その人は、まるで一本の古い蝋燭が静かに溶け落ちていくように、ゆっくりと、確実に衰えていった。
個性の特性ゆえに、二十代の美しい姿のまま一秒も老いることのない私とは対照的に、エリアス神父様の細い体は、季節が巡るたびに小さく、脆くなっていく。
階段を上る足取りは遅くなり、人々の傷を肩代わりしてきたその傷だらけの両手は、いつしかひどく小刻みに震えるようになっていた。
「祈、すまないね。今日も礼拝堂の準備を、君に押し付けてしまって」
「何を仰るのですか、神父様。私にできることなら、何だって喜んでいたします」
私は黒い修道服の裾を揺らしながら、ベッドの上の神父様に温かいスープを差し出した。
かつて私を地獄から救い出し、一人の人間としての名前をくれた、世界でたった一人の大切な父親。
彼を失うかもしれないという恐怖が、静かに、けれど容赦なく私の胸を締め付けていた。
だから私は、彼が愛したこの教会を、彼が愛した街の人々を、彼に代わって必死に守り、愛そうとしていた。
けれど、別れの夜は、ある冬の酷く静かな日に訪れた。
薪ストーブの爆ぜる音だけが響く薄暗い寝室で、神父様はもう、目を開けることすらおぼつかなくなっていた。
かすかな、今にも途切れそうな呼吸の隙間で、彼は私の手を、あの傷だらけの温かい手で、最後の力を振り絞るようにしてぎゅっと握りしめた。
「祈……優しく、育ってくれたね。本当に……自慢の娘だ」
「神父様、お願いですから、無理に喋らないでください……っ」
白いレースのヴェールの下から、堪えきれない涙がボロボロと溢れ落ちる。
私の内に眠る、あの『生と死』を操る異能を使えば、彼の命を強引に繋ぎ止めることができるかもしれない。
その衝動が頭をよぎった瞬間、神父様はすべてを見透かしたように、穏やかに首を振った。
「力は、隠しなさい。出来る限りで人を助け、……人を、愛しなさい」
「でも…」
「優しさだけが愛ではないのだよ」
「そんな、ことは」
「君は、神様にはなれなくていい……ただの、一人の人間として、幸せになりなさい……」
それが、彼の最後の言葉だった。
握りしめられていた手の力が、ふ、と嘘のように抜ける。
静寂が部屋を満たし、世界で一番優しかった人の呼吸が、完全に停止した。
街の人々が集まり、涙の中で執り行われた温かい葬儀。誰もが神父様の死を悼み、私を慰めてくれた。
けれど、彼らが去り、誰もいなくなった静まり返った教会で、私は本当の「地獄」へと突き落とされることになる。
周囲が落ち着きを取り戻した頃、私は一人、形見分けのために神父様の書斎の遺品を整理していた。
机の奥の引き出し、その二重底になっている隠し場所に、古い鍵がかかった革のファイルが眠っているのを見つけた。神父様の思い出の品か何かだろうか。そう思って、見よう見まねで鍵を開け、中の書類を引っ張り出した、その瞬間だった。
『ヒーロー公安委員会・極秘報告書』
『管理番号:特A-093 サンプル名:神代祈』
最上段に捺された、血のように赤い「極秘」のスタンプ。
めくっても、めくっても、そこに並んでいたのは、私の知っている「優しいお父さん」の言葉ではなかった。
『今月の健康診断データ提出。個性の因子に異常な活性化は見られない。精神状態は極めて安定しており、完全にこちらのコントロール下にある』
『対象は記憶喪失のままであり、過去の宗教施設におけるフラッシュバックの兆候はなし。引き続き「保護」の名目での軟禁・監視を継続する』
『万が一、生と死の個性の暴走、あるいは反社会的な兆候が見られた場合は、規定通り即座に私の権限において『処理』の準備に入る』
「……ぁ、え……?」
指先から、血の気が一瞬で引いていくのが分かった。
書類を握る手が、ガタガタと激しく震え、紙がぐしゃりと耳障りな音を立てる。
それは、私の知っている神父様の文字だった。
いつも聖書をめくり、私に言葉を教えてくれた、あの温かい手の主が書いた、冷徹極まりない事務的な報告書。
「うそ……嘘、よね? 神父様……っ」
心臓が早鐘を打ち、視界がぐにゃりと歪む。
頭が、拒絶していた。信じたくない、と魂が叫んでいた。
だって、あの人は私に美味しいご飯を作ってくれた。
スープをふうふうと冷まして、私の口元に運んでくれた。
私が熱を出してうなされた夜は、ずっと隣で私の手を握り、眠らずに子守唄を歌ってくれた。
「神様にはなれなくていい、私の自慢の娘だ」と、涙を浮かべて言ってくれた。
あの優しさは、あの温もりは、全部――私を『完璧にコントロール』するための、公安の冷徹な任務に過ぎなかったというの?
