プロヒーロー仮免許試験の喧騒がスタジアムの熱気と共に幕を閉じ、雄英高校の敷地内に、次なる試練である『プロヒーローインターン』の足音が近づき始めていた頃。
通形ミリオをはじめとする雄英ビッグ3の面々が1年A組の教室を訪れ、その圧倒的な実力差と経験値の差を生徒たちに指し示す一連の接触は、概ね現世の予定通りに推移していた。
救護補佐としてその様子を記録用タブレット片手に見守っていた祈の元へ、雄英の上層部――根津校長を介して、一つの奇妙な、けれど極めて重々しい「要請」が届けられたのは、その翌日のことだった。
「――サー・ナイトアイが、お前に会いたい、だと?」
「はい、どうやら根津校長を通して、あちらの事務所からお手紙が届いたみたいです」
「なんで…いや、まぁ分からんでもないが」
相澤の口から告げられたその名に、祈の薄いレースのヴェールの向こう側の瞳は、不思議そうに小さく小首を傾げるだけだった。
かつてオールマイトの相棒を務め、現在は独立して独自の事務所を構える予知のヒーロー。公安の最高機密である自分に対し、何故そんな大物のプロヒーローが直々に面会を求めてくるのか、彼女の事務的な思考では、その理由を迅速に導き出すことはできなかった。
けれど、現在の祈の心境は、以前の閉ざされた昏いものとは決定的に異なっていた。
神野の件で入院し、一時は精神的に酷く追い詰められていたものの、心操人使の個性を介したあの夜の対話を経て、彼女は不安定な状態から完全に脱却していた。自分の失われた過去をまるで他人事のように客観的に聞いてはいたものの、忘いていた部分の記憶を他者の視点からなぞることができたことで、混濁していた感情の整理は綺麗についている。直接的な悩みがすべて解決したわけではなかったが、今の彼女からはかつての歪な重みや憑き物が綺麗に落ちて、すっきり爽快な、柔らかな笑顔が自然にその顔に咲いていた。
「私も行く。神代先生、君の護衛は、一人の男としての私の責任だ。何があろうと、君を独りで歩かせるわけにはいかない」
その面会の要請を知った瞬間、誰よりも早く動き出したのはオールマイト――八木俊典だった。
平和の象徴としての炎をその身に宿したままヒーローを引退し、これからは一人の男として、彼女を傷つけるすべての理不尽から守り抜くと誓い、退院の日から送り迎えを公認されている男。
――しかし、そう言って祈の傍らにぴったりとくっついてきたものの、目的地が近づくにつれて、世界最強の男の背中は目に見えて小さく強張っていった。
てくてくと、サー・ナイトアイの事務所まで歩く二人。
(あ、ああ……よりによってナイトアイか……! 六年前、彼の『死の予言』を拒絶して決裂して以来、私は彼と一度もまともな会話をしていない。しかも、彼が今回彼女を呼び出した理由は、間違いなくあの悪夢の夜のことだ。私のこの命を繋ぎ止めるために、彼女が全ての記憶を失うほどの禁忌を冒し、公安の檻に入る原因を作ってしまったというのに、私は一体、どんな顔をして彼の前に立てばいいのだ……)
全盛期の圧倒的な巨躯を保ったまま、冷や汗をだくだくと流して、内心ひどく気まずそうにびくびくと狼狽している八木。二本の触覚は垂れ下がっていた。かつての相棒に対するあまりのプロとしてのバツの悪さと自責の念に、歩幅さえ不自然に狭くなっている。
「八木先生。…具合が悪いなら、喫茶店かどこかでお休みになられた方がよいのでは」
「いやいやいや、大丈夫、心配ないさ!!」
そんな彼のびくびくとした様子に、祈は隣を歩く八木を見上げる。その純粋に心配をする眼差しと「八木先生」という響きに救われつつも、ますます胃の辺りを痛めながら、全盛期スペックの巨躯を縮こまらせて彼女の後に続くのだった。
◇
都内にある、サー・ナイトアイのヒーロー事務所。
洗練された無機質なオフィスの一室で、デスクを挟んで祈と八木、およびナイトアイの三人は静かに対峙していた。彼のサイドキックであるセンチピーダーとバブルガールは現在席を外してもらっている。
「――よく来てくれた、神代先生。そして、オールマイト」
鋭い三白眼の奥に、いつも通りの冷徹な理性を宿したナイトアイが、静かに眼鏡のブリッジを押し上げる。
その鋭利な視線が八木を捉えた瞬間、世界最強の男はびくりと大柄な肩を震わせ、気まずそうに視線を斜め下へと逸らした。かつては背中を預け合った相棒の前にあって、今の八木は、完全に説教を待つ子供のように小さくなって、びくびくと生唾を呑み込んでいる。
続いて祈の黒い修道服の襟元で静かに黒く明滅している公安の電流抑制器を捉えた瞬間、予知のヒーローの胸裏に、言葉にできない重苦しい沈黙が走った。
