神様にはなれない私たち   作:琴ノ葉しずく

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第43話 機能不全の人形

 

 

深い闇の底で、祈の壊れかけた精神は、未だに終わりを告げない負のループを彷徨い続けていた。

 

 荼毘の青炎に焼かれ続け、無尽蔵であるはずの治癒リソースが上限を叩いた無限のシーソーゲーム。個性を強引に操作した代償。そして何より、エリアス神父の「人に優しく」という教えに従えば従うほど周りを不幸にし、自身のなかの空虚に胸を引き裂かれそうになる、果てなき自責の濁流。

 

(何故、どうして。……ああ、私は、生きるのが怖い)

 

 現実の世界。深夜の静まり返った一般病棟のベッドの上で、ピクリとも動かない祈の白磁のような両頬を、昏睡したままの瞳から溢れ出た透明な涙が幾筋も伝い、白い枕を痛々しく濡らしていた。

 サァ、と。窓から冷たい秋の風が吹き込み、カーテンが小さく揺れる。

 

 祈の意識が、意識の表面へと、ひどく緩慢に浮上し始めたのはその時だった。

 個性の機能制限はいまだ完全に解けておらず、指先一つ動かすことすら満足にできない。薄く、重い瞼を恐る恐る持ち上げると、月の光すら届かない暗がりの病室のなか、ベッドのすぐ脇のパイプ椅子に、一つの「黒い影」が静かに腰掛けていた。

 使い古された黒い私服。指先で弄ばれる、火のついていない煙草の吸い殻。

 自由を奪うほどの不快な本音を、近くにいるだけで強制受信してしまう、懐かしいあの『共感層』の気配。

 

「……よう。まったく変わらねぇのな、お前」

 

 耳に届いたのは、六年前に表舞台から消え去ったはずの、あの聞き覚えのある気怠げな声音だった。

 

「……筑紫、様……?」

 

 祈の白い喉から、掠れた声が漏れ出る。

 記憶のピンポイント忘却のバグのなかにあって、その男の顔はひどく曖昧だった。けれど、彼女の内で回るジキルとハイドが、その男の放つ精神波の形を確かに記憶している。

 筑紫聡は、相変わらずやる気のなさそうな目で、ベッドの上のボロボロになった祈の姿を見下ろしていた。彼の『共感層』には今、祈の脳裏で狂ったように鳴り響く「生きるのが怖い」という悍ましい絶望が、濁流となってダイレクトに流れ込んできている。

 

 筑紫はこめかみを強く指先で押さえ、忌々しげに顔をしかめると、ぶっきらぼうに毒づいた。

 

「相変わらず、脳みそのなかがうるせえよ、お前。雄英だなんだと檻を出て、あっちじゃお気楽な聖女様をやっているくせに……裏じゃそうやって、ウジウジ悩みやがって。なんつーか……毒気を抜かれる通り越して、胸糞悪りぃわ」

 

 突き放すような、冷徹な言葉。

 けれど、今の祈の混濁した脳は、目の前にいる男が「本物」であるとは到底認識できなかった。雄英の厳重な隔離病棟。動かない身体。これはきっと、自分の未熟なシステムが見せている、都合のいい死の間際の『夢』なのだと、彼女は深い錯覚のなかに沈み込んでいく。

 

「……ええ、そうですね。これは、夢ですから」

 

 祈は薄く目を伏せ、人形のような微笑みすら作れないまま、枕を涙で濡らしながら、普段は誰の手にも触れさせない剥き出しの人間性を、その夢の幻影に向かってぽつり、ぽつりと吐露し始めた。

 

「私は……間違えてしまったのです、筑紫様。

 私はただ、エリアス神父様の『人に優しくしなさい』という教えを、守りたかっただけなのに。私が外に出て、優しくしようとすればするほど、周りの人がみんな、不幸になっていく。

 あの森で、あの人は私を『化け物』だと、おぞましい目で睨んでいました。私の存在そのものが、あの人の心を、エンデヴァー様への血の呪いを、酷く逆撫でして傷つけてしまった。

 私は、最初から生まれてはいけなかった生命だったのです。もし私が最初からいなければ、あの日、私を救ってくれた神父様だって、公安に使い潰されることもなく、もっと幸せに穏やかに暮らせたはずなのに。

 あの子も……あんなに優しくて小さかったあの子を、私は自分の代わりに、公安の冷たい檻の中に置き去りにしてきてしまった。私のせいで、みんなが狂っていく」

 

 血を吐くような、哀切に満ちた独白。

 筑紫の『共感層』が、その言葉の裏にある「人間になりたかった。愛されているフリをしていただけだ」という、祈の本質的な空虚の痛みをダイレクトに受信する。

 筑紫は椅子の背もたれに深く体重を預け、ただ静かに、彼女の壊れかけた心臓の音を聞いていた。

 

