プロヒーローインターンの本格的な始動に伴い、雄英高校の敷地内から各地の現場へと生徒たちが散っていくなか、緑谷出久が通形ミリオの紹介を介して、元相棒であるサー・ナイトアイの事務所へと正式に籍を置くこととなった一連の経緯は、救護補佐としてのデータ収集を行う祈のタブレットにも、新たな記録として克明に書き加えられていた。
かつて自分が命を繋ぎ止めた八木俊典の、その『ワン・フォー・オール』を完全に受け継いでいる少年。前日の帰り道、自らの血塗られた実験の過去を淡々と突きつけてしまったにもかかわらず、なおも前を見据えて現場へ飛び込もうとする緑谷の姿を、祈はただ静かに見つめていた。
自由を奪うための首輪に縛られながらも、今の彼女は落ち着いている。
支援の枠、あるいは公安からの同行データ収集の実務命令。その名分のもとに彼女がこの場に控えているのは、裏社会のクスリの脅威に対し、かつて個性を奪われたラグドールの最新の容態を精査した唯一の専門スタッフとしての側面もあった。
そして、そのインターン活動の初日、緑谷と通形ミリオの二人が街の路地裏で怯えて震える少女――壊理と、その背後から現れた指定敵団体『死穢八斎會』の若頭、治崎廻に遭遇したあの緊迫した事件。
それを引き金にして招集されたのが、今回の臨戦態勢に満ちた大規模な合同対策会議だった。
都内にあるナイトアイ事務所の広大な会議室には、主であるナイトアイや通形ミリオらをはじめ、ファットガムの元でインターン中の切島、リューキュウの元にいる麗日や蛙吹といった雄英の生徒たち、および相澤消太やグラントリノをはじめとする数多のプロヒーローたちが重々しい空気のなかに居並んでいた。
「……」
その灰色の円卓を囲むヒーローたちの後方、救護補佐兼データ収集役として、祈は壁側に静かに佇んでいた。
いつもなら、八木俊典がいるはずの場所。しかし今日この時に限っては、八木は根津校長から緊急の用件による呼び出しを受けており、どうしても外せない用事のためにこの会議室には同席していなかった。ヒーローを退いてなお世界最強の男の不在という、どこか奇妙な空白。
祈はただ独り、手元のタブレットへと淡々と会議の記録を機械のように打ち込んでいた。一言の口も開かず、ただの便利な『道具』として機能することだけに徹して。
「――では、本題に入ろう。八斎會の若頭、治崎廻が裏社会で流通させている『個性を壊すクスリ』の全貌だ」
ナイトアイの冷徹な声音が、室内の緊張感を一気に引き締める。
プロヒーローたちから次々と提出される、流通経路や成分分析のデータ。先日、切島が遭遇したチンピラとの戦闘の記録。それらのパズルがナイトアイの手によって一つに繋ぎ合わされていくなか、最悪の事実が室内の白日の下に晒されることとなった。
「……クスリの成分には、人間の細胞、および他者の個性を歪に呼び起こす因子が検出された。八斎會の屋敷には、治崎の娘と呼ばれる『壊理』という名の、未だ幼い少女が囲い込まれている。……つまり、あのクスリは、その幼い子供の肉体を媒介にして作られているものだ」
――静まり返る、会議室。祈の手も止まった。
その場にいた全員の全身の血の気が、一瞬にして引いていく感覚。緑谷は息を詰め、ミリオは先日、路地裏で自分のマントに縋り付いて震えていた小さな、冷たい壊理の温もりを思い出して、痛切な自責に顔を歪めた。
治崎の個性『オーバーホール』。対象を細胞の単位から「分解」し、一瞬で「修復」する神の領域の異能。治崎はその力を使い、壊理の肉体を何度も、何度も生きたまま切り刻んで分解し、血肉を毟り取っては再生させるという、人間の尊厳を冒涜する凄惨な『搾取』を繰り返して弾丸を精製していたのだ。
「そんなの……そんなの、絶対に許せねえだろがよ……っ!」
切島が声を震わせ、麗日や蛙吹が悲痛に表情を強張らせる。
まだ十歳にも満たない幼い子供が、大人の、裏社会の都合のためだけに、身を削られてシステムを搾取され続けている地獄。
その、円卓を囲むプロヒーローたちが激昂の声を上げるなか、緑谷は硬直したまま、膝の上の拳を、爪が皮膚を突き破って血が滲むのではないかというほどの力強さで、ぎり、と握りしめていた。
壊理の凄惨な現状に対する義憤。……そして、それと同じくらいに、彼の胸を激しく、痛烈に苛んでいたのは、他ならぬ自分自身への容赦のない自責だった。
(僕は……なんて酷いことを、神代先生に言ってしまったんだ……)
先日の帰り道。意図していたわけではないが、まさにこういった事態を想定しての発言だった。個性を奪うクスリへの対抗策として、事前に僕たちの個性を初期化して保護しておいてくれれば、と無邪気にすがり付いた自らの浅はかな綺麗事。