ナイトアイは椅子からゆっくりと立ち上がると、デスクの横を回り込み、祈の目の前へと歩み出た。そして、並み居るプロヒーローたちが一様に気圧される彼の厳格な佇まいのまま――ナイトアイは、祈に向かって、深く、深く、その頭を下げた。
「……神代祈さん。まずは、あなたに心からの感謝を。……本当に、ありがとうございました」
「……ナイトアイ様?」
祈は不思議そうに、目の前で深々と頭を下げるトップヒーローの姿を見つめた。
「私は知っている。六年前にオールマイトがオール・フォー・ワンとの死闘により、呼吸器官と臓器を破壊されて瀕死の状態で病院へ担ぎ込まれた、あの最悪の夜のことを。
……そして、そこに居合わせたあなたが、自らの記憶と自由を代償にして、彼の命を、その肉体をその場で力ずくで繋ぎ止めてくれたことを」
ナイトアイの声が、微かに、けれど痛々しいほどの熱量を孕んで震えていた。
誰よりもオールマイトの身を案じ、その肉体の限界を危惧し、彼を神格化する世界に異を唱えてきた元相棒。彼にとって、世界最強の肉体を維持したまま、今もこうして目の前に八木俊典が生き永らえているという奇跡は、他ならぬ神代祈という存在の、命懸けの自己犠牲の結晶に他ならなかった。
横では、頭を下げられた八木が、自身のあまりの不甲斐なさと元相棒への申し訳なさ、および祈への激重な愛おしさに胸を締め付けられ、混乱のあまりおろおろと祈と元相棒を交互に見ていた。
「公安に回収され、すべての記憶を焼き切られてなお、あなたが『救護補佐』として雄英高校に入ってくれたことに、私は一人のヒーローとして、および彼の相棒だった者として、生涯消えることのない恩義を感じている。……あなたが彼を救ってくれたから、世界はまだ、これほどまでに眩しい」
真摯な、濁りのないプロとしての感謝の言葉。
けれど、その絶大な光の言葉を受け止めながらも、祈のレースのヴェールの向こう側の思考は、ただどこまでも凪いだまま、静かに自らの内側を見つめていた。
「いいえ、ナイトアイ様。お顔を上げてください。……お礼を言われるようなことなど、私は何もしておりませんよ」
祈はふわりと笑う。
「私はただ、エリアス神父様の『人に優しく、人を助けなさい』という教えに従っているだけです。ヒーローは、世界に善意を搾取されるべき存在ではない。彼らは尊く、守られるべき光。だからこそ、スペアとして、その痛みや汚れを代わりに引き受けるのは、至って当然なのですから」
自らを完璧な道具と定義し、世界に搾取されないための盾として機能することだけを己に強いる、その狂気的なまでの純粋さ。
ナイトアイはゆっくりと顔を上げ、彼女のその歪んだ博愛の在り方に、悪寒と、それ以上の痛切な哀しさを覚えて息を詰めた。
「……君のその、生と死を司る異能の本質について、私にも説明してもらえるだろうか。……相棒として、これからの君たちの動向を、私なりに精査しておきたい」
ナイトアイはそう言うと、デスクの横を通り過ぎ、祈の目の前でゆっくりと自らの手を伸ばした。
彼の個性『予知』。対象に一度触れ、その先の未来を、まるで一本のシネマフィルムのように先々まで見通す、絶対的な因果律の能力。
横では、その意図を察した八木が、ナイトアイを止めようと動く。けれど、その制止が間に合うよりも早く、ナイトアイの指先が、祈の修道服の袖に触れた。
「ええ、構いませんよ、ナイトアイ様。どうぞご覧ください」
祈は拒む風でもなく、笑顔のまま、静かにその手を差し出した。
その瞬間、ナイトアイの脳裏に、彼女の未来を見通すための『予知』のシステムが強制的に駆動した。
――だが、次の刹那。
「――が、っ、ぁ……ッ!?」
予知のヒーローの口から漏れ出たのは、これまでのプロの生涯で一度として上げたことのない、肺の空気をすべて引き剥がされたかのような、小さな悲鳴だった。
ナイトアイの顔面から一気に血の気が引き、その鋭い三白眼の瞳が、恐怖と驚愕に激しく見開かれる。カラン、と乾いた音を立てて眼鏡がコンクリートの床へと落ちる。彼は自身の頭を強引に両手で掻きむしりながら、脳を直接灼かれたような凄まじい激痛に、ガタガタと全身を震わせてその場に崩れ落ちた。
見えない。
いや、彼の脳裏に映し出されたその映像は、到底、人間が視て良い類の未来ではなかった。
本来であれば、対象の行動が先々まで整然と一コマずつ流れるはずの、美しいシネマフィルム。
それが、祈という存在に触れた瞬間、因果律そのものが超高速で書き換えられ、グチャグチャに引き裂かれて、完全なる絶望的なバグを発して発狂していたのだ。
