神野区の悪夢から数日。
未だ世間が「平和の象徴の引退」という未曾有の喪失感に揺れるなか、雄英高校の配慮、あるいは公安との激しい水面下の交渉の末、祈は雄英が管轄する総合病院の一般病棟へと入院していた。
個性の制限はいまだ完全に解けておらず、深い昏睡状態のまま、彼女は人形のようにただ静かに白いベッドに横たわっている。
事件の解決によって、1年A組の生徒たちには、誰一人として身体的な怪我はなかった。
「爆豪救出作戦」を緑谷たちが決行する前に、オールマイトが嵐のごとき超暴力で全てを終わらせてしまったからだ。生徒たちはみな無事だった。
――けれど、彼らの精神の秒針は、別の意味で最悪の形に狂わされていた。
「相澤先生! お願いです、僕たちを神代先生のお見舞いに行かせてください!!」
放課後、職員室に怒涛の勢いで押し寄せたのは、緑谷を筆頭としたA組の生徒たちだった。
誰も傷つかなかった。爆豪も無事に生還した。けれど、その代わりにあの純白のシスターが、敵の巣窟でボロボロに血を流し、毛布を真っ赤に染めて担ぎ出されたのをテレビ中継で見てしまった。その残酷な現実が、ヒーローを志す少年たちの胸を激しくキリキリと締め付けている。
「……駄目だ。あの場所は雄英の管轄とは言え公安の監視下に置かれている。生徒のお前たちを容易に近づけるわけにはいかない」
「そんなの納得いかねえよ……ッ!」
相澤の冷徹な拒絶に、上鳴が悔しそうに拳を握りしめる。
その問答の後方で、爆豪はただ、信じられないほど静かに、底暗い瞳で床の一点を見つめていた。爆豪の脳裏には、あの薄暗いアジトの光景が、強烈なトラウマとなって幾度も、幾度も焼き付いて離れない。
バサリと目の前に投げ出された、血まみれの女。いつもなら綺麗に微笑み、自分を子供扱いして手懐けてくるはずの絶対的な女が、個性を使えないまま、無抵抗で荼毘のブーツに踏みにじられ、骨が砕ける音、肉の潰れる音を響かせていた、あの悍ましき光景。
(ちくしょう……何が『勝己くん、お怪我はありませんか』だ、クソババァ……)
不甲斐なさ、情けなさ、手出しできなかった己への激しい嫌悪。爆豪の心の中にある火種は、もはやヒーローとしての救済欲などではなく、彼女を縛る公安の首輪も、傷つけたヴィランも、そのすべてを爆破して彼女を自分の腕の中に強奪するための、ドロドロとした黒い執着へと完全に反転していた。
◇
少年たちが外でそんな歪な情念を燻らせていることなど、眠り続ける祈には知る由もない。ただ、暗い昏睡の底で、祈の意識は、人間としての根幹をズタズタに引き裂くような終わりのない負のループへと深く沈み込んでいた。
(熱い。痛い。……ああ、皮膚が熔けていく。肉が炭化していく。
どうして、どうして私はあの時、完璧な道具として機能できなかったのでしょう)
暗黒の意識の底で祈を苛むのは、あの森のなかで荼毘の青炎に無限に焼かれ続けた痛ましい記憶だった。
どれだけジキルを回しても、圧倒的な悪意の火力が肉体の再生速度を嘲笑うかのようにすり潰していく。すべてのリソースを強引に削り取られ、指先一つ動かすことすらできずに無力に固定されていたあの絶対的な恐怖。その激痛のフラッシュバックのなかで、祈の中に眠る古い記憶の断片が、奇妙な混濁を始めていく。
(……なんでしょう、温かい)
熱い炎の記憶の隙間に、一瞬だけ、触れたこともないような、ひどく温かい何かに抱きしめられる感覚が混ざり合う。
(何ですか、これは。この温かさは、一体何なのでしょう。……母親、だったでしょうか。顔も、声も、何も思い出せません。私の肉体を切り刻み、生き神として搾取し尽くした私の両親。彼らはきっと、とっくの昔に死んでいる。
