林間学校三日目の夜。
生徒たちが悲鳴を上げて肝試しに興じている賑やかな喧騒を遠くに聞きながら、祈は一人、薄暗い森の小道を歩いていた。
周囲のパトロール。日中は生徒たちの訓練に付き添い、死にかけるような怪我なら治し、それ以外は見守る――表向き与えられた任務だった。
夜の木々が落とす影は濃く、踏み締める土の感触だけが妙に生々しい。カツン、と金属製の杖が小石を弾いた、その時だった。
「――あ、見ぃつけた。祈おねえさん!」
茂みの奥から、ぬるりと這い出るようにして現れた影。
お団子頭に、異様な吸血器官を身に纏った少女――トガヒミコが、満面の笑みを浮かべて祈を見つめていた。その瞳は、狂おしいほどの親愛と悦びに濁っている。
「…どちら様でしょうか?」
祈は雄英高校の生徒ではない彼女と面識はない。故に聞いたが、そんなことよりもと返されてしまった。
「筑紫師匠が待ってますよ。ねえ、一緒に行きましょう? もっとたくさん、お話ししたいです」
甘えるような、それでいて拒否を許さない声音。
けれど祈の心は凪いだままで、ただ事務的な思考だけが脳裏を巡る。筑紫様。とても懐かしい響きだが、はて、彼は使いとして目の前の少女を寄越したのだろうか。
「……迎えに行くと言った本人が来ないとは、何事ですか」
祈は淡々と、声に抑揚を乗せないまま一蹴した。
「あっ、よかった!自分の名前を出せば攻撃されないだろうって、筑紫師匠が言っていたので!」
「他人に使い走りをさせるような人の元へ行くつもりはありません。用があるなら、自ら足を運ぶのが筋でしょう」
「ですよね!」
トガは頬を染めて身悶えしたかと思うと、くるりと背を向けて、闇の奥へと向かって大声を張り上げた。
「すいません師匠、あっさりフラレちゃいましたー!!」
彼女の視線の先――森の奥の闇は深く、トガの言葉は溶けて消えた。その不審な動きを警戒しつつも、祈は別の「異変」に気がついていた。
風に乗って漂ってくる、妙に焦げ臭い、そして神経をチクリと刺すような悪臭。紫色の霧が、じわりと木々の隙間を縫って広がっていく。
(……毒ガス?宿泊施設に戻らなければ。子供たちが危険です)
気が付けばトガの姿はなく、祈は事態の急変を察知し、踵を返そうとした瞬間。背後の空間が、爆発的な熱量と共に揺らいだ。
「――戻らせねえよ、聖女様」
低く、ひび割れた声。
振り返る暇さえ与えられず、祈の視界が一面、禍々しい青い炎に染まる。熱い、という認識すら遅れるほどの高温。突風のような熱波が彼女を襲い、手にしていた金属製の杖と、首から下げていたロザリオが瞬時に発火した。
パチパチと音を立てて灰になっていくロザリオを、引き止められるはずもない。個性の出力を安定させるための触媒である杖さえも高温の炎に包まれ、まともに構えることすら困難になる。
「が、あっ……!」
容赦なく吹き付けられた青炎が、祈の腕を、足を、容赦なく焼き焦がしていく。肉の焦げる悍ましい臭いが鼻腔を突き、激痛が脳を白く染めた。
――治さなければ。
条件反射のように、彼女の内に眠る『ジキルとハイド』の異能が駆動する。焼失していく細胞を、内側から無理やり再生させようと『ジキル』のループが狂ったように回り始める。
しかし、目の前の男――荼毘が放ち続ける炎は、彼女の再生速度を嘲笑うかのように、圧倒的な火力で肉を焼き続けていた。熱が肉を壊し、異能がそれを修復し、またすぐに熱が奪い去る。無限に続く地獄だった。
(……足りない……ッ)
焦燥が、初めて祈の思考にノイズを混ぜる。
常に彼女を不老たらしめていた無尽蔵の治癒リソースが、目の前の男が放つ「ただ焼き尽くす」という凶行の維持のためだけに、そのすべてを強引に削り取られていく。体内でジキルを回すだけで全リソースが飽和し、文字通り上限を叩いている。抑制装置としての首輪がある限り―――
