神様にはなれない私たち   作:琴ノ葉しずく

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第44話 禁忌に心を委ねる

 

 

他人が病室へと足を踏み入れた瞬間に、パチリと音を立てて強制再起動を起こす、祈の救護補佐としてのシステム。

 

 一時的にその完璧なガワを取り戻し、医師たちの問いかけに非の打ち所がない敬語と微笑みで応じてみせた結果、病院の面会謝絶の制限は水面下で静かに解除されることとなった。表面上のバイタルが安定したと判断されたためだ。

 けれど、その仮面が剥がれ落ちれば、再び底の抜けた無気力な廃人の目へと反転し、昏い混濁の泥濘へと沈み込んでいく機能不全は、何一つとして完治していなかった。

 そんな、静まり返った病室の扉を、ほとんど悲鳴のような勢いで押し開けて滑り込んできたのは、ある一人の大柄な男性だった。

 

「――神代、さん……っ!!」

 

 大柄な体躯を完全に保ったままのオールマイト――八木俊典が、激しい息切れと共にベッドの傍らへと崩れ落ちるようにして駆け寄る。

 

 ガチャ、という入室のノイズに反応し、祈の瞳に再び機械的な博愛の光が灯る。背筋を伸ばし、ベッドの上でふわりと柔らかい微笑みを貼り付けた。

 

「お久しぶりです、オールマイト先生。お怪我もされていないのに、そんなに息を切らされては、救護の道具として困ってしまいますが……」

 

 ミリ単位も自分を覚えていない、最上級の他人行儀の敬語。

 オールマイトはその言葉の冷たさに、声を詰まらせた。

 

「すまない……っ、すまない、神代さん……! 私は、ただ私情の怒りに任せて神野の街を破壊することしかできなかった……! 君をこんな身体にさせておいて、何が平和の象徴だ……!」

 

 オールマイトは大きな両手で顔を覆い、血の涙を流すようにしてその激重な情念を病室の床へと垂れ流した。けれど、目の前の祈は、そんな彼の激昂を前にしても、ただ凪いだ微笑みを浮かべているだけだった。

 

「お気になさらないでください、オールマイト先生。私はただの使い勝手の良い便利な道具ですので、皆様の代わりになることこそ、私の望みなのですから」

 

 その濁りのない自己否定。オールマイトがそれ以上の絶望に言葉を失い、やってきたリカバリーガールに強制的に病室から引き摺り出されていったのは、それから間もなくのことだった。

 

 

 

 

 

 

 

◇

 

 

 

 

 

 

 世界最強の男が去り、再び静寂が戻った病室。

 仮面を外して力なくシーツへ身体を沈めかけていた祈の元へ、次にやってきたのは、珍しくスーツ姿の相澤消太だった。

 ノックの音と共に現れた相澤の気配を察知し、祈は、その顔に誰もが好感を持つ微笑みを浮かべる。

 

「相澤先生ご無沙汰しております、ご機嫌いかがですか?」

「……お前、怪我はいいのか。そのツラは何だ」

 

 相澤はけだるげに首を振りながらも、ベッドの脇に立ち、祈の引き裂かれた修道服の残滓と、電流で灼け爛れた首元のデバイスを、不器用な教師としての、あるいは一人の男としての危惧に満ちた瞳で見つめた。アジトで、爆豪の目の前でボロボロに血を流し、自分をスペアと呪っていた女。

 

「私は大丈夫です、相澤先生。ラグドール様はお元気でしょうか」

「…お前、ラグドールに何をした?」

 

ラグドールの名前を出すと、一瞬だけ空気がひりついた。

 

「私の個性で、ラグドール様の個性を一部切り離させていただきました」

「!なんだと…っ」

「奪われたのは、切り離した個性です。個性因子はラグドール様のなかで凍結している状態ですので―――」

「つまり、完全に個性が消えたわけじゃねえのか」

「はい、そのとおりです」

 

 

 いつも通りの、完璧な博愛のセリフ。

 けれど、相澤が「そうか。……なら、すぐにあいつらに知らせないと――」と、話を切り出そうとした、その時だった。

 

「あの……相澤先生」

 

 祈の声が、僅かに揺れて途切れた。

 

 それは、入室のノイズによる強制再起動のシステムをすりぬけて漏れ出た、彼女の胸の奥底の、剥き出しの本音だった。

 祈は微笑みを消し、血の通わない細い指先で純白のシーツをぎゅっと握りしめると、相澤をまっすぐに見つめた。

 

