長い一日の終わりに、お風呂を済ませた祈は、ゆったりとした薄手の寝間着に身を包み、まだ微かに湿り気を帯びた純白の髪に手を当てながら、静まり返ったベランダへとゆっくりと足を運んでいた。
顔を覆う白いレースのヴェールは外され、月明かりの下に晒されたその容姿は、神様すら嫉妬するのではないかと思えるほどに人間離れした、圧倒的な美貌を無防備に夜の闇へと晒している。
公安が彼女の監視保護のために手配した、生活感のまったくない無機質な一軒家。
ベランダの手すりに白く細い両手を預け、祈はただ静かに、夜空の端に浮かぶ冷徹な月を見上げていた。遮るもののない夜風が寝間着の薄い生地を揺らし、その滑らかな肌をかすめていく。彼女の纏う空気は、どこまでも白く、静謐だった。
そっと目を閉じ、夜の静寂に身を委ねようとした、その瞬間だった。
「――そんな薄着で外でたら、風邪引きますよ」
サァ、と。夜の静寂を唐突に切り裂く、衣服の擦れる微かな風圧。
上空の暗闇から舞い降りた影が、ベランダの細い手すりの上へと、重力を感じさせない音もなさでとん、と降り立った。
月明かりを背に受けた暗闇の中、まるで夕日を吸い上げたかのような赤、そして、大きく鮮烈な一対の翼を持つ男。
「お久しぶりです、おねえさん」
トレードマークのゴーグルを外し、いつもの世間がよく知る飄々とした、チャラチャラとした大人の「最速のヒーロー・ホークス」の面影を完全に消し去った、鷹見啓悟がそこに立っていた。
月光に照らされたその瞳は、いつもテレビの向こう側で見せる気さくな笑みなど微塵もなく、ただただ、飢えた猛禽類のような狂気的な渇望と、愛おしさが入り混じった深い情念に濁っている。
「…啓悟くん、ですか? どうして……」
「おねえさん、まったく変わってないんですね」
手すりから静かにベランダの床へと降り立った啓悟は、いつの瞬間も、世界の誰よりも美しく清らかなまま、一秒も老いずに佇む祈の顔を、ただ一点に見据えていた。
自分の周囲の秒針だけが歪に大人へと進んでいくこの残酷な世界のなかで、彼女だけが、「おねえちゃん」の姿のまま、そこに静止している。
「啓悟くんは……大きくなりましたね」
祈の澄んだ瞳が、僅かに大きく見開かれる。
彼女の記憶のなかに微かに残る啓悟は、いつも自分の黒い修道服の裾を小さな手でぎゅっと握りしめていた、自分よりも遥かに身長の小さな、今にも壊れてしまいそうな男の子の姿だった。
けれど、いま目の前に立つ彼は、祈の身長を容易に越して、その広い肩幅と大きな体躯だけで、祈の細い身体のすべてを優しく包み込んでしまえるほど、一人の大人へと成長していた。その胸元の厚み、手袋に包まれた大きな手のひら。流れた歳月の残酷な一方通行の重さが、祈の胸に生々しく突きつけられる。
「お元気でしたか? あれから……」
祈の言葉が、ふと、途切れる。
自分の失われた記憶の、真っ暗な空白の向こう側にある教会での生活。オールマイトとは違い、啓悟との記憶は失われていないものの、六年という時の流れはあまりにも大きかった。
けれど、いま目の前に立つ、見上げるほど大きく育った彼の、そのどこか寂しげで、自分を飢えたように見つめる瞳の奥の「色」に触れた瞬間――祈の胸の奥が、理由も分からず、引き裂かれるように激しく痛んだ。
あの子を、公安の暗闇のなかに一人、置き去りにしてしまった。自分のせいで、この子の人生を狂わせてしまったのではないかという、どうしようもない不甲斐なさと罪悪感が、彼女の無意識の底からせり上がってくる。
「ごめんなさい」
「あなたが謝ることじゃないですよ、あれは。誰も悪くない」
祈がそっと胸元を押さえ、理由の分からない悲痛に声を震わせて頭を下げると、啓悟は小さく首を横に振った。彼の声音には、祈への恨みなどミリ単位も存在しない。
何も知らないのだ。自分がどんな気持ちで、あの廊下に取り残されてから、彼女を守れるくらい強くなるために、公安の過酷な訓練に耐えて泥水すすってきたか。汚れ仕事もやった。彼女を縛る権限をこの手に毟り取るために、己のすべてを公安の犬として売り払ったのかを。そのすべての原動力。それがどれほど残酷で、どれほど愛おしいことか、目の前の祈は知りもしない。
「……それでも、私はあなたを一人にしてしまいました」
「…おねえさん」
ふわり、と。
背後の大きな赤い剛翼が夜風を孕んで美しく広がり、啓悟は祈の目の前へと、一歩、歩みを進めた。