ラグドールの個性を守ったあの『初期化』の事実を知っているのは、当事者であるプッシーキャッツの四人と、あの病室にいた自分、オールマイト、そしてナイトアイの七人しかいない。その世界でわずか七人しか知らないはずの彼女の絶対的な禁忌を、自分が個性を消されるかもしれないという恐怖から、都合よくお守りとして頼ろうとしていたのだ。
それが、彼女がかつて公安の真っ白な地下室で大人たちに強いられ続けていた、人道に反する凄惨な個性実験の過去を最悪の形で抉るものであったことも知らずに―――
「ええ、分かっておりますよ。出久くんは優しい子ですから」
壁際に独りで佇み、一言の口も利かないままタブレットを打っている祈の後ろ姿。その笑顔の奥にある消えない傷痕を、自らの無神経な言葉で踏みにじってしまった事実に、緑谷は脳の奥が焼け付くような不甲斐なさと、激しい後悔に呼吸を詰めていた。二度と彼女の力の行使をアテにしてはならないと、心に深く刻みつけるように。
緑谷が自らの胸の内の甘えを完全に叩き潰すなか、灰色の円卓では、ナイトアイの指揮のもとで具体的なアジトへの突入作戦の構築が淡々と進められていた。
「――今回の強制突入において、神代先生。あなたには前線の突入部隊ではなく、現場の直近に敷かれる拠点にて、完全な『後方支援』に回ってもらう」
ナイトアイの冷徹な、けれど明確な意図を孕んだ言葉が会議室に響く。
八斎會の持つ個性破壊弾の脅威。それに対し、事前に祈の『初期化』による先手の保護を受けられない以上、突入部隊のヒーローたちが戦闘中に個性を失うリスクは跳ね上がる。
けれど、その事実を共有しているナイトアイや相澤たちプロヒーローは、彼女にこれ以上の精神的負荷を強いるわけにはいかないと結論づけていた。なにより、彼女の放つ超高速の肉体再構成の異能は、前線が理不尽な暴虐によって万が一にも崩壊しかけた際、死の淵から命を力ずくで引き戻すための、この救出作戦における最大の、そして最後のセーフティネットであるという作戦配置。
プロヒーローたちが自らの身を盾にする覚悟を決めてその配置を頷き合うなか、祈の思考は、ただどこまでも凪いだまま、静かにそのログを見つめ、脳内で長々と独白を巡らせていた。
(ああ、なるほど。やはり、また『搾取』されているのですね。世界が、あの子供たちの善意を、理不尽に奪い去ろうとしている。
治崎廻という方の行っていることは、とても非効率で、何より世界を著しく歪める致命的なバグに他なりません。
悪意に、世界に善意を搾取されるべき存在ではない。もちろん、それらを取り巻く環境も含めて。幼い子供たち。彼らは尊く、守られるべき光。だからこそ、何の価値もないこの私が、スペアとして、すべての痛みと汚れを代わりに引き受けて、世界に優しくあろうと機能しているというのに。
ましてや、あのようにまだ小さな、未来に向かって元気に走り回るはずの少女が、大人の傲慢のためにその血肉を搾取され、泣き叫ばなければならない世界など、決定的に間違っている。
カルト宗教の暗い部屋で、実の父親と信者たちに生き神として監禁され、『すぐ治るから』という理由で体中を切り刻まれ、個性を搾取され続けていたあの頃の自分と、同じ―――幸いなことに、その記憶はデータとしてしか認識されていないのだが。
可哀想に。
(そのクスリがどれほど皆様の個性の『花』を脅かそうとも、皆様が傷つき、壊れかけるその端から、私が皆様の肉体をあるべき姿へと戻して差し上げます。出久くんに話した通り、他人の個性因子を弄くり回す『初期化』の行使は、私の血塗られた加害の過去を呼び覚ますため、二度としたくはない最低最悪の最終手段…だから、事前に『種』を保護する先手は、行いません。けれど、だからこそ、身代わりとなるためにもあの後方支援の場所に立たなければ――)
祈は一言の口も利かないまま、ただ淡々と、タブレットに文字を打ち込みながら、狂気的なまでの完璧主義と絶対的な博愛のシステムを脳内で回し続ける。
しかし、壁際に独りで佇む彼女のその一切の感情を排した「静寂」は、かえって会議室のなかにいる若手の目を強烈に惹きつけていた。
「――我々ヒーローが、これ以上悪意の搾取に屈してなるものか。……これより、壊理少女の救出、および八斎會アジトの強制突入作戦の立案へ移る」
ナイトアイの鋭い合図と共に、一気に決戦へ向けて作戦が加速していく。
祈は一言の口も利かないまま、死穢八斎會という過酷な戦いの幕開けのなかに、ただ真っ直ぐに、その身を投じていくのだった。