私はこれまで、過去の自分について知ろうとしませんでした。知りたくもなかった。暗い地下での記憶も、自分が何者であるかも、檻の中で道具として生きる私には必要のないノイズだったから。けれど……知らないことには、私はもう、一歩も前に進めないのかもしれない)
自身の個性のシステム。ジキルとハイドという、生殺与奪の権を握る悍ましき異能。
アジトで、彼は言っていた。お前はオールマイトの命を救ったのだ、と。
(覚えていない。私の記憶の中に、そんな記録は存在しない。でも……どうしてでしょう。夢に出てきたのは、オールマイト様に、あの大きなヒーローによく似た、大柄な男性の姿でした。
誰、ですか、あの人は。私の記憶のすべてを焼き切って、私の世界から消え去ってしまった、あの男性は……。
まさか、あの人が、私を『愛して』くれたのでしょうか。よく、わかりません。私の中に最初から『愛』なんていう高尚な血液は、一滴も流れていなかったはずなのに。
私はただ、人間になりたかった。自分を人間だと思いたくて、エリアス神父様の『人に優しくしなさい』という遺言に縋り付いて、優しさを演じていただけ。周りの人たちが私に向けてくれる本物の『情愛』を、自らの生存のコードとして都合よく搾取し、付け込んでいただけの、どこまでも薄汚い空っぽの化け物。
それなのに、過去の秒針が、私の知らない記憶が、私のシステムを壊そうと内側から狂ったように鳴り響いている。
神父様の言いつけ通りに機能すればするほど周りを不幸にし、目の前の人を傷つけ、自分の空っぽさに胸が引き裂かれそうになる。
何故、どうして。
……ああ、私は、生きるのが怖い。
完璧な道具にすらなれない、ただの不完全な出来損ないのまま、この世界で秒針を刻み続けるのが、私は、たまらなく恐ろしいのです、神父様――)
夢の中で、祈は人間としての形を失っていくようなおぞましい混濁と恐怖に、声をあげて激しく泣いていた。
現実の世界。
静まり返った一般病棟のベッドの上で、ピクリとも動かない祈の白磁のような両頬を、昏睡したままの瞳から溢れ出た、透明な涙が幾筋も幾筋も伝い、白い枕を痛々しく濡らしていく。
サァ、と、夜の病室に、冷たい秋の風が吹き込んだ。
鍵がかかっていたはずの窓の隙間から、まるで重力を無視するようにして、数枚の紅の羽がぬるりと室内へと滑り込んでくる。
トツ、と、窓枠に軽い足音を響かせて現れたのは、トップスター――ホークスだった。
トレードマークのゴーグルを外した鷹見啓悟の瞳は、いつも世間に見せている飄々としたチャラさは微塵もなく、ただただ、愛おしい女性を前にした猛禽類の、狂気的なまでの渇望に濁っていた。
ホークスは静かにベッドの傍らへと歩み寄ると、手袋に包まれた指先で、祈の頬を伝う冷たい涙の痕を、切なそうに、けれど壊れ物を愛でるようにそっと拭った。
「……また、神父様の夢ば見とるとですか、おねえさん」
静かな夜の闇に、ぽつりと零れ落ちた、彼本来のひどく掠れた博多弁の声音。
「そげん泣かんでよ。おねえさんは、何も悪うなか。神父様も、雄英の生徒らも、あのガチ恋おじさんも……みんな、おねえさんの優しさに甘えて、搾取しとるだけたい。自分のなかが空っぽやけんって、生きるのが怖いだなんだって、そんなに自分ば責めんでよ」
祈は目覚めない。
「……おねえさんのなかがどれだけ空っぽでも、記憶がどれだけ狂っとっても、それを丸ごと愛しとるのは、その首輪の鍵を持っとる、俺だけに決まっとろうが」
ホークスは祈の耳元にそっと顔を寄せると、その傷だらけの細い手首に優しく触れながら、底暗い、けれど誰よりも甘やかな愛を囁いた。
「だから、泣かんでよ」
最速の羽は、ベッドの上で眠りながら涙を流す祈の髪をひと房手に取り、唇を落とした。そしてパサリと紅の羽を夜風に躍らせ、再び窓の向こうの深い闇の中へと、その姿を掻き消していくのだった。