普通科の少年に自らのすべてを「聞いて」もらったあの奇妙な聖餐の夜が明けると、祈の肉体を支配していた機能不全は、目を見張るほどの鮮やかさで霧散していた。
他人に自らの地獄を記録ではなく一人の人間としてただ受け止められたという、かつてない心の充足。祈の内の澱がすっきりと落ちたことで、不安定だった『ジキルとハイド』の駆動は再び正常な噛み合いを取り戻し、それまで限界値を叩いていたバイタルログは急速に均一な安定を示し始めた。
機能制限が綺麗に解除された彼女の肉体は正常な数値を刻み、医師たちを驚愕させる手際の良さで、退院の許可をもぎ取ったのである。
白い患者衣から、支給された新たな修道服へと着替えを終えた午前、静まり返った病室のドアがガチャと気だるげな音を立てて開いた。
「はぁ……どうも、公安の目良です……。神代さん、無事に退院できるようで何よりですよ……」
入ってきたのは、見るからに目の下に酷いクマをこしらえ、今にも過労死しそうなほどに擦り切れた足取りをした公安の職員――目良善見だった。片手に持った栄養ドリンクの空き瓶をデスクに置くと、彼は死にそうな目で祈を見つめ、深いため息を吐き出した。
「あなたが敵連合に拉致されたお陰で、公安の上層部が蜂の巣をつついたような大騒ぎになりましてねぇ……。おかげさまで、私の残業時間が今月も過労死ラインを3回くらいぶっちぎりました。私にまとまった休みをください、本当に……」
目良は死屍累々といった様子で頭を抱えながらも、カバンから公安の正式な命令書を取り出し、ベッドの上の祈へと手渡した。
「はい、これ、実務命令書です。もうすぐ始まる『プロヒーロー仮免許試験』ですが、あなたには現場の特設救護班、および試験データの収集役として、同行の要請が出ています。……当然、体調が最優先ですが、上からの命令ですので、あー、うん、そういうことです……」
愚痴を零しながらも、事務的に淡々と仕事をこなす目良。祈は、自分の目の前で今にも労働環境の犠牲になって壊れてしまいそうなその男の姿を、レースのヴェールの向こう側からじっと見つめた。もともと人の世話を焼くのが好きな彼女にとって、一生懸命に世界のなかで働き、すり潰されている目の前の役人の姿は、放っておけるものではなかった。
「目良様、酷いお疲れですね。……少し、そのまま楽にしてください」
祈はベッドから立ち上がると、目良の前に歩み寄り、包帯の取れた手のひらを彼の硬直した額へとそっと翳した。
制限が解除され、完全な出力を取り戻したジキルの光。祈は目良の脳と神経に蓄積した徹夜の疲労だけを、精密にピンポイントで完治させた。
じわり、と透き通るような白光が目良の頭部を包み込む。その瞬間、目良はハッと大きく目を見開いた。2週間近くまともに寝ていないはずの脳内から、あの鉛のように重かった倦怠感と偏頭痛が、一瞬にしてミリ単位も残さず綺麗に消え去っていた。
驚愕に目を丸くした目良は、自分の頭を何度も触り、それから目の前に佇む祈の美貌を見つめた。けれど、彼は惚れ込むような真似はしなかった。ただ、あまりの快適さに、ふぅ……と長いため息を吐き出す。
「!!あー、うん……こういうのが、あれだと思うんですよ。美人の白衣の天使が来たらそりゃあねぇ、まとまった休みを2週間くらい貰った気がしますねぇ、これ。都市伝説かと思いましたよ」
「大丈夫そうですか?」
「はい、これでまた…働かされてしまうのですが、まぁとりあえず快適です……」
どこか他人事のように、けれど本音で心底感心したように呟く目良。祈はそんな彼の現実的な反応に対しても、今までの硬さは一切なく、機嫌よくにこにこと微笑み返していた。その曇りのない表情は、まるでそれ自体が光を放っているかのように病室をぺかーと明るく照らしている。