「……オールマイト様のことも、私にはもう、何も記録が残っていません。でも、夢を見るのです。あの大きなヒーローによく似た大柄な男性が、私を悲しそうに見つめている夢を。

 あの人は……私を、愛してくれたのでしょうか。

 私の中に最初から『愛』なんて高尚なものは一滴も存在しなかったのに。私はみんなの優しさを搾取していただけなのに。『愛』なんて理解できないくせにわかったふりをして、みんなを『愛』したつもりになっていた。なんて…愚かで滑稽だったのでしょう。

 ジキルが、回らない。ハイドが、私の限界を圧殺してくれない。これでは、もう誰も守れない。頭の中からなにかが抜け落ちていく感覚が、とても恐ろしいのです。

 何故、どうして……。

 筑紫様、私は……世界の中で、これ以上生きていくのが、たまらなく怖い」

 

 暗闇のなか、祈の瞳から、透明な涙が絶え間なく溢れ落ちていく。

 その剥き出しの「恐怖」と、自らを役立たずの道具だと自責する狂気的なまでの純粋さを前に、筑紫は弄んでいた煙草の吸い殻を、ポケットのなかへ乱暴に押し込んだ。

 ゆっくりとパイプ椅子から立ち上がると、ベッドの傍らに立ち、月光の届かない影で、祈の涙の痕を冷ややかに見下ろした。

 

「……だったら、一生そのおめでたい頭のままでいろ、クソ人形」

 

 筑紫は低く、けれどどこか割り切れない未練の籠った声で呟いた。

 

「お前の中がどんだけ空っぽだろうが、誰の記憶を忘れてようが、そんなことは知ったこっちゃねえよ。神父の綺麗事に縋ってなきゃ人間を保てねえって言うなら、死ぬまでその薄汚い偽物のままでいろ。……お前が完璧な道具になれなくて、その不具合を全部引き受けて、お前の檻の鍵をぶち壊してやるのは、俺の役目だからな」

 

 筑紫はそっと手を伸ばし、祈の電流で灼け爛れた首元の、あの冷たい黒い電子首輪の表面に触れた。公安の裏の暗号をハッキングするように、彼の指先がデバイスの数値を一瞬だけ緑色に明滅させる。

 

「自由は楽しかったかよ。……まぁ、せいぜい今のうちに、夢のなかで思いきり泣いとけや」

 

 その言葉を最後に、筑紫の気配は、夜の病室の闇のなかへとぬるりと溶けるようにして完全に掻き消えていった。

 

 

 祈の首元のデバイスには、一時的なプロテクトのログが上書きされていた。個性が使えずボロボロのまま眠る彼女の脳裏には、筑紫聡という男の纏っていた、あの酷くぶっきらぼうで不器用な煙草の匂いだけが、冷たい空気のなかにいつまでも、消えずに残っていた。

 

 

 

 

 

◇

 

 

 

 

 すでに数日の朝が、一般病棟の白い窓枠を淡々と白ませていた。

 

 祈の肉体を苛んでいた青炎の火傷や、衣服にまで染み付いていた凄惨な血液の跡は、医療班の手と、彼女の体内で僅かに燻り続けていた自動修復の残滓によって、表面上は綺麗に拭い去られていた。

 けれど、白いシーツの上に半身を起こしている祈の佇まいは、退院の許可を出せるような状態からは程遠かった。

 触媒である金属製の杖を失い、他者の個性因子へ強引に干渉した反動。

 それによって引き起こされた『ジキルとハイド』の一時的な機能制限は、彼女の肉体だけでなく、その精神をも内側からズタズタに狂わせていた。

 

「神代さん。お水、ここに置いておくからね。喉が渇いたら少しずつ飲むんだよ」

 

 様子を見に訪れた看護師が、ベッドの脇のサイドテーブルに静かにグラスを置く。

 祈は、その言葉に対して拒絶も肯定もしなかった。ただ、首元に嵌められた公安の電子首輪が、主のバイタルの低下を示すように鈍く低体温のアラームを刻むなかで、視線をどこへでもない空間へと彷徨わせている。

 その瞳には、いつもの完璧に作り込まれた博愛の光はなく、底の抜けた沼のように昏く、完全に無気力に濁りきっていた。

 

「……はい。お空が、とても綺麗ですね」

 

 ぽつり、と。

 薄い唇から溢れ出た鈴の音のような声は、看護師の言葉に対して、致命的なまでに噛み合っていなかった。窓の外は、どんよりとした灰色の秋雨が世界を濡らしているというのに、彼女の脳裏には、まったく別の時間軸の映像が混濁して映り込んでいるようだった。

