地下迷宮の最奥に、現世の地獄が鳴り響いていた。
通形ミリオが身を挺して壊理を庇い、血塗れになりながらもその圧倒的な精神で治崎廻の暴虐に食らいつき、そこへ割って入るようにして緑谷出久がアジトの壁を爆砕して駆けつける――まさに、激しく交錯するその刹那だった。
「――どいつもこいつも、不浄な泥泥がアアアッッ!!」
治崎のペストマスクの奥から、世界のすべてを拒絶する咆哮が迸る。
彼の手のひらがコンクリートの床へと突き立てられた瞬間、大地の分子が強制解体され、爆発的な質量を伴って、無数の巨大な岩の突起が地面から槍のように一斉に突き上がった。
本来であれば、それは突入部隊の先頭に立っていたサー・ナイトアイの肉体を無慈悲に貫き、その命を奪うはずの、逃げ場のない広範囲の即死攻撃。
「……っ!」
だが、その破滅の軌道に、誰よりも早く、後方支援の持ち場を完全に無視して強引に割って入った影があった。それは、この場にいるはずのない祈だった。
彼女の澄んだ瞳が捉えたのは、ナイトアイの危機ではない。自分のすぐ後ろ、怯えて蹲っている壊理の、その小さな背中のすぐ真後ろから、殺意に満ちた巨大な岩の槍が迫っているという絶対的な事実。
(泣いている。これ以上、搾取させてはならない)
「壊理ちゃん、下がってください」
その言葉と共に一切の躊躇なくその細い身体で一歩、壊理を押しのけるように前へと踏み込んだ。
次の瞬間。
――ズンッ、と。
鈍く、悍ましい肉肉しい破壊音が、静寂を切り裂いて室内に響き渡った。
治崎の発生させた巨大な岩の突起が、祈の華奢な腹部を、背後へと突き抜けるほどの質量で容赦なく完全に貫いていた。本来ならばナイトアイが受けるはずだった、肉体構造を一瞬で破壊し尽くす致命傷。それを、彼女はすべて身代わりとしてその身に受けたのだ。
「神代先生――ッッッ!!!!」
瓦礫を蹴って跳んだ緑谷の口から、引き裂かれたような悲鳴が上がる。
背後で庇われた壊理も、目の前で自分の代わりに巨大な岩槍に突き刺さったシスターの姿に、恐怖を通り越して完全に息を呑んでいた。
五体満足なまま傷一つなくその光景を見届けることとなったナイトアイは、驚愕に三白眼の瞳を見開き、先日自らの『予知』で視てしまった、彼女が身を削って運命を書き換えるというあの過酷な代償の現実を前に、声も出せずに戦慄していた。
――だが、地獄の変転はそこからだった。
「―――っ」
ドク、ドク、と、岩槍に貫かれた祈の傷口から、堰を切ったように大量の鮮血が溢れ出し、床のコンクリートへとなだれ落ちる。
彼女の首元には、いまだ公安の黒い電子首輪が冷たく嵌められたままであった。精神の混濁は去れど、国家の檻による出力制限は全ての解放を許していない。治崎の圧倒的な分解速度に対し、首輪によって枷を嵌められた『ジキル』の再生出力では完全に相殺しきれず、肉体構造の崩壊という甚大なシステムエラーが、祈の体内を激しく磨り潰していく。
ピーーーーーッ――!!!