「違う……違う」
「神父様がそんなことするはずがない……!」
私は狂ったように他の書類を貪りめくった。
神父様が公安を裏切ろうとしていた証拠や、私を本当に愛していたという『言い訳』を、涙でかすむ視界の先で必死に探した。
お願いだから、私を安心させる言葉を見つけて。
私は一人の娘として愛されていたのだと、誰か言って。
けれど、めくっても、めくっても、出てくるのは『サンプル』『観察結果』『処理』という無機質な文字の羅列だけだった。
過去の数年間、毎月、毎月、一枚の滞りもなく提出され続けた完璧な報告書の山。それは、神父様が何一つ職務を怠ることなく、冷徹な『監視役』として完璧に任務を遂行していたという、揺るぎない現実の証明だった。
――私はまだ、人を愛する心がわからない。
神父様にそう言った時、あの人は寂しそうに微笑んでいた。
けれど、嘘だ。
わからないはずがない。
現に、私の胸の奥は、今にも張り裂けそうなほどに痛くて、苦しくて、息ができない。
あの優しかったお父さんに「裏切られたかもしれない」という事実が、これほど私を狂わせそうにしている。
私は、あの人と過ごした時間を、あの人の差し出してくれた温もりを、狂おしいほどに信じたかった。
愛していたのだ。
なのに、書類は冷たく私を突き放す。
死んでしまったあの人は、もう何も答えてくれない。
「……ああ、そう、か」
どれほど書類を探しても、私の望む『言い訳』は、どこにも残されていなかった。
ガタガタと震えていた体が、ふ、と急速に冷えていく。
神様にはなれなくていい? 人を愛しなさい?
違う。あれは、私を公安にとって「都合の良い便利な道具」として飼い殺しにするための、呪いの調教だったんだ。私を大人しくさせるための、首輪だったんだ。
「嘘つき……ッ!!」
私は書類を床に叩きつけ、自分の胸元に触れた。
そこには、神父様が死の間際に私の首にかけてくれた、銀色のロザリオが揺れている。
『君の個性が暴走しないように、私からのお守りだよ』――。
その優しい言葉の本当の意味を、私の心が理解してしまった。これはお守りなんかじゃない。
私が牙を剥かないように、公安が私に嵌めた「精神的な首輪(檻)」だったのだ。
誰も信じられない。誰も、信じてはいけなかったんだ。
私の周りにいた大人たちは、白衣の研究員も、あの優しい顔をした神父も、全員が私を「化け物(サンプル)」として値踏みし、檻の中で転がしていただけに過ぎない。
涙はもう出なかった。
代わりに、引き裂かれた胸の奥から、乾いた、狂気じみた笑いが漏れ出す。
私の心の中にあった、せっかく溶けかけていた温かい感情が、一瞬にしてどす黒い漆黒の氷へと染まり、ガチガチに凍りついていく。
神父様の残した「人を愛しなさい」という遺言が、私の魂を未来永劫縛り付ける、最悪の『呪縛』へと変貌した瞬間だった。
――けれど、そうして全てを呪い、心を殺したはずなのに、私の肉体は奇妙なほどの矛盾を孕んでいた。
◇
翌朝、私はいつもの時間に目を覚まし、いつものように黒い修道服へと袖を通していた。
そして、手垢のついた雑巾をバケツに浸し、神父様が生前そうしていたように、誰もいない礼拝堂の床を一枚一枚、静かに磨き始めるのだ。
日曜日になれば、神父様を失って悲しみに暮れる街の人々のために教会の扉を開け、彼らの話を綺麗な敬語で聞き、慰めの言葉をかけた。
近所の子どもたちが「おねえちゃん!」と泣きついてくれば、白いレースのヴェールを少しだけ持ち上げて、その小さな頭を優しく撫でてやった。
(どうして……? どうして私は、まだこの場所を守っているの?)
床を磨く私の手が、ふと止まる。
あの人は嘘つきだった。私はただの見張り対象だった。
そう書類が証明しているのに、私は今も、あの人が愛したこの教会を、あの人が遺した「優しくありなさい」という教えを、必死に守り続けている。
すべてが嘘だったのだと、冷たく割り切ってしまえばいいのに。
いっそこの教会に火を放って、どこかへ逃げ出してしまえばいいのに。
それなのに、私はどうしてもこの場所を捨てることができなかった。
『君は、神様にはなれなくていい……ただの、一人の人間として、幸せになりなさい……』
目を閉じれば、あの温かい、最期の声が頭の奥で木霊する。
あの書類に並んだ無機質な文字の羅列よりも、私の頭を撫でてくれたあの手の温もりを、スープの温かさを、私の心が、私の肉体が、どうしても忘れられないのだ。
(私は、まだ……神父様のことを、信じたいのかもしれない)
どれほど裏切りの証拠を突きつけられても、私の奥底にある『祈り』は、まだあの人を愛することを諦めていなかった。
そんな自分の、惨めなほどの往生際の悪さに、胸の奥が焼き切れるように痛む。
「……神父様。私に名前をくれたとき、私を抱きしめてくれたとき……あなたのお心は、本当に、ただの任務だったのですか?」
静まり返った礼拝堂の十字架に向かって、私はぽつりと問いかける。
けれど、当然のように、誰も答えてはくれない。
冷たいステンドグラスの光が落ちるだけで、死んでしまったあの人は、もう二度と言い訳をしてはくれない。
それでも、世界は残酷なほどに何事もなかったかのように動き続け、日々は淡々と過ぎていく。
神父様のいない静かな教会で、私は一人、答えのない問答を繰り返しながら、ただお人形のように心を消して、果てのない孤独な日常を繰り返していた。
―――神父様が旅立ってから、数ヶ月が経った、ある雨上がりの午後のことだった。
コツ、コツ、コツ。
冷え切った礼拝堂に、教会の重い扉を開けて、不躾な革靴の音が響き渡った。
振り返ったレースの網目の向こう。
そこに立っていたのは、死んだ神父様とは似ても似つかない、仕立ての良い黒スーツに身を包んだ、ひどく気だるげな若い男だった。
「あー……君が例の『生き神様』? 今日から新しいお目付け役になった、筑紫(つくし)です。よろしく」
新しい監視の犬が、やってきた。
私はレースの下で、完璧に感情の消え失せた、底暗いお人形の微笑みを浮かべた。