深い闇の底から、祈が意識を引き戻したとき、最初に鼻腔を突いたのは、カビ臭い埃と、澱んだ鉄の匂いだった。
ひんやりとしたコンクリートの床。公安の手配した自宅でも、緑豊かな林間学校の森でもない。ここは、ヴィラン連合の無機質なアジトの一室だった。
「……っ、」
身を起こそうとした瞬間、全身を苛むのは、先ほどまで浴びせられていた青炎の「熱さ」の残滓。重ねて、全身への鈍痛。思うように体が動かない。
体内で『ジキル』が自動的に肉体を修復してはいるものの、焼き尽くされ続けた精神の疲弊までは消し去れない。重い身体をどうにか支え、周囲を見渡した祈の瞳に、ひとつの不穏な光景が飛び込んできた。すぐ傍らに、見覚えのある女性――プロヒーロー・ラグドールが、意識を失ってぐったりと倒れていた。
救援を待つ彼女の肉体には、今まさに裏社会の支配者であるオール・フォー・ワンの、個性を強奪するための悍ましき悪意の手が伸びようとしていた。まだ、その『サーチ』の個性因子は奪われていない。けれど、このままでは遠からず、彼女の魂のすべてが根こそぎ搾取されるのは明白だった。
(……あれは、奪われてしまいます。とても使い勝手の良い「個性」ですもの。世界がまた善意を、理不尽に奪い去ろうとしている)
その光景を見た瞬間、祈の体内に遺されたエリアス神父の遺言が、激痛のような博愛となって彼女の指先を動かした。
ヒーローは、善意を搾取されるべき存在ではない。出力を安定させるための触媒である金属製の杖は、もうない。けれど、祈は迷うことなく、自らの白い指先を、まだ個性を奪われる前のラグドールの額へとそっと翳した。
(これを、凍らせて――)
手のひらから溢れ出たのは、微かな、けれど現世の理を捻じ曲げる白光。
祈はラグドールの中に眠る『サーチ』の個性因子へと強引に干渉し、それを精密に「花」と「種」の二つへと切り分けた。これから迫る強奪の手に引っかかるであろう表層の「花」だけをあえて生かし、核となる「種」の因子を、ハイドの冷たい氷の異能によって、ラグドールの魂の最奥へと深く、深く眠らせて隠したのだ。これで、彼女の個性が完全に根絶やしにされることはない。
――けれど、その代償は、あまりにも重かった。
「く、ぅ……っ……!」
杖という制御弁を失った状態での、他者の個性因子への強引な操作。ただでさえ荼毘の青炎によって全リソースが飽和し、磨り潰されていた祈の肉体に、悍ましき反動が襲いかかる。
ピキ、と首元の黒い電子首輪がログの異常値を検知して激しく火花を散らし、祈の首筋を灼く。それと同時に、彼女の体内で回っていた『ジキルとハイド』の駆動が、錆びついた歯車のようにガタガタと停止し、一時的な制限がかかった。
指先一つ動かすことすら満足にできない、完全なる無力。カツン、と、不躾な足音が静かな部屋に響いたのは、その直後のことだった。
「ハ、思った通り、生きてやがるな。……本当にタフな化け物だ」
鉄の扉を開けて入ってきたのは、顔面に悍ましいステープラーを嵌めた男――荼毘だった。彼は、床に放置され、這いつくばって息を荒らげているボロボロの祈の姿を見下ろすと、歪んだ悦びに満ちた、心底満足そうな笑みをその醜悪な顔に浮かべた。
「おい、知ってるぜ。お前、あの『オールマイト』の命を助けたんだろ?」
ドクン、と、祈の心臓が、自らの記憶にはないはずの名前に小さく跳ねる。
「え…」
「いい気分だったろぉ? 世界最強のヒーローを、この手で救ってやったんだ。さぞ鼻が高かったろうなぁ! 自分を道具だなんだと言い訳しながら、神様にでもなったつもりだったかよ!!」