「目良様もお仕事大変ですね、いつもお疲れ様です」
「本当、その通りですよ。……まぁ、どうせ明日にはまた残業で元に戻るんでしょうけど。では、仮免試験の会場で」
目良は少しだけ軽くなった足取りで病室を後にした。
◇
目良が去った後、今度は入れ替わるようにして、ゆるっとしたスーツ姿の相澤消太が入室してきた。相澤は手元に用意された雄英高校の新方針に関する書類をサイドテーブルへと置くと、けだるげに前髪をかき上げた。
「――神代。退院手続きは済んだようだな。……早速だが、雄英は今回の事件を受けて、生徒の安全確保のために全寮制へ移行することが決定した。1年A組のハイツアライアンス……生徒の寮だが、お前にも救護補佐として、同じ屋根の下で共同生活を送らないかという打診が校長から出ている」
「まぁ、全寮制…」
「どうだ?」
「……」
相澤の言葉に、祈はレースのヴェールの向こう側で、僅かに目を細めて沈黙した。
子供が大好きな彼女にとって、未来に向かって一生懸命に走り回る若い教え子たちと同じ屋根の下で暮らせるという提案は、本来であれば内心とても喜ばしいものであるはずだった。
けれど、彼女の脳裏には、あの林間学校の森で荼毘の青炎に磨り潰され、機能停止に陥りかけた、あの凄惨な拷問の記憶が最悪のトラウマとして居座っていた。もし自分が生徒たちのすぐ近くに身を置けば、ヴィラン連合はまた最高機密を狙って、あの子供たちを最悪の危険へと巻き込んでしまうかもしれない。
「…お気遣いはとても有り難いのですが、相澤先生。私は、今のまま公安に手配されたあの一軒家での一人暮らしを続行いたしますね。あの方たちのログの監視下にある今の生活の方が、子供たちの安全のためには、まだ確実な選択肢ですので」
「そうか…あいつら、楽しみにしていたんだがな」
「えっ、それを言われると弱いのですが」
「冗談だ」
「……もう」
声に抑揚を乗せないまま、けれどどこか晴れやかな響きを伴って断る祈。相澤はその自己犠牲の在り方に苦い息を吐き出したが、公安の水面下の思惑もあり、彼女の希望通り「一人暮らしの継続」の書類に静かにサインを落とすしかなかった。
◇
そして退院の手続きがすべて完了し、一軒家へと戻るため、病院のロビーへと足を踏み入れた祈の前に、物凄い威圧感と熱量を孕んだ大柄な体躯が静かに立ちはだかった。
「――神代先生。退院おめでとう。体調は、もう本当に大丈夫なのかい」
「オールマイト先生……。ええ、おかげさまで。ご心配をおかけいたしました」
そこにいたのは、ヒーローを引退し、大柄な体躯を保ったままの八木俊典だった。
かつての彼は、物陰から自分を遠く見つめるだけの、圧倒的な光を放つプロヒーローでしかなかった。けれど、神野の夜に血を流す自分を毛布で包み込み、誰よりも必死に抱き上げてくれた彼の、その大きな掌の温もりを、祈の肉体は確かに記憶している。
向けられた彼の瞳に宿る、静かで、張り裂けそうなほどの真摯な光を見つめながら、祈のオールマイトに対する態度は、明確に軟化していた。
そしてオールマイトは、以前の祈とは違う柔らかな雰囲気に少しだけ動揺した。いつもであれば、丁寧すぎる敬語ですぐさま壁を作っていたはずだ。失礼な振る舞いはされないが、どうしても距離を感じてしまう対応をされていたのだ。しかし、今は―――なんだか距離が近いような気がする。
「あの…もうヒーローを引退されたとのことなので…これからは、八木先生とお呼びした方が良いのでしょうか…?」
接触しているわけではないのだが、手を伸ばせば届きそうな距離で祈がオールマイトを見上げている。
オールマイト、身長220センチ。
対する祈は、身長168センチ―――
(ちっ、近すぎる…!!)
