿に固定された私を見て、エリアス神父様は皺の刻まれた目元を細め、心から愛おしそうにそう呟いた。
そして、ご自身の胸元から、ずっと身につけていた鈍い銀色のロザリオを外すと、私の首へとそっとかけてくれた。
「これはね、私の小さな治癒の個性を込めた、サポーターのようなものだ。君のその大きな『生と死』の異能が、どうか暴走せず、穏やかに眠っていられるように……私からのお守りだよ」
「神父様……」
「祈。力は隠しなさい。出来る限りで人を助けなさい。……そして、人を愛しなさい」
夕日の赤に染まる礼拝堂で、私は胸元のロザリオをぎゅっと握りしめ、深く、深く頭を下げた。
「はい、エリアス神父様。私に生き方を教えてくださったあなたのために、私は、世界に優しくあろうと思います」
それが、私の新しい誓いだった。
この時、私の『外見の成長』が、この二十代の姿を最後に完全に止まってしまうこと。
そして、神父様がこれほど私を優しく育ててくれた裏で、公安委員会へ「サンプルの経過は極めて順調」と、一人の『監視役』としての冷徹な報告書を毎月送り続けていたことも――
私はやはり、何も知らないままだった。