プロヒーロー仮免許試験の当日、試験会場は、全国から集結した数多のヒーロー候補生たちの熱気と、割れんばかりの緊張感に包まれていた。
その巨大なスタジアムの一角、特設救護テントのなかに、神代祈の姿はあった。
心操との深夜の対話を経て、自らの過去を内側へ落とし込んだ祈の精神は、これまでにないほど深く、健やかに前を向いている。かつての公安に縛られたような硬さは一切消え失せ、今日も微笑みを浮かべ、その存在そのものが周囲を照らすかのようにまばゆい光を放っていた。
「(雄英の聖女ってあの人?)」
「(美しい…)」
「(怪我したら治してもらえるのかなぁ…)」
「(雄英生、いいなぁ)」
と他校のヒーロー候補生から思われているとも知らず、試験開始と同時に運ばれてくるであろう負傷者のために、祈は備品を念入りにチェックしていた。
退院して完全な安定を取り戻した『ジキルとハイド』の駆動は極めて滑らかで、今回は金属製の杖が新調されて手元にある状態ということもあり、非常にリラックスした状態。しかし、候補生が1540名という人数のため、極力個性による治療は控えるようにと通達があったのだ。
「――あー、うん。どうも、皆さんお集まりで。公安の目良です……」
会場のメイン実況ブースのマイクの前に、目の下に酷いクマをこしらえた目良善見が、死にそうな足取りで現れたのはその時だった。
全国から集まった受験者たちを前に、彼はいつも通り「私にまとまった休みをください……」と過労死ラインの愚痴を零しそうになり――けれど、ふと、救護テントの方へと視線を向けた。ヴェールの向こう側から、自分を見つけてにこにこと輝く笑顔を向けている白衣のシスターの姿。
先日、病院の病室で彼女に脳と神経の徹夜の疲労だけを完治してもらった、あの信じられないほどの快適さ。目良は自身の驚くほどクリアな脳みそを片手で押さえながら、どこか他人事のように、淡々と実況マイクを口元へと寄せた。
「あー、うん……美人の白衣の天使のおかげでね、今日の私は残業ラインを超えてもまだ、脳みそがバグらずに生きてますよ……。というわけで、仮免許試験、一斉に開始です」
目良の気怠げな号令と共に、爆音のホーンが鳴り響き、第一次選考である「展開・開戦」の火蓋が切って落とされた。
◇
試験開始からしばらく、広大な模擬戦場では至る所で激しい個性の応酬が繰り広げられていた。そんな激闘の合間、他校の生徒たちに混ざって、特設救護テントの前に、凄まじい風圧を伴って一人の巨躯が降り立った。
士傑高校1年、夜嵐イナサ。
風を操るための巨大なギアを背負い、士傑の厳格な制帽を被った彼は、競技中に味方の巻き込みで負ってしまった手のひらの派手な擦り傷を治療するため、この救護テントへとやってきたのだ。
「すんまっせんでしたァアアアアッッ!!!!!」
スタジアムの地面に、頭がめり込むほどの勢いで直角の土下座をぶちかます。いつもの、彼のトレードマークである大声量での平伏。
――だが、その平伏の姿勢のまま、土下座の隙間から上目遣いに祈を見上げる夜嵐の瞳の奥には、世間が知る熱血漢のそれとは全く異なる、猛禽類のような鋭い「警戒心」と「品定め」の光がぎらついた。
夜嵐にとって、ヒーローの「熱さ」を見極めるための観察眼は、誰よりも冷徹だ。外面だけが神聖で、中身は周囲の善意をすり潰して平然としているエンデヴァーのような『偽物』を、彼は何よりも嫌悪している。
目の前に佇む、汚れ一つない純白の修道服を纏い、顔をレースのヴェールで隠した謎の美女シスター。その全身から放たれているまばゆい光の眩しさに、夜嵐は最初、強烈な不快感と不信の念を抱いていた。
(……綺麗すぎる。眩しすぎる。あのエンデヴァーと同じだ。外面だけを聖女のように飾り立てて、その内側は、他人の熱を貪り尽くすだけの冷酷な偽物じゃないのか――?)
