プロヒーローインターンの本格的な始動を数日後に控えた、ある日の午後。
祈は雄英高校の許可、および公安の同行データ収集の実務命令を受け、神野区の悪夢の夜以来、都内の大病院に長期入院している一人の女性ヒーローの元へと足を運んでいた。
ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツ、ラグドールこと知床知子。
かつて林間学校の森でヴィラン連合に急襲され、裏社会の支配者であるオール・フォー・ワンの手によって、その『サーチ』の個性を強引に奪い去られた悲劇のヒロイン。
病室のベッドの上で、生気を失ったように虚ろな目で窓の外を眺めている彼女の周りには、マンダレイや虎、ピクシーボブら、仲間のヒーローたちが沈痛な面持ちで寄り添っていた。そして、彼女の身を案じて見舞いに訪れていた緑谷出久もまた、自らの無力さを噛み締めるようにして、その傍らで拳を強く握りしめていた。
「――皆様、経過はいかがでしょうか」
ガチャ、と静かにドアが開かれ、祈が静かに病室へと入ってきた。
感情の整理がついて憑き物が落ちた彼女の今の佇まいは、そこにあるだけで、病室の澱んだ絶望を強引に融解させていくような圧倒的な聖性を放っている。
「神代先生……! 」
緑谷が大きな瞳に救われたような光を灯し、一歩前へと歩み出る。
その後ろからは、当然のように八木がくっついてきていた。ヒーローを引退し、後輩の育成と共に、祈の護衛を公認されている男。神野での戦いで暴れすぎたせいで体内の『ワン・フォー・オール』の残り火が確実に減り続けているという焦燥を胸に抱えながらも、八木は祈の傍らで大人の気品ある理性を保ち、その巨躯を静かに佇ませていた。
「ええ、出久くん。……ラグドール様、少しだけ、失礼いたしますね」
祈はベッドの上のラグドールの元へ歩み寄ると、杖を持たない方の手を、彼女の虚ろな額へとそっと翳した。
個性による白光が、痛みを伴わずにラグドールの脳内を優しく、ほわほわと包み込んでいく。その手のひらを通じて、あの嵐の夜、アジトのコンクリートの上で強引に引き裂いた個性因子の残滓の具合を、祈は精密にデータとして精査していった。
「神代さん……。ラグドールの個性は、あのオール・フォー・ワンに完全に奪われて…もう、ヒーローとしては……」
虎が悔しそうに顔を歪め、ピクシーボブ、マンダレイが唇を噛み締める。
個性を奪われた人間は、二度とそれを取り戻すことはできない。それがこの超常社会における絶対的な理であり、搾取された者の変えられぬ絶望のはずだった。
けれど、祈ははっきりとした声で淡々と、その絶望を根底から覆す事実を告げた。
「いいえ、皆様。ラグドール様の個性『サーチ』は、完全に根滅やしにされたわけではありません。……まだ、彼女の魂の奥底に残っています」
「「「……え?」」」
病室にいた全員の思考が、一瞬にして白く染まった。
緑谷が息を詰め、マンダレイたちが驚愕に目を丸くするなか、祈は自らが林間学校の夜に施した禁忌のトリック――個性の『花と種』のシステムを、静かに説明し始めた。
「私の個性『ジキルとハイド』は、他者の個性の因子そのものを殺すことも、一部だけを切り取ることも可能です。
……あの日、オール・フォー・ワンの手が迫る直前、私はラグドール様の個性を、精密に『花』と『種』の二つへと切り分けました。そして、強奪の手に引っかかる表層の『花』の部分だけをあえて明け渡し、核となる『種』の部分を、ハイドによって彼女の魂の最奥へと深く眠らせて隠したのです」
祈の声はどこまでも穏やかだったが、それは現世の因果律のすべてを冒涜する、神の領域の開示だった。
「個性の『花』の部分は、一度手折られ、枯れてしまえばそれでおしまいです。いつ枯れるのかは分かりませんが、今頃、奪った側の手元で使い潰されていることでしょう。……そして核である『種』の部分は、初期化された状態で凍結されているだけですので、ここからまた時間をかけて、ゆっくりと開花させれば、以前と同じように個性を発現させることに技術的な問題は一切ありません」