懐きそうで懐かなかった野良猫が急に距離を詰めてきた感覚といえば良いだろうか。神野では助けたとはいえ、彼女への暴行を止めることはできなかったというのに、もしやそれで心を許してくれたのだろうか。
「オールマイト先生?大丈夫ですか?どこかお怪我でも…」
「大丈夫だとも!そうだな、好きに呼んでくれて構わないさ」
「よかった…あと、助けに来ていただいて本当にありがとうございました」
祈はほっとした表情を緩ませると、今度はぺかーと光を放つような笑顔を向けた。作り物ではない、彼女の本来の愛らしさがロビーを柔らかく包み込んでいく。オールマイトはそのあまりの眩しさに一瞬だけ言葉を失い、胸の奥を狂おしいほどの愛おしさで締め付けられながらも、一人の紳士として、落ち着いた声音のなかに揺るぎない決意を込めて言葉を紡いだ。
「聞いたよ。君は寮に入らず、あの一軒家に戻るそうだね。だが、先日の事件の直後だ。ヴィラン連合の残党がいつまた君を狙って襲いかかってくるか分からない。非常に危険だ」
「ええ。ですが、私が皆さんの邪魔になってしまいますから…」
「あの子達はそんな風に思ったりしないさ」
「盾くらいにはなれると思いますけど…」
「そんなことは絶対にさせない」
八木は一歩踏み出し、祈の真っ直ぐな瞳を静かに見据えた。
「そこでだ、神代先生。ヒーローを引退して時間が有り余っているこの私に、君の護衛をさせてほしいんだ。君の安全を、私が責任を持って24時間体制で守る。……私を、君の傍に置いてもらえないだろうか」
その、どこまでも誠実で、一切の下心を感じさせない大人の男としての真摯な提案。
ハイドによって特別な好意を抑圧されている祈の脳内は、彼のその言葉を、純粋な「護衛の要請」として受け止めていた。けれど、それ以上に、彼が放つ圧倒的な包容力と温かさに、今の彼女の心は、不思議と拒絶を返そうとはしなかった。
祈はオールマイトの顔をじっと見つめ、それから、にこにこと嬉しそうに頷いた。
「八木先生がそう仰ってくださるのなら……分かりました。引退されてもなお、私の安全にまで気を配ってくださるなんて、本当に親切な方ですね」
「……いいのかい?その、嫌がられると思っていたのだけど」
「うーん、確かに24時間はちょっと長すぎるかもしませんね。なので無理のない範囲でお願いできればと思います」
「(無理はしていないというか、むしろずっと張り付いていたいくらいなのだけど)」
やはりそういう倫理感は人とズレている祈だった。
「幸いなことに学校からそれほど離れていませんし…護衛といっても、通勤と帰宅くらいでしょうか」
「じゃあ送り迎えだけでもさせてもらおう」
「ふふ、お願いいたします」
「……ありがとう、神代先生。君のことは、私が必ず守るよ」
オールマイトの瞳に、これからは一人の男として、彼女を傷つける全てのものから守り抜くという誓いの火が灯る。
「ふふ、八木先生は相変わらず、お元気な方ですね」
ヴェールの向こう側で、彼に関する過去の具体的な記憶だけを綺麗に忘却したまま、けれどその温もりに少しだけ心を委ねるようにして、オールマイトと共に、静かに病院のロビーを後にするのだった。
◇
雄英高校のハイツアライアンスへの移行と引っ越し作業が慌ただしく進むなか、1年A組の教室は、ある一人の少年の放つ凄まじい刺々しさに支配されていた。
その少年―――爆豪勝己は、不機嫌極まりない顔で机に頬杖をつきながら、頑なに教室の入り口から視線を逸らし続けていた。
彼の脳裏には、あの薄暗いアジトのコンクリートの床にどさりと崩れ落ちた、血まみれの祈の姿が、今なお消えない傷痕として生々しく焼き付いている。指先一つ動かせない自分の不甲斐なさ。猿轡の奥で声を上げて号泣した、あの夜の情けなさ。
(ちくしょう……何が『勝己くん、お怪我はありませんか』だ、クソババァ……。テメェなんぞに守られてたまるかよ…クソッタレが…!!)