土下座をしながらも、祈という存在の本質を暴こうと、その一挙手一投足を獣のような警戒心で監視する夜嵐。
けれど、祈はその夜嵐の放つ鋭い値踏みの視線に対しても、全く気にする風でもなく、柔らかににっこりと微笑んだ。
「まぁ、夜嵐くんですね。元気がよくて何よりです、お怪我を見せてください」
「……ッス」
「これはまた、随分と…」
祈は夜嵐をパイプ椅子に座らせると、その前に膝を突き、泥と血に塗れた大きな手を、白く細い両手でそっと包み込んだ。
「痛かったら言ってくださいね」
その瞬間、ふわりと漂う、この世界のどんなものとも違う不思議な温かい匂い。そして彼女の手のひらから溢れ出た『ジキル』の透き通るような白光が、夜嵐の手のひらの深い擦り傷を、全くの無痛のまま、瞬く間に元通りの肌へと完治させていった。
「……ッ!?」
夜嵐の身体が、明確に強張った。
痛みが消えたからではない。彼女の手の手のひらから伝わってきたその感覚は、他人の熱を搾取する偽物のそれとは根本的に異なる――自らをただの道具と定義しながらも、他者の痛みをすべて代わりに引き受けようとする、歪なまでに純粋で、圧倒的な「本物の熱量」だったからだ。
驚愕に息を詰め、硬直したままじっと祈の顔を見据える夜嵐。祈はそんな彼のうろたえに対して、静かに語りかけた。
「夜嵐くん、あなたのその素晴らしい風は、きっと誰かを無理に跪かせるためのものではありませんよ」
「……え?」
「他人の熱に焼き尽くされる必要も、誰かの傲慢な理想を代わりに背負って、心や身をすり潰す必要もないのですよ。ヒーローを目指す子供たちが、夢に向かって努力できるように……どうかその美しい力を、ご自身が本当に『優しくありたい』と願うもののために、頑張ってくださいね」
他人の熱に……すり潰される、必要はない。
夜嵐の脳裏に分かりやすく電光が走った。彼がこれまで一人で燻らせてきた、エンデヴァーへの強烈な嫌悪。強者のために熱を差し出すことを強要する、あの歪んだヒーロー社会の欺瞞。目の前のシスターは、その最も触れられたくなかった「熱の搾取」の構造を完璧に肯定し、エンデヴァーの対極にある、自らを磨り潰してでも子供たちの人間性を守ろうとする本物の『聖女』としての姿を、静かに提示してみせたのだ。
外面を飾る偽物だなんだと警戒していた己の 矮小さの、なんと愚かだったことか。
「……マジ、その思想、超絶に熱いっス……っ!!」
強固だった夜嵐の警戒心は、その一瞬にして、狂信的なまでのリスペクトと強烈な所有欲へと反転し、その顔面を一気にとんでもない熱量で沸騰させた。
「ちょっと、あんまりシスターを困らせちゃ、ぶっちゃけダサくない?」
救護テントの幕を翻して現れたのは、同じく士傑高校の現見ケミィだった。現見は帽子を指先で弄びながら、ベッドの横に佇む祈の圧倒的な美貌と、その首元に覗く公安の冷たい電子首輪を、どこか値踏みするような鋭い瞳で見つめた。
「へぇ……マジで超ウケる。雄英の救護補佐って聞いてたけど、シスターの格好とか、ぶっちゃけ清楚の極みでマジ卍って感じ? でも、その首の黒い奴、ちょっと物騒でエロいかもー」
「ケミィ! 貴様、救護班の先生に対して、何という不敬な物言いを!」
現見の背後から、自らの『精肉』の個性で周囲を肉塊に変えてきた1年B組の肉倉精児が、クソ真面目な顔で怒鳴り込んできた。肉倉は祈の前に立つと、その汚れ一つない修道服の佇まいと、あまりの聖性のプレッシャーに、本能的な畏怖を覚えて居住まいを正した。
「神代先生、とお呼びすればよろしいでしょうか。我が校の者が失礼をいたしました。……しかし、先生のその立ち振る舞い、そして個性に頼り切らない確固たる精神の規約……名門・士傑の生徒としても、深く感じ入るものがあります。プロを目指す者として、してはいけないことを知るという在り方を、先生の後ろ姿から学ばせていただきました」
肉倉が真面目に一礼する横で、祈はそんな士傑の生徒たちの様々な反応に対しても、ただ微笑みを彼ら全員へと向けた。
「ふふ、士傑高校の皆様も、本当に元気で素晴らしいですね。皆様のこれからの競技でのご活躍を、私は裏方として心より応援しておりますよ」
子供大好きな彼女の、どこまでも曇りのない慈愛の微笑み。
先ほどまで誰よりも牙を剥いていた夜嵐は、顔を真っ赤にさせながら「自分、先生のためにこの試験、絶対に1位で突破してみせます!!」と絶叫し、肉倉も「先生にこれ以上の不徳を見せぬよう、完全勝利してまいります」と瞳を鋭く据え、現見も「あはは、神代先生マジお気に入り。今度ウチの学校にも遊びに来てよー」と、それぞれの形で、その純白の「白」の残像に心を完全に奪われていた。
◇
――そして、プロヒーロー仮免許試験、第1次選考「展開・開戦」の終了を告げる無慈悲なホーンが、スタジアムに鳴り響いた瞬間。
会場の各所で、明暗を分けた少年たちのどよめきが沸き起こった。
特設救護テントの前に佇む祈は、新調された白い戦闘服の裾を小さく揺らし、相変わらず上機嫌な祈が、せわしなく負傷者の治療に追われていた。
そんな彼女を、少し離れた場所からじっと見つめている3つの視線。士傑高校の、夜嵐イナサ、肉倉精児、現見ケミィである。
彼らは、裏社会に回ったステインの思想動画のなかにあった、あの純白のシスターの姿を、直前に語られた『ヒーローは善意を搾取されるべきではない』というあまりにも冷徹で気高いその思想を、既に知っていた。だからこそ、目の前に実在する彼女に向ける感情は、雄英の生徒たちとはまた違うベクトルにあった。
(……間違いない。あの人は、偽物を根底から否定する、俺の魂の救済者……本物の『聖女様』だ……!)