「じゃ、じゃあ……ラグドールは、また個性が使えるようになるの!?」
ピクシーボブが震える声で叫び、ベッドの上のラグドールの瞳に、初めて生々しい涙と希望の光がじわりと溢れ出た。
ヒーローは、世界に善意を搾取されるべき存在ではない。
ただ神父の遺言に従って、傷ついたヒーローたちを救うためのスペアとして機能した結果の、あまりにも底暗い救済の奇跡。
だが、祈はそんな彼女たちの歓喜に対しても、一歩引いたまま現実を優しく付け加えた。
「ええ、使えますよ。……ただし、一度『初期化』されてしまっている以上、今までと同じ出力をすぐに発揮できるわけではありません。産まれたばかりの赤ん坊が個性を発現させられないように、今まで当たり前に使えていた力を、また一から死に物狂いで鍛え直さなければならない状態です。……身体の感覚と因子の出力が噛み合わないため、当面の間は、非常に不便を強いることになりますが」
一から、鍛え直す―――
それは、気の遠くなるような年月と努力の再強要であり、決して手放しでは喜べない、過酷な足枷の提示でもあった。今までトップレーンで戦ってきたプロヒーローが、自らの手足の動かし方すら忘れた状態からもう一度泥水をすする不便さ。
「あ、あはは……不便、かぁ……。でもさ、でもさぁ! 完全に無くなったと思ってたし、一からでも、泥臭く泥濘を這い回ってでも、また個性を育てられるなら……そんなの、お釣りが出るくらいに有り難いよ……っ!」
ラグドールは笑い、ボロボロと大粒の涙を流しながら、祈の手をやせ細ったでぎゅっと握りしめ、声を上げて泣いた。マンダレイたちもまた、その唯一の希望にすがり付くようにして、お互いの肩を抱き合って涙を流している。
祈はラグドールの感謝の手の温もりにそっと微笑みを返し、ただ静かに、その涙を見つめていた。
◇
個性を奪われて絶望の底にいたラグドールへ、一から鍛え直す不便さと引き換えに「初期化された種子」という唯一の希望を授けたお見舞いを終え、祈は静かに病院のロビーを後にしていた。
夕闇がじわりと街並みをセピア色に染め上げていく、静かな帰路の道中。
祈のすぐ右隣には、当然のようにその歩幅を合わせて寄り添っていた。祈の傍らで、その鋭い視線で周囲の気配を警戒している。
そして祈の左隣を歩く緑谷は、先ほど病室で目撃した、オール・フォー・ワンの手からすら個性を欺いて毟り取ってみせた彼女の「神の領域の異能」に、未だに胸の奥の激しい動揺を抑えきれずにいた。
「――あの、神代先生」
並んで歩くアスファルトの道、緑谷はたまらずといった様子で祈を見上げて声をかけた。
「ラグドールさんの個性を『種』として守るあのやり方……。これから始まるインターンでも、もしも僕たちがヴィランと遭遇して、個性を奪われたり、消されたりするような最悪の事態になりそうな時……事前に先生が僕たちの個性を同じように『初期化』して保護しておいてくれれば、完全に力を失うようなことは防げるんじゃないでしょうか……っ!」
それは、ヒーロー志望の少年としての、至って真っ直ぐな、そして誰も傷つけさせたくないという純粋な提案だった。これから先の現場で、万が一にもオール・フォー・ワンのような理不尽な搾取が起きたとしても、先生の力があればみんなを救えるはずだという、濁りのない希望。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、祈の横を歩いていた八木の大きな身体が、ピクリと不自然に硬直した。かつて六年前の悪夢の夜、自身の命を繋ぎ止めるために彼女が記憶を失い、公安の檻に自ら入る道を選んだそのすべての始まりを知る男だからこそ、緑谷のその純粋な言葉が、彼女のどんな地雷を踏み抜こうとしているのかを本能的に察知したのだ。