あまりにも、距離が近い。お風呂上がりの祈の、肌の奥から立ち上るあの不思議な甘い匂いが、啓悟の手袋を外した素肌の熱と、吐息が触れ合うほどの至近距離で交錯する。その圧倒的な天然の聖性と無防備さが、啓悟の理性を激しく揺さぶる。
「…身体はもうよかとですか?」
わざとらしく話を逸らされた、そう感じながらも、祈はいつもの丁寧な仕草で、取り乱すことなく静かに声を返した。
「身体の方は問題ありません。以前と変わりないですよ、啓悟くん」
変わりない。ええ、そうだろう。傷口に塩を塗り込むように荼毘に焼かれ続け、リソースを飽和させられて、あれほど痛々しく壊れかけていたというのに。退院すればすぐに、何事もなかったかのように微笑んでみせる。
その歪な純白を前にして、啓悟の胸の奥にある、狂気的なまでの愛情は、どろどろとした嫉妬と渇望の濁流となって限界まで膨れ上がっていた。
彼の祈への愛情は、世界を救う平和の象徴への崇拝とも、ただの美しい女性へのウブな恋煩いとも、決定的に異なっていた。それは、人生の最初期に彼女という唯一の光に救われ、そして置き去りにされた孤独の闇のなかで、二十二歳になる今日まで一秒も絶やさずに培養し続けてきた、どす黒い「支配欲」と「独占欲」だ。
自分の知らないところで、彼女が雄英の男たちに無自覚に触れ、その心を救い、包囲網が音を立てて増えていく現実に、胸の奥が焼け付くように熱くて、同時にひどく冷たかった。
緑谷出久の因子を震わせ、爆豪勝己のプライドを内側から引き裂いて号泣させ、轟焦凍の凍りついた氷をほわほわと融解させていく、無自覚な博愛。
あいつらは何も分かっていない。その優しさの裏にある、公安という檻の底深さも、彼女自身の心が空っぽであるという歪さも。
(あんたがどれだけ自分のなかが空っぽやけんって、自分を道具だなんだって言い聞かせとるって、そんなの関係なか。あいつらにおねえさんを触らせたくない。その綺麗な力を、俺以外の誰のためにも使ってほしくなか)
最速の男が、ヒーローが、ただ一人の少女の前で、今にも子供のように声をあげて泣き出してしまいそうなほどの、果てしない孤独と狂おしいほどの愛おしさに引き裂かれている。その中がどれだけ空っぽでも、その存在のすべてを丸ごと愛し、いつか他の誰の目にも触れない自分たちだけの静かな箱庭へ連れて帰る。その執念だけが、彼の背中にある無数の羽の、一枚一枚にまで呪いのように染み付いていた。
「……もう、どこにも行かんでよ」
耳元にそっと顔を寄せ、静かな夜の闇にぽつりと零れ落ちた、啓悟本来のひどく掠れて切ない博多弁の囁き。
彼は手袋の外れた白い指先で、祈の細い手首を、拒絶を許さないほどの力強さで、けれど壊れ物を愛でるようにそっと包み込んだ。骨の細い、あまりにも華奢な手首。自分が本気で力を込めれば、一瞬で砕けてしまいそうなほどに脆い、けれど決して滅びることのない不老の肉体。
(おねえさんを本当に愛しとるのも、その首の鎖ば握っとるのも、俺だけに決まっとろうが……他の誰にも、絶対に渡さんけん)
手首を通じて伝わってくる、祈の微かな、けれど確かな脈動。その命の温もりを確かめるように、啓悟は昏い独占欲の宿った瞳で、ただじっと、愛おしそうに彼女を見つめ直していた。夜風が二人の髪を優しく揺らし、月明かりのベランダには、ただ彼らの静かな吐息の音だけが、世界の秒針を置き去りにするようにして溶けていった。
月明かりが冷たく差し込むベランダのなか。
啓悟の手袋の外れた指先が、祈の細い手首を包み込んだまま、夜の静寂はさらに深く、濃く沈み込んでいく。
変わりない、と淡々と微笑むお姉ちゃんのその肌の奥から立ち上る、お風呂上がりの不思議な温かい匂い。それは、公安の無機質な地下室の消毒液の臭いとも、あの凄惨な戦場の硝煙とも違う、啓悟がこの歳の今日まで片時も忘れることのなかった、至高の聖女の温もりだった。
手首を通じて伝わってくる、ドク、ドク、という微かな、けれど確かな脈動。その命の弾力に触れた瞬間、啓悟の胸の奥で、張り裂けんばかりに膨れ上がっていた独占欲の歯車が、カチリと音を立てて噛み合ってしまった。
「――っ、」
これ以上、我慢できるはずがなかった。
啓悟は手首を掴んでいた手を滑らせると、そのまま祈の華奢な肩を引き寄せ、大きな、一対の赤い翼で世界を完全に覆い隠すようにして、彼女の身体を自らの腕の中へと強引に閉じ込めた。