これでは、他の部位を庇うことも、反撃に転じることも、ここから逃げ出すために思考を巡らせることさえできない。ただ、この身を焦がす青炎に耐えるためだけに、祈のすべてが塗りつぶされていた。
これほど悍ましく、これほど美しい地獄の光景が、かつてあっただろうか。
「が、あ……っ、ぁ……!」
祈の細い四肢を包み込むのは、現世の理を焼き尽くす禍々しい青炎。
荼毘が放ち続けるその絶望的な火力は、一瞬にして人間の脂肪を、筋肉を、骨の髄まで炭化させるはずの暴虐だった。肉の焦げる悍ましい悪臭が鼻腔を突き、ヴェールの向こうの白い喉からは、激痛に耐えかねた掠れた悲鳴が漏れ出る。
しかし、彼女は崩れ落ちない。
ドクドクと、祈の体内で『ジキル』による超高速の自己回復ループが狂ったように回り続けていた。青い炎が彼女の皮膚を灼き、肉を消滅させるその刹那、内側から新たな細胞が爆発的な速度で蠢き、組み上がり、現世の時間を強引に巻き戻していく。熱が肉を壊し、異能がそれを修復し、またすぐに熱がすべてを奪い去る。
「――ハ、あはははは! 死柄木やトガの奴らが『最高機密のシスター』だの『聖女』だの警戒してたから、どんな大層な奴かと思えば……!」
その光景を特等席で見つめる荼毘の口から、ひび割れた、狂気的な嘲笑が漏れ出た。
彼の窪んだ瞳の奥には、愉悦だけでなく、どす黒く煮え滾るような強烈な「嫉妬」と「憎悪」が、炎以上の熱量で渦巻いている。
元はと言えば、ステインの思想、裏社会に回った動画のなかに、この純白のシスターが遺した言葉があった。
――『ヒーローは、善意を搾取されるべき存在ではない』。
無私無欲の自己犠牲など綺麗事だ。人間であるヒーローにそれを強いる世界こそが歪んでいる。だからこそ、自分自身が感情も愛も持たない完璧な『公安の道具』としてすべてを引き受けるのだという、彼女のあまりにも冷徹で、けれど圧倒的な博愛主義。
家庭を壊し、子供の心をすり潰してなお「ヒーロー」の座に固執するエンデヴァーという最悪の搾取者を見て育った荼毘にとって、彼女のその思想は、偽物どもの欺瞞を根底から見透かす、唯一の『本物』として、多少なりとも賛同とリスペクトを抱かせるものだった。
だが、実際にその身に青炎を浴びせ、目の前で繰り広げられたその異能の「本質」を目撃した瞬間、荼毘の胸の内にあったわずかなシンパシーは、最も悍ましい絶望へと叩き落とされることとなった。
「その程度で、『善意を搾取されるべきじゃない』だと……? 笑わせんじゃねえよ……ッ!!」
目の前で青炎を浴びながら生き永らえている祈のその異能は、かつて自分の父親――エンデヴァーが、血眼になって、それこそ母親を狂わせ、子供たちを最高傑作の道具として踏み躙ってまで追い求め続けた、「炎の負荷を完全に相殺できる最高傑作の器」そのものだったからだ。
どれだけ己の肉体を焼き尽くす高火力を放とも、一瞬で完治し、一秒も老いず、世界の秒針から切り離された完全なる身体。自分が、轟燈矢が、欲しくて欲しくて堪らなかった、けれど決して手に入らずに見捨てられた『理想郷』が、今、目の前で黒い首輪を嵌められたシスターの姿をして、エンデヴァーの理想を証明するようにその力を垂れ流している。
「お前が言った本物がこれかよ!! 結局、お前のその化け物じみた身体は、あのクソ親父が望んだ一番の『道具』じゃねえかよおおお!!!」
荼毘は顔面の皮膚を繋ぎ止めるステープラーをギチギチと歪ませながら、右腕をさらに大きく突き出した。
ドン、と爆風を伴って青炎の出力が跳ね上がる。祈の右腕の肉が一瞬にして炭化し、剥がれ落ち、そこからドロドロとした生々しい赤肉がジキルの光によって蠢き、再び純白の肌を形成しようと狂ったように蠕動する。その人間離れした、グロテスクとすら言える超高速の肉体再構成の光景は、祈の体を黒く焦がしながら、どこまでも醜悪に繰り返された。