 

「神代さん……? 外は雨が降っているよ」

「……、」

 

 看護師が怪訝そうに眉をひそめて顔を覗き込んでも、祈はもう、それ以上の言葉を返さなかった。

 意識は確かに、ここにある。周囲の人間が発する音も、言葉も、その鼓膜には届いているはずだった。けれど、荼毘に磨り潰されたトラウマのせいで、記憶の繋ぎ方を完全に見失っていた。

 

 会話が、微妙に、けれど決定的にズレていく。

 それは、人間の情緒が壊れたというよりも、内部の歯車が噛み合わなくなった精密機械の機能不全そのものだった。

 夢のなかで見た、顔も思い出せない両親の温もりへの混濁。

 そして、自分を救うために自らを檻に閉じ込めたはずの、あのオールマイトによく似た男性。

 

(―――私は、知らなければならない)

 

 脳内で絶え間なく浮かんでは消える過去と現在の記憶、人間としての根幹への剥き出しの恐怖。

 自分が人間になりたくて、他人の本物の優しさに都合よく寄生して付け込んでいただけの化け物なのだという底暗い自責が、彼女からあらゆる生命の気力を奪い去り、生ける廃人のような虚無へと叩き落としていた。

 

 時間の経過すら、今の祈にとっては完全に歪んでいた。

 一時間が経ったのか、一秒が過ぎたのか。今が朝なのか、それともあの凄惨な拷問の夜がまだ続いているのか、その境界線がまったく判別できない。

 

「――神代さん、失礼するよ」

 

 ガチャ、と。

 数時間後、あるいは数分後。病室のドアが開き、雄英の職員が追加の書類を片手に入室してきた、その瞬間だった。

 

 ピキリ、と。

 祈の首元の黒い電子首輪が、外部からの人間の接近を感知して、一瞬だけ鋭く発光した。その刹那、それまで廃人のように虚空を見つめ、会話すら成り立たなかった祈の全身のシステムが、まるで強烈な電気ショックを与えられたかのように、パチリと音を立てて強制再起動を起こした。

 

「――っ、」

 

 濁りきっていた瞳に、一瞬にして、あの非の打ち所がない完璧な「救護補佐」としての博愛の光が、機械的に均一に灯る。

 祈はふっと背筋を行儀よく伸ばすと、昨日までの昏睡も、先ほどまでの無気力な混濁も、まるで最初から一切存在しなかったかのように、いつも通りの穏やかで柔らかな微笑みを完璧に貼り付けた。

 

「はい。お疲れ様です、先生。実務の件ですね―――」

 

凛とした、濁りのない鈴の音の声。

 あまりにも鮮やかすぎる、そしてあまりにも温度差の激しいその正常への復帰。

 

「あ、ああ……体調は、もう大丈夫なのか?」

「ええ、何の問題もありません。これくらいの不具合、すでにこちらの感覚で微調整は済んでおりますから。皆様のお役に立てるのなら、これ以上の喜びはありませんもの」

 

 にっこりと、曇りのない笑顔を浮かべて、テキパキと人形のような無駄のない所作で書類を受け取る祈。

 だが、その完璧すぎる笑顔の裏で、彼女の体内のジキルとハイドは、いまだ錆びついた歯車を軋ませながら、限界値ギリギリのレッドゾーンで虚しく空回りしているだけだった。外側のガワだけが規約通りに動いている、その中身の空虚な不気味さ。

 

「……そうか。それなら、いいんだが……」

 

 雄英の職員が、その神聖にしてどこか底冷えするような圧倒的な違和感を覚える。

 職員が慌てるようにして用件を済ませ、病室の扉を閉めて去っていった、その直後。

 パチ、と、祈の顔から、あの完璧な微笑みが、まるで仮面が剥がれ落ちるかのようにして一瞬で消失した。

 再び、元の底の抜けた無気力な廃人の目へと反転し、祈は力なくシーツの上にその細い身体を崩していく。首元のデバイスが、主の急激なエネルギーの低下を告げるように、ピピッ、ピピッ、と再び鈍い、冷たい警告音を静かな部屋の中に刻み始めた。

 完璧な道具として機能しなければならないという狂気的な完璧主義と、人間としての根幹がバグを起こして生きる恐怖に震えている、その引き裂かれた機能不全の箱庭。

 純白のシーツを血の通わない指先でぎゅっと握りしめ、祈が再び、時間の感覚すら失われた昏い混濁の泥濘へと沈み込み始めたのは、それから間もなくのことであった。

 

 

 

 

 

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