夜嵐の瞳に宿るのは、狂信的なまでの「崇拝」。
(個性に頼り切らず、他者のために自らを律するあの高潔さ……士傑の模範とすべき至高の在り方だ)
肉倉の胸に刻まれたのは、彼女の圧倒的な信念への、頑なまでの「尊敬」。
(うわー、マジで清楚卍。あの純白の修道服もウケるけどさー、ぶっちゃけ色んな可愛いお洋服に着替えさせて、私の『着せ替え人形』にしたくなーい? マジ映えそうだしー)
現見だけは、その圧倒的な聖性を前にしてもなお、彼女を自分だけの愛玩物として飾り立てたいという、あざとい「所有欲」を視線に混ぜていた。
がしゃぁぁぁぁあん
三者三様の熱い情念が彼女へと注がれていた、その時だった。
1次試験で脱落し、そのショックと理不尽な現実を受け入れられずに逆上した他校の受験生たちが、数人がかりで「納得いかねえよ!」と救護エリアの資材を蹴り飛ばし、暴動を起こし始めたのだ。
「あー、うん……落ちた腹いせに暴れるのはね、私の残業時間を増やすだけの無駄な抵抗ですから、大人しくしてほしいんですけどねぇ……」
実況ブースの目良が死にそうな声で呟くなか、暴徒化した生徒の一人が、あろうことか祈の目の前にある医療カートへ向かって、個性を宿した拳を振り下ろそうとした。
危ない、と誰もが息を詰めた、その刹那、カツンと硬質な音が響いた。
祈が金属製の杖を静かに一閃させ、常人離れした速度で、襲いかかった受験生の顎の側面へと「ちょん」と接触させたのだ。
接触時間はわずか一瞬。だが、
「ガ、あ……っ!? いってぇええええええ!!???」
次の瞬間、外傷は一切ない、血の一滴すら流れていないその受験生が、まるで雷に打たれたかのように白目を剥き、口から泡を吹いてその場に崩れ落ちた。びくん、びくん、と痙攣している。
「試験の進行に障りますので、どうかお静かに」
それを見た他の暴徒たちが、勢いよく後ずさった。
その光景を間近で目撃していた夜嵐、肉倉、現見の三人もまた、その神々しくもあまりにも容赦のない武力行使の生々しさに、顔から血の気を引かせて冷や汗を流していた。ステインの動画で見たあの気高いシスターは、中身はとんでもない強者だったのだ。
けれど、祈は気絶して転がる受験生の前で、自分が何をしたかも全く気にしていない様子で、にこ!と笑顔を浮かべ、静かに杖を構え直した。
「この方はどうやら酷い虫歯だったみたいですね」
そして、ヴェールの向こう側から、怯える他の受験生たちを母親のような優しい目で見つめて言い放った。
「「「……は?」」」
「彼の最近の『痛み』を再現しましたところ、痛がっているのはどうやら口内でしたので…最近虫歯の治療をしたのかもしれませんね」
肉倉の思考が完全に停止した。
つまり、彼女は個性を使って、向かってきた受験生の隙を突いて、虫歯治療の痛みを再現したのだと…外傷ゼロのまま神経を直接焼き、のたうち回らせて気絶させたあの必殺技を、あまりにも常軌を逸した天然のロジックで片付けたのだ。
「ふふ、皆様もどうか気をつけてくださいね。他の受験者の方の邪魔をする悪い子には、私が直接お仕置きをして差し上げますから」
まばゆい博愛の笑みを浮かべながら、笑顔で暴力をチラつかせる白の聖女。
その、シリアスな強者感と、会話の論点がシュールすぎるギャップの恐怖に、士傑の三人は冷や汗を拭いながらも、その目を釘付けにされていた。特に、規律と秩序を何よりも重んじる肉倉の瞳には、暴徒を一瞬で無力化した彼女の機能美が、強烈なまでの理想像として焼き付いて離れなくなっていた。
「……雄英から、士傑に来てくれないかな」
肉倉の口から、ぼそっと、そんな本音の呟きが漏れ出た。
こんなにも美しく、完璧に自分を律し、悪を即座に躾けることのできる本物の聖女が、何故、あの問題児ばかりの東の雄英などにいるのか。士傑にこそ、彼女のような至高の存在が相応しい。
その肉倉のスカウトの言葉に、隣にいた夜嵐が「自分もそれ、超絶に大賛成っす!!」と顔を熱くさせながら深く頷き、現見も「それマジ卍。ウチの制服に着替えさせたら絶対可愛いしー」と目を輝かせる。
剥き出しの暴力による平穏の裏で、西の新星たちの胸の奥には、彼女を自らの陣営へと誘い、独占したいという歪な執着の火種が、静かに、けれど苛烈に燃え上がり始めていた。
なんで士傑に行かなかったんだろうか…
制服格好いいよね。