「お前みたいな化け物が、なんで平然と生きてられるんだぁ? なんでそんな綺麗な顔のまま、俺の前に立ってんだよ!!」
理想を裏切られた絶望と、血の呪いが生み出した理不尽な八つ当たり。それは、持たざる者が、生まれながらにしてすべてを持っている『完璧な器』へ向ける、狂気的な呪詛だった。
荼毘は歩みを進め、炎に耐え続ける祈の胸元を強引に掴み取ると、そのまま硬い地面へと容赦なく叩きつけた。
ドン、と鈍い音が響き、彼女の背中が地面を滑る。出力安定のための触媒である金属製の杖はすでに炎の熱で熔解しかけ、地面に転がって使い物にならない。首元の黒い電子首輪は、主の危機を察知して激しく赤く明滅し、バチバチと青白い火花を散らして祈の首筋をさらに無慈悲に灼き苛む。
見下ろす荼毘の瞳に、昏い愉悦の灯火がゆらりと揺れた。
「――聖女なら聖女らしく、火炙りだよな」
「…あ…っぐ」
そのひび割れた嘲笑と共に、荼毘は倒れ伏す祈の細い右足を踏みつけ、そこへ直接、掌からゼロ距離で青炎をブチ込んだ。ジウウウウ、と生々しい肉の灼ける音が静かな森に響き渡る。
「い、あ、あああ、っ、ぁ……!!」
(熱い。痛い。……ああ、また壊れていく。私の、肉体が)
脳を灼くような白光の檻のなかで、祈の思考は恐ろしいほどに凪いだまま、けれど、哀しいほどの「混濁した疑問」のなかへと深く沈み込んでいく。
(どうして……?私はただ、エリアス神父の言いつけを守っているだけなのに)
『人に優しくしなさい』
『傷ついた人を、助けてあげなさい』
あの日、大好きな神父様が遺してくれたその言葉だけを、祈りは今もずっと大切に守って世界の秒針のなかで体現しようとしているだけなのに。
ヒーローは、世界に善意を搾取されるべき存在ではない。だから、何の価値もないこの私が、感情も愛も持たない完璧な『道具(スペア)』として、すべての痛みと汚れを代わりに引き受けて、世界に優しくあろうとしているだけなのに。
(それなのに……どうして、この人はこんなにも私を憎むのですか?)
どうして、存在そのものを呪うような、こんなにも悲しい、怒りに満ちた炎をぶつけるのか。
(……私は、何か間違えてしまったのでしょうか。私の気づかないところで、私が、この人の心を酷く傷つけるような、いけないことをしてしまったのでしょうか。分からない。何も、分かりません)
痛いのは構わない。肉が溶け、骨が灰になるなど、あの地下で幾度となく経験した。
(けれど、私がここで正しく機能できなければ、私の代わりに、またあの子供たちが世界に搾取されてしまう。出久くんも、勝己くんも……みんな、優しくて、綺麗なままでいられなくなってしまう)
それはとても悲しい。
(神父様の言いつけ通り、目の前のこの人の悪意も、痛みも、私が全部引き受けて、世界に優しくあられなければいけないのですから――)
「もっと見せてくれよ聖女様! お前のその、化け物じみた肉体がどこまで耐えられるか、俺の炎とどっちが先に燃え尽きるか、試してみようじゃねえか……!!」
髪を振り乱し、顔のステープラーから血を滲ませながら、荼毘は何度も、何度も、彼女の肉体へ青い炎を叩きつけ続けた。焼かれては蠢き、蠢いては元の白磁の肌へ戻り、そしてまた瞬時に黒く炭化していく。
自らを『完璧な道具』と定義し、ただエリアス神父の遺言を愚直に遂行しようとしている祈。そのヴェールの向こうの瞳の奥には、終わりのない激痛への焦燥と同時に、自分の「優しさ」が目の前の男をただただ逆撫でし、傷つけているという現実への、底暗い、哀切に満ちた絶望のノイズがじわりと混ざり合っていく。
硝煙と、肉の焦げる悍ましき臭いが満ちる森のなか。
純白の聖女だったはずのお人形は、他者へのあまりにも純粋で、それゆえに決定的に歪んだ慈悲の独白を激痛のなかに巡らせながら、ただただ地獄の底へと磨り潰されていくのだった。
荼毘の炎が強すぎる。