荼毘は突如として、狂ったように高笑いし始めた。
――かと思えば、次の瞬間には、その顔から一切の笑みが消え失せ、顔面の皮膚を引き裂かんばかりの凄まじい「激昂」へと、その情緒を不安定に爆発させる。
返るはずのない人形の沈黙を肯定と受け取ったのか、あるいはその凪いだ瞳そのものが彼の逆鱗に触れたのか。荼毘はひび割れた咆哮を上げると、浅ましく立ち上がろうとする祈の細い髪を掴み、コンクリートの床へと乱暴に打ち付けた。
「ッう」
ゴン、と、頭蓋が硬い床に衝突する生々しい音が室内に反響する。
ジキルの常時回復ループが役に立たない今の祈には、その衝撃を逃がす術すら残されていない。
「、あ……っ、く……!」
細い白い喉から、掠れた苦悶が漏れ出る。しかし、荼毘の暴挙は止まらない。彼は床に転がった祈の腹部を、容赦なくその重いブーツで蹴り抜いた。硬いブーツの先端が腹部に食い込み、こみ上げる胃液を飲み込んだ。
「ッごほ…ぅえ……!!」
胸ぐらを掴み上げられては壁へと叩きつけられ、その度に肉が軋み、骨が悲鳴を上げる。衣服の隙間から覗く白い肌には、見る間にどす黒い皮下出血の痣が広がり、炭化しかけた皮膚の傷口が再び裂けて生々しい赤を滴らせていく。いつもなら一瞬でその傷を融解させ、白磁の肌へ還すはずの異能は、錆びついたように駆動しない。
ただただ、純粋な人間の肉体として、暴力の質量をそのまま受け止めるだけの地獄の時間が流れていく。
(どうして……どうしてこの人は、私を壊そうとするのですか。私はただ、エリアス神父の『人に優しくしなさい』という言いつけを守っているだけなのに。
私はただ、あの子供たちが世界に搾取されないように、代わりに傷つくためのスペアとして、あの場所にいただけなのに。出久くんや、勝己くんや…みんなが、泥に塗れずに綺麗なままでいられるように、優しく、お守りをしてあげていただけなのに。
それが、この人の心をこんなにも踏みにじってしまう『悪いこと』だったのでしょうか。私が何か、この人を酷く傷つけるような、いけないことをしてしまったのでしょうか)
どれだけ殴られ、蹴り飛ばされ、肉体を損なわれようとも、祈の胸裏に湧き上がるのは荼毘への憎悪ではなかった。ただ、目の前の男の孤独な炎の痛みを理解できず、自らの優しさが彼をこれほどまでに逆撫でしてしまったことへの、果てしない混濁した疑問。
ドカッ、と再び激しい衝撃が走り、祈の身体が力なく床を転がる。
首元の黒い電子首輪は、主のバイタル危険域を察知してピピッ、ピピッ、と鈍い警告音を鳴らし、火花を散らしてその白い首筋をさらに無慈悲に灼き苛んでいる。
(個性が、使えない。ジキルが、回らない……。
これでは、今ここであなたがまた炎を放っても、私はもう、あなたの悪意のすべてを完璧に受け止めてあげることすらできない。
私は本当に……どこまでも、出来損ないの、役立たずの道具ですね、神父様――)
荼毘はそんな祈の細い髪の毛を再び掴むと、隣の部屋へと強引に引きずって移動を始めた。コンクリートの床に生々しい血の跡が刻まれていく。
◇
――ガァン、ドガッ、と。
隣の部屋の薄い壁一枚を隔てて聞こえていた、重い打撃音と掠れた苦悶の声。それによって深い気絶から意識を引き戻されていた爆豪勝己は、重厚なパイプ椅子に幾重にも巻き付けられた強固な拘束のなかで、狂ったように歯を剥き出しにしていた。口元は厚い猿轡で固く塞がれ、激しい爆破を放つための両手もしっかりと固定されている。