「先生にひとつだけ、お願いがあります」

「……あ? 何だ」

「私に…心操くんに会わせて欲しいのです」

「……お前、何をするつもりだ」

 

 相澤の前髪に隠れた眉根が、鋭く、深く寄せられる。普通科の、あの他人の心を無理やり操る『洗脳』の個性を持つ少年の名前が、何故この最高機密の口から飛び出してきたのか。

 祈は自らの内に眠る、制限された駆動を抱えながら、昏睡の底で絶え間なく繰り返されていた、あの人間の根幹を揺るがす恐怖を必死に抑え込むようにして、静かに言葉を続けた。

 

「今回の件の代償で、私の意識と記憶が混濁しております。お恥ずかしい話ですが、個性も上手く使えなくなっています。何が現実で、何が正しくて、どうすればよいのか、何があったのか―――私は知らなければなりません」

 

 アジトで荼毘に詰め寄られた、オールマイトの命を救ったという過去。

 そして、夢のなかに現れる、あの大きなヒーローによく似た男性の残像。あの人が自分を愛してくれたのだろうかという、ハイドの呪縛の隙間から漏れ出た哀しい疑問。

 個性が制限され、自分自身の空虚さに胸を引き裂かれそうになっている今、彼女が自らを暴くために選んだのは、かつて自らがその在り方を全肯定した、心操人使の『洗脳』だった。

 他人の心を奪うなと教えた男に、自らの心を奪わせ、内側の檻を力ずくでこじ開けさせようとする、歪な博愛の知略。

 

 相澤は、彼女の首元でピピッ、ピピッ、と鈍い低体温のアラームを鳴らし続けている首輪の光をじっと見つめ、それから、深く、重いため息を吐き出した。それが、普通科の生徒を公安の最高機密の闇に巻き込む、危険な規約違反であると知りながらも。

 

「……分かった。退院前、あいつをここに連れてきてやる。……だから、今のうちは余計なノイズを回さずに、大人しく寝ていろ」

「――ありがとうございます、相澤先生」

 

 祈の顔に、今度は作り物ではない、どこか酷く儚くて優しい本物の微笑みが、ふわりと零れ落ちた。

 

 相澤が静かに病室の扉を閉めて去っていった、その直後。

 パチ、と、祈の顔からすべての感情が剥がれ落ち、彼女は再び、元の底の抜けた無気力な廃人の目へと戻って、シーツの上に力なくその身体を崩していった。

 失われた過去への微かな欲求と、人間としてのシステムが引き起こす激しい不具合。

 

 

「本当に…ままならないものですね……」

 

 

 

 

 

 

 

◇

 

 

 

 

 

 

 

 

相澤が去った翌日の、面会時間がとうに過ぎた深夜のことだった。

 

 静まり返った隔離病棟の長い廊下を、相澤に促されるようにして、心操は重い足取りで歩いていた。

 自らの個性の本質を全肯定してくれた純白のシスター。あの神野の夜、彼女が敵の巣窟で血塗れの状態で、世界最強の男に抱きかかえられて担ぎ出されたという不穏な噂を聞いてから、心操の胸の奥は、得体の知れない焦燥感でずっと締め付けられていた。

 

「――神代。連れてきたぞ」

 

 相澤が静かに病室の扉を開ける。

 入室のノイズに反応し、患者衣でベッドに横になっている祈の瞳に、パチリと機械的な博愛の光が灯った。

 

「心操くん。夜遅くにわざわざお越しいただき、ありがとうございます」

「……っ、神代、先生……」

 

 ベッドの傍らに立った瞬間、心操は祈のあまりの変わりように、思わず我が目を疑った。

 雄英の準備室で向かい合ったあの頃の彼女は、同じ白い肌ではあったが、まだ生きている人間としての確かな温もりと血色が通っていた。だが、今シーツの上に身体を起こしている彼女の姿には、生命の気配がほとんど感じられない。

 患者衣の襟元に覗く白い首筋は抑制器の電流で赤く爛れ、向けられた微笑みの奥にある肌は、まるで血が通っていない冷たい陶器のようだった。外側のガワだけが規約通りに動いている、その中身の空虚な不気味さが、心操の胸に強烈な悪寒を突き立てる。

 相澤はそんな二人の様子を一瞥すると、「時間はねえぞ。手短にしろ」とだけ言い残し、見張りとして部屋の扉を閉めて廊下へと下がっていった。

 病室には、祈と心操の二人だけが取り残される。心操が、未だに激しく脈打つ心臓の音を必死に抑えながら、どうにか言葉を絞り出した。

 

いつもならベールで隠されている祈の顔が、今日に限ってよく見える。

 