緑谷の必死な問いかけに対し、祈は地面を静かに見つめながら、ただ、微笑みを浮かべるだけだった。
他人の個性因子を自在に弄れる彼女の目には、目の前の緑谷の体内で脈打つ異能が、かつて自分が命を繋ぎ止めた八木のそれと「完全に同じ個性」であることなど、最初からすべて見えていた。個性を守るための手段―――たしかに、合理的ではある。
しかし。
「いいえ、出久くん。それはできません。……個性の初期化は、あくまで最終手段。触媒であるこの杖があり、私の体調がどれだけ万全であったとしても、できることなら、私は他人の個性因子に直接手を出すような真似はしたくないのです」
一線を引いた声音。
「え……? でも、どうしてですか? 先生のあの操作があれば、事前に『先手』を打っておくことさえできれば、どんな個性の脅威だって防ぐことができるのに……」
納得がいかない、そう言いたげに言葉を重ねる緑谷を、祈は静かに見つめ返した。
「出久くん、何故私が他人の個性因子を『花と種』に切り分けるなんていう、そんな恐ろしく器用な真似が出来るようになったのか。……その理由を想像すれば、すぐに分かることですよ」
「……え?」
「私が最初から、その技術を持っていたわけではありません。……私が公安にいたことはご存知でしょう?あの場所にいた大人たちが、私の『ジキルとハイド』の異能を使って、一体どんな実験を行っていたか。……人道に反するような凄惨な試みも、そこでは当たり前のように、私の手を介して行われていました」
――静寂。
夕暮れの街並みのなかに、祈の淡々とした、けれど決定的な過去の血の匂いが、冷気となって染み渡っていった。
緑谷は、息をすることすら忘れてその場に縫い付けられたように足を止めた。
何故、できるのか。他人の個性を切り取り、生殺与奪の権を握り、魂の定着しないゾンビを作り、精神を抜いた人形のように他者を操るその技術。それは、彼女の異能が優れているからではない。公安という国家の闇のなかで、自らを道具として機能させるために、数え切れないほどの『被験者』を実験台にし、個性を切り刻み、尊厳を容易に踏み躙り続けてきたという、彼女自身の血塗られた加害の積み重ねそのものだったのだ。
「あ――――っ」
「私は……。ただ神父様の『人に優しく、人を助けなさい』という教えに従って、世界に優しくありたいだけなのです。他人の個性を弄くり回し、システムを書き換えるあの感覚は、私に、道具として人の尊厳を壊し続けていた頃の記憶を呼び覚まさせます。……ですから、本当にどうしようもない時以外の、安易な行使は、二度としたくはないのですよ」
祈はそう言って、困ったように、力ない微笑みを緑谷へと向けた。
自分がどれだけ綺麗に笑っていようとも、その手のひらに刻まれた「便利な道具」としての業は消えない。
緑谷は、自身の差し伸べようとした浅はかな綺麗事が、彼女の最も深い傷口を無自覚に抉り、どれほどの苦痛を強いるものであったかを悟り、自責の念に全身の血の気が引いていくのを感じていた。
「っ神代先生、その、そういうつもりじゃ」
「ええ、分かっておりますよ。出久くんは優しい子ですから」
隣を歩く八木もまた、自分の命が繋ぎ止められたあの夜の対価として、彼女がどれほど凄まじい地獄に囚われることになったのかを静かに噛み締めた。
「八木先生も、そんなに暗いお顔をしないでくださいね。本当に気にしていませんから」
祈はそう言うと、再び前を向いて歩き出した。
歩く因果律のバグ。自らを道具と言い切りながらも、ただ神父の遺言を守って微笑む聖女。
これから始まるインターンという未知の現場を前にして、彼女の血塗られた檻の残滓は、皆の胸の内に、静かに、けれど誰よりも深く、消えることのない不穏な足跡を刻み込んでいくのだった。
分かっていても、やっていいことと悪いことがある。