久しく聞いていない音だった。
限界値を叩いた抑制器が鼓膜を刺すような警告音を上げ、青白い火花を散らして彼女の首筋を無慈悲に灼き苛む。
しかし、その肉体の限界を逆手に取るようにして、祈の腹部と頸部の傷口から溢れ出た生々しい血が彼女の足元に血溜まりを作り、うぞうぞと蠢いた。そして彼女の背後の空間がどろりと歪む。
そして、祈はにたりと嗤った。
「―――あら、うふふ」
それは、普段の祈であれば絶対に浮かべないはずの、底暗い、現世のすべてを見下すような残虐な『悪意の微笑み』。
首輪の制限下で肉体が致命的な破壊を許したその隙間から、内側に眠るもう一つの人格――かつて人道を容易に踏み躙り続けていた頃の、あの悍ましき『ハイド』の概念が、血の海から這い出るようにして、この戦場へと直接召喚された瞬間だった。
「何だ……! 血液の因子そのものが、別の超常へと変異しているというのか……!?」
治崎のペストマスクの奥の声が、本能的な悪寒に引き攣る。
治崎はすぐさま間合いを詰め、その化け物じみた現象ごと祈の肉体を再び分解しようと、剥き出しの素手を彼女へと叩きつけた。触れたものを分子の単位で強制解体する『オーバーホール』の再駆動。
けれど、その素手が祈の血に塗れた修道服、および彼女の背後に蠢くハイドの影に触れた、その刹那だった。
「……なっ、あ、動か、ない……!?」
治崎の素手が、ピキリと不気味な赤黒い霜に覆われ、その場に完全に縫い付けられた。
ハイドの持つ異能の本質――絶対的な死の概念。分子の運動そのものを停止せしめるその極限の閉塞の前に、治崎のオーバーホールという分解と修復のプログラムそのものが強引に上書きされ、一切の駆動を許されずに完全無力化されたのだ。
「お前、お前という病原体は……!」
触れたものを一瞬で肉塊に変えるはずの己の力が完全に通用しない恐怖。治崎がその手を毟り取るようにして後退りするなか、祈の内で表面化したハイドの悪意ある微笑みは、首輪の制限の隙間を縫うようにコントロールし、治崎の動きを邪魔をしながら、緑谷の戦いをフォローし続けていた。
「酷いことを言ってくれますねぇ」
その様子を口端から血を垂らしながら見ていた祈。呆然とこちらを見上げているナイトアイを尻目に、体を貫く岩の突起からミシミシと骨肉を軋ませながら、ゆっくりと自らの身体を力ずくで引き抜いた。
「が、ふ…っ」
「おい!大丈夫か!!」
「っ、…出久くんの、フォローを…」
首輪の枷がある以上、今回の代償はあまりにも重い。完治の速度が追いつかないほどの大量出血、ヒュー、ヒューと肺が悲鳴を上げる呼吸困難、そして喉の奥から絶え間なく込み上げる赤黒い鮮血を、祈は白い手で口元を押さえながら生々しく床へと何度も吐血した。
「――おおおおおおおッッッ!!!!」
彼女が血を吐きながら道を拓いたその瞬間を、緑谷が逃すはずはなかった。
壊理の力を背中に宿し、全盛期スペックの超暴力を一〇〇%解放した緑谷のフルカウルが、アジトの空間ごと、巨大な異形の肉塊と化していた治崎の巨躯を力ずくで圧砕していく。祈のハイドによって分解の能力を封じられ、動きを止められた治崎には、その光の拳を防ぐ術など残されていなかった。
◇
嵐のような衝撃波が吹き抜け、異形と化していた八斎會の若頭が更地へと叩き伏せられた、決戦の終幕。
祈の首元の黒い電子首輪は、主のバイタル危険域を感知して激しく赤く明滅し、バチバチと火花を散らしてその首筋を執拗に灼き苛んでいた。大量の吐血による貧血と目眩に、その細い身体が僅かに揺れる。
けれど、祈は倒れない。
口元から絶え間なく生々しい血を流し、修道服を赤黒く染め上げながらも、彼女はハイドの狂気を再び内側へと閉じ込めると、緑谷のそばにいる壊理の元へとゆっくりと視線を落とした。
祈は口元の血を細い指先で静かに拭うと――淡々と、その声を返した。
「少し違います。……私の個性は、生きているものを生かすだけです。……死なせることも、できますけど」
緑谷に語った、冷たい地下室での血塗られた加害の記憶。