フィルムのなかの祈は、あるコマでは荼毘の青炎に焼かれて黒焦げの死体となっており、直後のコマでは何事もなかったかのように白磁の肌で微笑んでいる。さらに、過去の真っ白な地下室で切り刻まれている幼い姿と、現在の不老の姿が、同じ時間軸のなかで幾重にも重なり合って蠕動している。真っ白なベッドの上で、全身をコードで繋がれた重症患者のような姿の祈もいた。白濁した虚ろな目で宙を見つめる痛ましい姿。しかし次のコマでは怪我等一切ない姿で微笑んでいる。生と死の境界線が、現世の時間を強引に巻き戻す超常の暴力によって滅茶苦茶に繋ぎ合わされた、因果の崩壊。
だが、その破綻し、破り捨てられかけるフィルムの向こう側で、ナイトアイは、かつて自分が視てしまった『最悪の予言』の残像を捉えていた。
かつて自分が視た、八木俊典の未来。彼がヴィランに討たれ、凄惨な死を迎えるはずだった、あの確定していたはずの死のフィルム。
その八木の死のフィルムのなかに――あろうことか、修道服を纏い、杖を持った顔面蒼白の祈の姿が、時間を捻じ曲げる白光と共に、力ずくで割り込んできたのだ。
ミシミシ、ピキピキ、びちびちと、骨と肉が蠢く悍ましい再構成の音が脳裏に響く。
祈の手のひらから溢れ出た圧倒的な白光は、八木俊典の肉体から『死』を強引に毟り取り、彼が死ぬはずだった絶望のコマを無慈悲に引き裂くと、全盛期のスペックを維持したまま彼が生き永らえするという、あり得ないはずの別の未来のフィルムへと、力ずくで、強引に繋ぎ替えてしまった。
(……書き換えた、というのか。私が、どれだけ絶望し、抗えないと諦めていたあの確定した死の運命を……。目の前の、この女性が、自らを便利な道具と自虐しながら、ただあの神父の遺言に従うためだけに……!)
ナイトアイの目から、大粒の涙がボロボロと床に零れ落ちる。
それは奇跡への感動などではない。彼が視てしまったのは、その書き換えの対償。八木俊典という一人の男の命をこの世に繋ぎ止めるたびに、彼女自身の人間性や、記憶、および肉体のすべてが、世界を救うための便利なスペアとして、公安の檻のなかで、これ以上なく汚らしく搾取され、磨り潰されていくという残酷な因果の天秤だった。
「ナイトアイ、大丈夫か……! しっかりしてくれ……!」
横から、慌てた八木がその世界最強の巨躯で、ナイトアイの肩を支えようと手を伸ばす。ナイトアイは涙の滲んだ瞳で、平然としている祈をただ呆然と見上げるしかなかった。
「……私の個性『ジキルとハイド』は、通常の治癒のように細胞の活性化を促するものではありません」
ナイトアイが床に這いつくばり、激しい目眩と悪寒に呼吸を荒らげるなか、祈は目線に合わせるようにしゃがみこむ。そして先ほど触れた方の手で、ナイトアイの手に再び触れた。柔らかな白光が繋がれた手を包み込む。そして祈は淡々と自らの内に眠る『ジキルとハイド』の機能をその口から静かに開示し始めた。
「その本質は、現世の時間を強引に繋ぎ替え、破壊された細胞を無理やり『蘇生』させて再構成する、生殺与奪の異能です。……死者をこの世に引き戻すことも可能ですが、それには死後時間が経っていない、生きた因子がこの世の理から零れ落ちる前の状態である必要があります。もし、死後時間が経ちすぎた肉体を中途半端に回復させれば、魂の定着しないゾンビを作ることもできますし、精神を定着させなければ、私の都合のいい人形のように操ることも容易です。生前使っていた個性も使えます……さらに、肉体を細胞の単位から組み替えることができる以上、対象の『個性の因子』そのものを殺すことも、一部だけを切り取ることも可能です」
個性の切り取り、あるいは操作、そして抹消。
その、裏社会の支配者をも容易に連想させる悪魔的な異能の全貌。ナイトアイは眼鏡を拾うことすら忘れ、ただただ、神代祈という存在の底知れない深淵と、自身の予知すら無力化される歩く因果律のバグに、背筋を凍らせて沈黙するしかなかった。
「……先日の仮免試験、および先のUSJでの戦闘の際、私がこの杖を使って暴徒の動きを一撃で止めていたのは、打撃による物理的な質量ではありません。この金属を触媒にして、相手の神経細胞をその場で過剰に蘇生させ、殴られた場所の痛覚を100倍、1000にして直接脳へと送り込むことで、外傷を一切与えないまま、脳へのショックだけで確実に無力化しているのです」
血の一滴すら流さない、神聖にして悍ましき暴力のシステムの開示。
肉体が破壊される端から、体内でジキルによる超高速自己回復ループを回して相殺する終わりのない不老の呪い。
「私のこの力が、八木先生や、これからインターンへ向かう子供たちのために使うことができればそれで良いのです。……私は完璧なスペアであらねばならないのですから」
「六年前に八木先生を救ったという記憶は残っていませんが…きっと、誰に止められたとしても、私は個性を使っていたと思います」
隣でその説明を静かに聞いていた八木は、自分のために記憶を失い、自らを自虐しながらも、なお自分を「八木先生」と呼んで微笑む彼女の細い肩を見つめていた。