その最悪の状況下で、鉄の扉が強引に押し開けられた。
――バサリ、と。
爆豪のすぐ目の前に倒れ込んだのは、無残に血まみれになった、ババァと呼んだ女だった。
「……ッ!!! ッ、――!!」
爆豪の瞳が、怒りと驚愕に大きく見開かれる。
汚れ一つなかったはずの戦闘服は引き裂かれ、赤黒い鮮血と硝煙で見る影もない。衣服の隙間から覗く白い肌にはどす黒い皮下出血が広がり、至るところに傷ができ、血が滲んでいる。首元の首輪は虚しく明滅し続けていたが、焼けただれたその痕からも血が滴り落ちていた。
一歩も動けない。助けることも、その手を払いのけることもできない。
爆豪の目の前で、荼毘はわざと見せつけるように、倒れ伏す祈の細い肩をその重いブーツで無慈悲に踏み抜いた。
ゴキ、グシャ、と肉が床に押し潰される生々しい音が室内に反響する。
祈の口端から再び鮮血が溢れ、床を汚していく。荼毘はその痛々しい姿を満足そうに見下ろしながら、縛り付けられた爆豪の顔をちらりと一瞥し、醜悪な笑みを浮かべて祈を煽り立てた。
「なぁ、自由は楽しかったか!? 檻から出してもらって、雄英のガキどものお守りなんかしてさぁ! 楽しかったろ?優しくすりゃ、あいつらはすぐに懐くもんなぁ! 」
「っはぁ、はっ…!」
「……ガキどもを侍らせて、聖女様ごっこは満足かよ! 自分の承認欲求を満足させて、さぞ気持ちよかったろうなぁ!!」
「ああああああっ!!!」
ぐりぐりと傷を踏み潰せば血が溢れ、祈は悲鳴を上げる。
「う、く…っ…」
「おら、治せるもんなら治してみろよ!」
理不尽に怒り狂い、自身のコンプレックスを乗せて祈の傷口に塩を塗り込んでいく荼毘。爆豪は喉を詰まらせ、猿轡を噛まされているせいで、今はただ低く、獣のような押し殺した声で「う、ぐ……ッ! ――っ!」と激しく唸る強烈な無力感に苛まれることしかできなかった。
そんな激痛の混濁のなかにありながら、祈は――床に建いつくばり、自らの血に塗れた顔を僅かに持ち上げると、縛り付けられている爆豪の姿を力なく見つめた。
そして、自分の身の傷など初めから存在しないかのように、掠れた、けれどどこまでも優しい鈴の音のような声を絞り出した。
「っはぁ……勝己くん……お怪我は、ありませんか……?」
「――っ、ぅ、……!!」
その瞬間、爆豪の瞳から、ボロリと熱い涙が溢れ出た。
(一番凄惨な大怪怪を負っているのはテメェだろ。治せないくせに、なんでそんな身体で、まだ俺の心配なんてしてやがる)
人生で唯一勝てないと感じた不気味で綺麗な女が、今まさに自分の目の前で最も無力に壊れかけている。それなのに、自分を置いてけぼりにしてどこまでも独りで完結していくその歪な博愛。そんな彼女の前で、指先一つ動かせず、ただ縛られて涙を流すことしかできない己の圧倒的な不甲斐なさ。
「――――ッ!!っ、!」
悔しさと、情けなさと、怒り。あらゆる感情がドロドロに混ざり合い、爆豪は猿轡を濡らしながら声を上げて号泣した。透明だったはずの涙は、耐え難い屈辱のあまり、いつのまにか血涙になっていた。ガタガタと椅子を激しく揺らし、手首を摩擦で血に染めながら、心の中で、張り裂けんばかりの咆哮を何度も、何度も叫び続ける。
(ちくしょう……っ! ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……!!!ッ!!)
髪を振り乱し、顔のステープラーから血を滲ませながら、荼毘は息を荒らげて二人の様子をただ見下ろしていた。
高一男子にトラウマを植え付けるヒロイン。