その圧倒的な強者としてのプレッシャーを僅かに残しながらも、祈はすぐに、子供大好きな彼女らしいふんわりと柔らかい微笑みへと瞳の色を戻した。
そして、自らの血に塗れた手のひらで、壊理の小さな、冷たい頬を優しく包み込むようにして撫でながら、優しい声で口から血を流しながらもにこりと微笑みかけた。
「――もう、大丈夫ですよ、壊理ちゃん」
自らを道具と言い切り、首輪の制限による致命傷の激痛の代償を一切表に出さず、ただ子供の盾となって微笑み続ける血濡れのシスター。
五体満足なままその不条理を見届けたナイトアイの瞳には、かつて予知で視た過酷な因果の天秤への激しい涙が溢れたのだった。
◇
アジトの崩落が収まり、警察やプロヒーローの増援が雪崩れ込んでくるなか、特設の救護エリアの大型テントのなかに、祈の身体のチェックを行うプロヒーローたちの、低く、重苦しい説教の声が響き渡っていた。
「神代先生、君が死なない身体だからといって、やっていいことと悪いことがある。……グラントリノやファットガムからも、君のあのスタンドプレーには猛烈な抗議が来ているぞ」
ナイトアイが床に落ちた眼鏡を指先で押し上げながら、その鋭い三白眼の瞳に、痛痛しいほどの自責と、それ以上の厳しい怒りを滲ませて祈を見下ろした。
衣服は無残に引き裂かれ、修道服は彼女自身の流した大量の血で赤黒く染まり、鉄臭い異臭を放っている。傷口そのものはジキルのループによって塞がっているものの、制限下の負荷による呼吸困難と、絶え間なく喉の奥から込み上げる血を白い手で押さえながら激しく吐血している彼女の痛々しい姿は、その場にいる大人たちの理性を激しく揺さぶっていた。
けれど、祈はそんなヒーローたちの厳しいお叱りに対しても、口元の血を拭い、柔らかな微笑みを浮かべるだけだった。
「お気になさらないでください、ナイトアイ様。…あなたが生きていてくださって良かった。私は皆様の身代わりですから、これが正しいのです」
自らを身代わりと言い切り、激痛の代償を表に出さずに微笑むその精神の圧倒的な「異常性」。
その歪みきった博愛の言葉が病室に落ちた瞬間、それまで壁際に腕を組んで黙り込んでいた相澤消太の堪忍袋の緒が、静かに、けれど決定的な拒絶の熱量を持ってブチ切れた。
「――神代。いい加減にしろ」
ドス、と地を這うような低い怒号。
相澤は一歩、祈のベッドの前へと激しい足取りで詰め寄ると、ギチギチと拳を握りしめ、血の気が引くほどの眼光で彼女を真っ直ぐに睨みつけた。
「神野の夜もそうだ。お前は自分の命を何だと思っている。……今回の作戦会議で、ナイトアイはお前を『完全な後方支援』に置くと明言したはずだ。それを全て無視して前線へ飛び込み、挙げ句の果てに、お前のあの傷口から溢れた血は何だ。あの時、一瞬だけお前が見せた、アレは、一体何だ」
相澤の声音が、プロとして、教師として、そして彼女の首輪の火花を間近で見てきた一人の男としての、張り裂けそうなほどの危惧に震えている。
「説明しろ、神代。……お前は一体、何に縛られて、その首輪の奥で何の地獄を隠している。これ以上、自分を便利な道具だなんだと自虐して、俺たちの目の前で自分をすり潰すような真似は、絶対に許さない。……お前が口を開くまで、俺はここを動かないからな」
一切の綺麗事を排した、泥臭い教師としての、本気の詰め寄り。
自分の甘さが、またしても目の前の頼れる強い大人をこれほどまでに怒らせ、傷つけてしまっているという現実。
祈は、その相澤の剥き出しの感情の熱量に、レースのヴェールの向こう側でほんの少しだけ驚いたように瞳を揺らし、痛々しい微笑みを貼り付けたまま、自らの内に再び混濁していく哀しい疑問を静かに刻み込むのだった。
(私が傷つくと、他の人も悲しい…?どうして?優しいから?)
治療を終えてベッドの傍らに駆けつけていた緑谷出久も、通形ミリオも、プロたちに激しく説教され、それでも自分が傷つくことを厭わない彼女の圧倒的な聖性と異質さに、強烈な戦慄を覚えていた。
ナイトアイ生存ルート。
そしてまた子供にトラウマを植え付ける血塗れシスター。