手袋を外した両手が、寝間着の薄い生地越しに、祈の背中に、腰の曲線へと回る。抱き締めた瞬間に腕の中に伝わってきたのは、背骨の感触が容易に分かるほどに細く、現世の理から外れてどれだけ頑強だろうとも、驚くほどに儚くて、脆い、一人の女としての圧倒的な柔らかさだった。
(柔らかい……。温かくて、こんなに、小さかったっけ……)
腕の中にすっぽりと収まってしまう純白の身体。その吸い付くような柔らかさを、胸元に押し付けられる微かな熱を、啓悟は全身の皮膚のすべてを動員して貪るように堪能していた。
彼の脳裏には、今すぐにでもこの細い身体を力ずくで抱き上げ、夜空へと飛び立ち、公安の手配したこんな冷たい一軒家からも、雄英の男たちからも引き離して、自分しか知らない静かな檻の奥へと閉じ込めてしまいたいという、狂気的なまでの衝動が渦巻いている。
けれど、それを実行すれば、公安の鎖は完全に壊れ、何よりようやく安定した現状を内側から崩壊させてしまう。祈から自由を奪いたいわけではないのだ。
自分だけのものになってくれと乞いたい喉を、啓悟は必死に圧殺した。
赤い剛翼が激しく、ギリギリと悲鳴を上げるほどに波打ち、彼の全身の筋肉が強張る。それは、これ以上踏み込んではいけないという大人の男としての冷徹な理性と、子供のように甘え縋りたい本能が、肉体の内側で血を流し合いながらせめぎ合った、限界寸前の、精一杯の抱擁だった。
これほどまでに昏く、重苦しい情愛の質量を向けられているというのに。
啓悟の胸元に顔を埋められる形になった祈は、心臓の音すら響かない彼の限界の戦いにまったく気づいていない様子で、レースのヴェールのない素顔のまま、可憐に笑った。
「ふふ、昔と逆になってしまいましたね」
――静寂。
月明かりのベランダを支配していた、息の詰まるような濃密だった空気が、その一言によってピキリと音を立てて粉砕された。
「……え?」
祈の胸元から漏れ出たその声は、どこまでも朗らかで、そして決定的にムードという概念を置き去りにしていた。
「あんなに小さかった啓悟くんを、私がこうして、よく抱きしめてあげていましたもの。……今はこんなに大きくなって、私を抱きしめてくれるなんて。本当に、立派に成長されたのですね」
祈は啓悟の胸に両手を添えたまま、濁りのない「子供好き」の柔らかい笑顔を浮かべて、ついにっこりと微笑みかけてみせた。
抱きしめる側の男としての狂気、支配欲、独占欲、限界の理性。そのすべてを、お姉ちゃん特有の圧倒的な天然と、強烈なまでの「子供扱い」によって、完膚なきまでに無力化された瞬間だった。
「…………」
あまりの温度差に、啓悟は祈を抱きしめていた両手の力をじわりと緩め、呆然としたまま、その場に固まるしかなかった。
これだけの至近距離で、手袋を外した素肌で触れ合い、男としての執着のすべてを乗せて抱きしめたというのに。この人は、どこまでも自分のことを「子供の頃の可愛い男の子」としてしか認識していない。恋愛感情や特別な好意をハイドによって抑圧されている彼女は、大人の男としての自分の熱を、ただの「親切」と「懐かしい思い出」として完璧に受け流してしまう。
「あはは……。本当、何なんですかね、それ」
啓悟はゆっくりと祈の身体から両手を離すと、一歩後退り、ハァ……と深い脱力混じりのため息を吐き出した。自分の胸の内で燃え盛っていた黒い独占欲が、急速に、何とも言えない諦めと愛おしさへと反転していく。
――ああ。こういう人だったなぁ。
どれだけ周囲の男たちが狂い、執着を募らせて脳のネジを吹き飛ばしていても、当の本人はいつだって、こうして完璧にズレた場所で、空っぽな善人のまま綺麗に佇んでいる。
啓悟はゴーグルを外した瞳のまま、月明かりの向こうの夜空を眺めるようにして、懐かしく、そして遠い目をするのだった。
「……本当に、おねえさんは調子が狂いますよ」
「?」
「いえ、なんでもないです…はぁ、とりあえず今日は帰ります」
「また顔を見せに来てくださいね、今度は時間のあるときにでも」
「プロヒーローにそれ言っちゃう?」
「では、羽を休めたいときに」
「はぁい」
ぽつりと零れ落ちた、彼本来のひどく掠れた聲音。
最速の翼は、手すりの上へと再び音もなく飛び乗ると、今度はいつもの飄々とした笑みを僅かにその顔に取り戻し、パサリと赤い剛翼を夜風に躍らせて、今度こそ深い夜の闇の中へと、その姿を掻き消していくのだった。
ホークスはヒロインと心操くんの出来事は知りません。
知ったら発狂しそう。