全寮制への移行が完了し、雄英高校の敷地内が新たな生活の足音で賑わい始めた、ある休日のこと。
轟焦凍は、いつものように足取りで、実の母親である冷が入院している精神病院の静かな廊下を歩いていた。家庭を壊し、自分たちを個性の道具としてしか見なかった父親――エンデヴァーへの消えない怒りと、母親への罪の念。体育祭をきっかけに少しずつではあるが前進している轟家ではあるものの、やはり数年の溝は大きい。冷の病室の前に立ち、焦凍がそっとドアノブに手をかけた、その瞬間だった。
「――ふふ、冷様。美しい絵を描かれましたね」
部屋の向こうから聞こえてきたのは、この静寂な病院の空気にこれ以上ないほど溶け込む、鈴の音のように凛とした、けれどひどく柔らかな声だった。
焦凍が僅かに目を丸くして扉を細く開けると、そこには、黒い修道服をまとった祈の姿があった。
顔を覆う白いレースのヴェールの向こう側。祈は、冷がベッドの上で大切そうに抱えていたスケッチブックの、リンドウの花の絵を覗き込み、優しさをその視線に滲ませて、ふんわりと微笑んでいた。
定期的な医療ボランティア、あるいは公安のデータ収集の実務命令。その理由はともかくとして、祈は今、ただ一人の傷ついた冷に、どこまでも真っ直ぐに向き合っていた。
「神代……先生? なんで、ここに」
「あら、焦凍くん。お母様のお見舞いですか」
「…はい」
「私はボランティアです。時間があるときに、教会や病院で皆様とお話するようにしております」
焦凍の気配に気づいた祈は、綺麗な所作で振り返ると、教え子の来訪を歓迎するようににっこりと柔らかな微笑みを向けた。
病室の窓から差し込む午後の光が、彼女の姿をまばゆく透かし、その場にふわりと、あの保健室や体育祭のテントでも嗅いだことのある、不思議な温かい匂いが充満していく。
「焦凍、祈さんはね、とっても温かくて綺麗な、天使様のような方なのよ」
ベッドの上の冷が、かつてないほど穏やかで、少女のように目元を緩めて焦凍に語りかけた。
祈は何も特別なことをしていない。いや、手を握り、話を聞くことはしたが―――それだけだ。
個性の制限が解かれた『ジキル』の光は、エンデヴァーの炎によるトラウマや長年の不眠で擦り切れていた冷の脳の神経を容易く完治させることができる。しかし、祈は決してそんなことはしなかった。
「いいえ、冷様。私はあなたのお話を聞いただけですよ」
話を聞くだけ。
祈は、自分が心操にそうしてもらったように同じことをしただけだ。個性は使っていない。飯田天晴にしたように、個性を流し込むこともしていない。冷のように心の傷が深い場合、体の表面に出た不調を癒すことはできても、心まではどうにもできない。時間をかけてゆっくり癒すしかないのだ。
「……焦凍くんも、とてもお優しい、お母様想いの良い子ですね」
祈は冷の手を白く細い両手でそっと包み込み、それから焦凍を見つめて、母親を慈しむような濁りのない慈愛の微笑みを浮かべた。
その至近距離での、圧倒的な天然の聖女の包容力。
父親からただの道具としてしか見られず、誰の力も借りずに独りで強くなければならないと自分を縛り付けてきた焦凍にとって、自らを道具と自虐しながらも、こうして自分の大切な母親の心にそっと寄り添い、自分のことまで「良い子」と肯定してくれる祈の存在は、あまりにも眩しかった。
(……ああ。強い大人だな。本当に……頼れる、いい人だ)
エンデヴァーへの忖度だとか、他者への点数稼ぎだとか、まったく気に求めていない祈の様子に、肩の力を抜いた。子供を守る大人としてのの理想像―――いつもは冷徹に周囲を寄せ付けない轟家の少年が、その瞬間、胸の奥の頑なな氷が優しく融解していくかのような、言葉にできない心地よい温かさに包まれていた。
独占したいだとか、強奪したいだとか、そんな黒いエゴはまだない。ただ、彼女の放つ神聖な光と圧倒的な優しさに、焦凍の思春期の純粋な心臓は静かに、けれど確かに救われ、その瞳の奥を、なんとも言えない憧れでいっぱいに満たしていくのだった。
「焦凍?どうしたの?」
「いや……なんでもねえ」
自分が顔を僅かに赤くしてほわほわと見惚れている理由が、祈にはミリ単位も伝わっていない。自分のことになると決定的に鈍いと言っていたクラスメイトの、呆れていた様子を思い出した。
「焦凍くん、仮免試験前ですし、お体は大事にしてください」
その少しズレた心配に、焦凍は慌ててフイと視線を斜め下へと逸らした。
「大丈夫です」
「何かあったらすぐに仰ってくださいね」
そう言って微笑む祈。
冷は、焦凍と祈のやりとりを優しい目で見守っていた。
「祈さん」
「はい、なんでしょう?」
「これからも焦凍のことをよろしくお願いします」
「もちろんです。焦凍くんは頑張り屋さんなので、冷様もたくさん褒めてあげてくださいね」
そんな会話に静かに胸を弾ませながら、焦凍はプロヒーロー仮免試験前のひとときの穏やかな安息を、その胸に深く刻み込んでいくのだった。