「神代先生。相澤先生から、あなたが俺に話があるって聞きました。……その身体、本当に大丈夫なんですか。個性が、上手く回ってないって……」

「ええ。何の問題もありません。これくらいの不具合、すぐに調整は済みますから…と言いたいところなのですが」

 

 祈はいつも通りのセリフを返し、けれどすぐに、ふっとその微笑みを消し去った。血の通わない細い指先で純白のシーツをぎゅっと握りしめ、心操をまっすぐに見つめる。

 

(こんな時なのに…)

 

生気を失ってなお美しい、祈の美貌に見惚れる心操。

 

「心操くん。……私を洗脳して、私の過去を話させて欲しいのです」

「……え?」

 

 心操の思考が、一瞬にして白く染まった。

 他人の心を無理やり操る自分の『洗脳』を、他ならぬ彼女自身が、自らの意志で、自らに上書きしろと求めている。

 

「私の意識と記憶が、混濁しております。あの森のなかで、あの人は私を『化け物』だと呼び、オールマイト様の命を救ったと言いました。けれど、私の記憶には何の記録も残っていない。何が現実で、何が正しくて、どうすればよいのか、何があったのか―――私は知らなければならないのです」

「どうして、俺に…」

「先生や警察、公安は…記録に残されるかもと思うと、不安なので」

「公安、が……?」

「はい。私は、あの方たちの前でこの不具合を晒すわけにはいきません。私が完璧な『道具』ではないと知られれば、ここにいられなくなる可能性が高いのです。……だから、あの方たちに私のなかを知られるのは、とても恐ろしいのです」

 

 祈はベッドの上で、すがるようにして心操を見つめ、組織に縛られた自身の脆さを告白しながら、静かに言葉を繋いだ。

 

「でも…俺の『洗脳』は効かないんじゃ」

「…ここだけの話ですが、状態異常にならないというのは半分は本当で、半分は嘘なのです」

「それって」

「はい、今の私には心操くんの『洗脳』は簡単にかかります」

「っそんな大事なこと、俺に話していいんですか…?」

 

「すいません、でも心操くんなら、悪いようにはしないと思ったので」

「――――っ、」

 

 自分を保護しているはずの大人たちや公安の誰も信用していない彼女が。他ならぬ普通科の自分だけを「この人なら悪いようにはしない」と、その魂のすべての防衛線を解いて、無防備に委ねてきている。

 心操は熱くなる顔を隠すようにフイと視線を激しく逸らし、口元を強く手で押さえた。

 

(だめだ、なんで)

 

胸の奥が、かつてないほどの激しい動揺と重苦しい感情で満たされていく。

 

「……すいません、少し……考えさせてください」

 

 心操は低く掠れた声を絞り出し、その場での行使を一旦保留にした。

 

 

 

 

 夜。

 心操は自室で、一人机に向かっていた。

 目の前には、何も書かれていない真っ白なノートが広がっている。けれど、彼の頭の中には昼間の祈の、あの血の通わない陶器のような顔と、切実な言葉が何度も何度も浮かび、消えなかった。

 

――私を洗脳してもらえませんか?

 

「……無理だろ」

 

 ぽつり、と小さく呟く。

 技術的には、できる。祈が自分の問いかけに一言でも反応すれば、個性は発動する。そして質問をすれば、洗脳状態の祈は淡々と答える。それだけなら簡単だ。問題は、その先だった。

 

「……過去を話させる、か」

 

 心操は静かに目を閉じる。

 祈が忘れている過去。神野で何かを思い出しかけたという過去。公安にいた頃のこと。それよりももっと昔のことかもしれない―――そこに何があるのか、心操は知らない。

 

 知らないからこそ、怖かった。

 もし、そのなかに。本人が無意識に封じ込めているほど、辛く凄惨な記憶があったら?

 もし、祈が自分の意思では触れられないように、深く閉ざしている記憶だったら。

 

「……俺が勝手に開けたら」

 

 心操の手が止まる。

 洗脳という異能は、本人の意思を強引に飛び越える。たとえ祈自身が望んで頼んだことだとしても、それは強制的な介入に他ならない。

 

「……それって、本当に本人のためなのか?」

 

 暗闇のなかで、どれだけ思考を巡らせても答えが出ない。

 祈は「知りたい」と言った。自分が何を忘れているのか知り、何が本当なのか確かめたい。その必死な気持ちは理解できる。

 でも――知ることが、必ずしも救いになるとは限らない。

 心操はそれを知っている。人間は、都合の悪いことを忘れることで、辛うじて今日を生きられることもあるのだ。

 だったら、自分の個性で無理やり記憶を引きずり出して、祈がその激痛に耐えられなかったら?二度と思い出さない方がよかったはずの地獄だったら。

 