一人で勝手に最悪のトラウマを拗らせ、彼女への黒い情念をギチギチと煮詰めていた、その時だった。ガラリ、と。教室の扉が静かに開く。
「皆様、ご心配をおかけいたしました。救護補佐として、本日より復帰いたしますね」
鈴の音のような凛とした声。
爆豪はビクリと肩を震わせ、最悪の惨状を覚悟して、奥歯を噛み締めながら恐る恐る扉の方へと視線を向けた。
だが――そこに佇んでいた祈の姿は、爆豪が勝手に想像し、怯えていた「血塗れで見るも悲惨な被害者」の絵面とは、根本的に、致命的なまでに異なっていた。
「「っ神代せんせ―――――!!!!!!」」
「「会いたかった――――!!!」」
芦戸や切島たちが歓声を上げて教壇へと殺到する。緑谷、飯田、麗日、八百万、蛙吹、口田、耳郎あたりは涙ぐんでいた。峰田は…言うまでもない。
その中心に立つ祈は、衣服こそ公安の手によって新調されたいつもの修道服だったが、その雰囲気は、入院前とは比べものにならないほど清々しく、すっきりとしていた。
始めて顔を合わせたあの頃の硬さは一切消え失せ、今の彼女は、根っからの子供大好きな本心を隠そうともせず、生徒らに会えた喜びでにこにこと笑っている。ヴェールの向こう側から零れ落ちるその曇りのない表情は、まるでそれ自体がまばゆい光を放っているかのように、教室のなかをぺかーっと明るく照らし出していた。
「あ、あの、皆様……距離が、少し近いです。私はただの救護補佐ですので、どうかそんなに泣かないでくださいね。……本当に、皆様がご無事でお顔を見られて良かったです」
嬉しそうに、楽しそうに目を細めて教え子たちを愛おしそうに見つめる祈。心操に地獄のような過去をただ静かに受け止めてもらったことで、彼女の人間としての情緒は、これまでにないほど健やかに前を向いていた。
――だが、その「思ったより何倍も元気で、すっきりしている聖女の輝き」をダイレクトに視界に叩き込まれた爆豪の脳内は、一瞬にして凄まじいパニックを引き起こした。
(……は? 何だアイツ。なんで、なんであんなに笑ってやがる。血塗れで死にかけてただろ。俺の目の前で、ボロ雑巾みてぇに。……なんで、俺だけがこんなに引きずって、ちくしょうって泣いて、毎日アイツのことばっか考えて……!!!)
自分だけが最悪のトラウマに囚われ、自分だけが深刻に悩んでいたという、あまりにも恥ずかしく、理不尽なまでの温度差。置いてけぼりにされた不甲斐なさと、彼女の放つ「ぺかー」とした圧倒的な無自覚の眩しさに脳の許容量をぶっちぎられた爆豪は、次の瞬間、烈火のごとき羞恥と共にガタガタと激しく椅子を蹴り上げて立ち上がった。
「――っ、おいコラ、クソババァアアアッッ!!!!!」
突然の、教室を引き裂くような爆豪の怒号。
緑谷や麗日たちが「ひえっ!?」と肩をすくめて狼狽するなか、爆豪は顔をこれでもかと顔を紅潮させ、鋭い牙を剥き出しにして教壇の祈へとドカドカと歩み寄り、机を思いきり叩きつけた。
「てめぇ、何が『ご心配おかけしました』だ!! 舐めてんじゃねえぞ、何がにこにこだ、何がぺかーだクソが!! てめぇあの時、コンクリートの上でドロドロに血ィ流して死にかけてただろがよ!! なんでそんな、何事もなかったみたいにすっきりした面して戻ってきてやがるんだ、この出来損ないの人形がァッ!!」
完全に八つ当たりの逆ギレだった。
傷ついていてほしかったわけではない。だが、あまりにも自分の執着(クソデカ感情)を置き去りにして、独りで勝手に救われて元気に笑っている彼女の在り方が、思春期の男子としてのプライドを苛烈に逆撫でしたのだ。
しかし、そんな爆豪の凄まじい形相の威嚇に対しても、今の祈は怯むことすら知らなかった。
祈はにこにこと機嫌の良さそうな表情のまま、むしろその怒れる子供の姿が可愛くて堪らないといった様子で、ぺかーと光を放つような笑顔を爆豪へとまっすぐに向けた。
「ふふ、勝己くんは相変わらず元気いっぱいで、お口が悪いですね。……はい、心操くんが、私の不具合をとても優しく聞いてくださったおかげで、私はとてもすっきりして、皆様の前に戻ってくることができたのですよ」
「しん、そう……? あの普通科の、不眠症野郎だと……!?」
爆豪の動きが、ピキリと凍りついた。
最前列でノートを握りしめていた緑谷のペンの動きも止まり、教室の隅にいた轟もオッドアイの瞳を鋭く細める。
自分の知らない入院生活の空白の時間のなかで、彼女の最も深い「不具合」に触れ、彼女をこんなにも眩しく変化させた男の影。
「ええ。私は皆さんに救われてばかりですね……勝己くんも、私を心配してそんなに怒ってくださるなんて、本当に優しいですね」
祈はそう言って、爆豪の目の前で、慈しむように小さく首を傾げた。
子供扱いされることに激昂し、赤を通り越してドス黒くなりそうな爆豪は、その圧倒的な天然の聖性と汚れ一つない彼女のまばゆさに、言葉のすべてを搦め捕られて歯噛みする。
(心操……テメェ、俺の目の前で壊れかけたあの女のなかに、勝手に入り込んで何しやがった……っ!)
ヒロインはファザコン。
そしてヒロインに弱い人たちはおそらくババコン。