「……俺が、あの人を壊したら」

 

 その言葉だけは、口にすると妙に生々しい現実味を帯びて胸を突いた。呼吸が苦しくなる。自分はずっと、自分の個性を「人を傷つける力」「敵向きの力」だと思われることに慣れてきた。そんな周囲の言葉には、とっくに耳を塞いできたはずだった。

 

でも、祈だけには――「怖い個性だ」と思われたくなかった。

それ以上に、祈を傷つける人間にだけは、自分は絶対になりたくなかった。

心操は椅子に深くもたれかかった。

 

「……頼まれたからって、何でもやればいいわけじゃないだろ」

 

 それでも、目を閉じれば、昼間の祈のあの消え入りそうな顔が浮かぶ。

 

『心操くんなら、悪いようにはしないと思ったので……』

 

「……」

 

 その言葉が、今の心操にとって一番苦しく、重かった。

 自分を信じてくれている。だからこそ、その信頼を裏切りたくはない。

 

「……はは」

 

 小さく、自嘲気味な笑みが漏れる。

 

「そんなこと言われたら……断れないじゃん」

 

 でも、何の手策もないまま簡単には引き受けられない。心操はペンを握り、真っ白なノートを開いた。そして、自らを律するための規約を、一行だけ、強く書き込む。

 

 

『本人の意思を尊重すること』

 

 

 少し考えて、その下にもう一行、インクを走らせる。

 

『記憶を掘り起こすことを目的にしない』

『途中で拒否した場合、即座に解除する』

 

 ペン先が僅かに止まる。心操は自身の胸の奥にある、歪な独占欲と好奇心の澱を見つめ、最後に、最も重い一文を刻みつけた。

 

『俺自身の好奇心を絶対に混ぜない』

 

 そこまで書いて、心操はようやく肺の空気をすべて吐き出した。

 祈の過去を知りたい。何があったのか知りたい。どうしてあんなふうに、自分を道具と呼びながら笑えるのか知りたい。……本当は、彼女のすべてを、俺だけが知りたい。

 けれど、それは自分が知りたいだけだ。祈のためではない。

 

「……俺が知りたいからって、掘り返していいわけじゃない」

 

 だから、もし引き受けるなら。過去を無理やり「暴く」のではない。祈が自分でも見つけられなくなってしまった記憶の秒針を、ただ隣で、一緒に探す。それだけにする、と。

 

 

 

 

 

 

 

◇

 

 

 

 

 

 翌日。

 心操は再び、一般病棟の祈の前に立った。相澤が見守るなか、心操はまっすぐに彼女を見据える。

 

「……神代先生、俺、やります」

 

 その言葉に、祈の陶器のような表情が、ほんの少しだけ和らぐように緩んだ。

 

「ありがとうございます」

「ただし、条件があります」

「条件、ですか?」

「俺が質問しても、答えたくないことには答えなくていいです」

「……でも、洗脳するんですよね?」

「だからです」

 

 心操は一歩踏み出し、真っ直ぐに祈の瞳を見つめた。

 

「洗脳しても、あなたの意思まで俺のものになるわけじゃない」

「……、」

「俺は過去を暴きたいんじゃないです」

 

 ほんの少しだけ、彼のぶっきらぼうな声が柔らかくトーンを落とす。

 

「あなたが、自分で向き合えるところまでしか行きません」

 

 祈はしばらくの間、何も言わずに黙っていた。完璧な道具として機能することだけを規約としてきた彼女の胸の奥が、その少年のどこまでも真っ直ぐな誠実さによって、静かに揺り動かされる。

 

 やがて、祈の薄い唇から、微かな呟きが漏れた。

 

「心操くんは、やっぱり優しいですね」

「……そういうの、今はいいです」

 

 心操はフイと顔を僅かに逸らし、ぶっきらぼうに遮った。

 

「どうしてですか?」

「余計に、やりづらくなるから」

 

 その反応に、祈は小さく、今度は仮面ではない笑みを零した。

 

「分かりました」

 

 そして、静かにその美しい目を閉じる。

 

「お願いします」

 

 心操は大きな拳を、ズボンのポケットの中で強く握りしめた。

 

(――絶対に、この人を傷つけない)

 

 その揺るぎない男としての誓いを胸に宿しながら、心操は自分の個性を発動する準備のため、静かに、最初の言葉を紡ぎ始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

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