正直に言って、最悪の任務を引き当てたと思っていた。
元公安の老いぼれ神父が死んだ。
だから、その後始末と残された『最高機密』の引き継ぎを見張ってこい。
上層部から下された命令は、要約すればそれだけだった。
資料に目を通せば、元はカルト宗教の生き神様だっただの、未曾有の危険個性を秘めているだの、物々しい言葉が並んでいる。
すぐ治るからと実の親に切り刻まれていただなんて、エグい過去のオンパレードだ。
(どうせ、過去の実験と監禁生活のストレスで、顔も心もひん曲がったブサイクな女なんだろう。扱いづらくて堪りそうにないねぇ)
そんなひねくれた偏見を胸に抱きながら、俺は地方のクソ田舎にある小さな教会の扉を、不躾に革靴で押し開けた。
冷え切った礼拝堂。
その中央で、静かに床を磨いていた『それ』が、こちらを振り返った瞬間――俺の脳髄は、言葉を失って完全にフリーズした。
(……は? なんだよ、これ)
とんでもなく、美しい女だった。
黒い修道服の隙間から覗く肌は、雪のように白く、一切の濁りがない。頭から被った白いレースのヴェールの網目の向こう、端正な顔立ちの中に嵌め込まれた双眸は、まるで深く静かな夜の湖のようだった。
資料にあった『外見年齢二十代』という言葉が生ぬるく思えるほど、彼女の美しさは完成されていた。
まるで、一流の芸術家が何百年もかけて彫り上げた最高傑作の彫像を、そのまま目の前に突きつけられたかのような、人間離れした圧倒的な造形美。
だが、俺が本当に息を呑んだのは、その容姿の美しさに対してではなかった。
「あー……君が例の『生き神様』? 今日から新しいお目付け役になった、筑紫です。よろしく」
俺の気だるげな挨拶に対して、彼女は白いレースの下で、す、と完璧な微笑みを浮かべた。
非の打ち所がない、凛とした丁寧な敬語で「よろしくお願いいたします、筑紫様」と頭を下げる。
その瞬間、俺の背筋に、ぞわりと冷たい鳥肌が立った。
おかしい。
資料にあった、死んだエリアス神父と映っていた写真の彼女は、もっと歪で、未完成で、けれど確かに『人間』として笑っていたはずだ。
なのに、今俺の目の前で微笑んでいるこの女には、生きた人間の体温のようなものが一切感じられない。
何より、俺の生まれ持ったこの忌々しい個性が、彼女の異様さをこれでもかと告げていた。
俺の個性は『共感層(シンパシー)』という。
一定の距離にいる人間の本音、感情の起伏、脳裏から漏れ出る「心の色の濃さ」を、まるで自分の肌で感じるように、なんとなく受信してしまう精神感応系の異能だ。
嘘つきの多い公安において、相手の腹の底を見抜くのにはうってつけの能力。
だからこそ、俺は着任した瞬間から、この美貌の『生き神様』の心を覗き見ようとしていた。
だが、俺の『共感層』が捉えたのは――強烈な矛盾だった。
彼女の心の大部分には、分厚い、冷え切った漆黒の氷の鍵がかけられている。
裏切りの絶望に染まったその場所からは、何も感情が流れ込んでこない。
特定の誰かを特別に想うような、人間らしい『愛』の部屋は完全に閉ざされている。
それなのに。
そのガチガチに凍りついた心の隙間から、まるで濁流のように溢れ出してくるものがあった。
それは、目の前の人間を、この世界を「守りたい」という、狂おしいほどに真っ直ぐな、純度百パーセントの善意。
(嘘だろ……。なんだよ、これ)
ひねくれた俺の理解を、彼女の心が完全に拒絶していた。
神父を疑い、世界を呪い、心を殺して「お人形」に戻ったはずのくせに。
彼女の奥底にあるその『博愛』だけは、死んでいなかった。
それどころか、どれだけ自分がボロボロに傷つこうとも、他者のために優しくあろうとする光が、消えずにギラギラと輝いているのだ。
(……なんつーか、本当に毒気を抜かれる感じかな。やりづらいなぁ)
その日から、俺と彼女の奇妙な共同生活が始まった。
口では「お仕事だからね」と割り切りながら、俺は彼女の行動を影から観察し続けた。
神父の死後も、彼女の日常は変わらなかった。
毎日、教会の床を磨き、街の人々の相談に乗り、武骨な俺に対しても変わらず丁寧な敬語で接してくる。そして週に数回、近所の中庭がある病院へと出向いては、ボランティアとして慈善活動をこなしている。その様子を、俺は黒スーツのポケットに手を突っ込んだまま、少し離れた廊下の影から、客観的にじっと見つめていた。
そこでの彼女の振る舞いは、まさに「聖人」そのものだった。
「神代さん、今日も来てくれたんだね。ありがとう、君と話していると痛みが和らぐよ」
「皆様のお役に立てるのなら、これ以上の喜びはありません」
病床で苦しむ老人の手を優しく握り、慈愛に満ちた聖母のような微笑みで寄り添う彼女。
「おねーさん!」
「あまり走ってはいけませんよ」
小児病棟へ行けば、白いレースのヴェールを少しだけ持ち上げて、車椅子の子供たちと同じ目線までしゃがみ込み、本当に愛おしそうな、無邪気な笑顔で絵本を読み聞かせてやる。
(……ああ、あの子たちのことは、本当に『可愛い』と思ってんだな)
俺の『共感層』が、子供たちと触れ合う彼女の心から、嘘偽りのない柔らかな温もりを受信していた。彼女は子供たちを心から愛おしみ、彼らが不運に泣かないように、その命を守りたいと本気で願っている。
だが、それが、ひねくれた俺にとっては逆に薄気味悪く、狂気的に思えて仕方がなかった。
だってそうだろう。彼女は、特定の誰かを特別に想う『愛』がわからないのだ。
実の親にも、信じていた神父にも裏切られ(と彼女は思い込んでいる)、心は完全に防衛反応の氷で閉ざされている。
世界を呪って、すべてを拒絶してもおかしくないほどの地獄を生きている。
それなのに、彼女は「愛が何なのかわからないまま」、目の前の人々を、子供たちを、世界を、命懸けで守り、優しくあろうとし続けている。
見返りなんて求めていない。ヒーローとしての名誉も、公安からの解放も求めていない。
ただ、死んだ神父の『人を助けなさい』『人を愛しなさい』という遺言を呪縛のように抱えながら、自分の心がどれだけ冷たい暗黒に染まっていようとも、他者には最高の光を与え続けている。
そのあまりの歪さと、徹底された聖人としての在り方。
自分のための欲が何も無いのに、世界への純粋な善意と子どもたちへの愛おしさだけで動いているその姿は、傍から見れば見るほど、人間離れしていて、背筋が凍るほどに眩しく、そして薄気味悪かった。
(おめでたい善人のフリをして、中身はガチガチの凍土。なのに、放つ光だけは本物、ねぇ……)
俺は缶コーヒーを口に含み、子供たちに微笑みかける彼女の後ろ姿を睨みつける。
世界を救う聖女か、あるいは世界を滅ぼすバケモノか。
公安のどんな極秘書類にも書かれていない、この神代祈という女の「本当の底暗さと、底抜けの優しさ」を、俺は誰よりも特等席で味わわされている。
――ま、お仕事だからね。
どれだけ理解不能だろうが、この狂ったお人形が壊れないように見張ってやるのが、俺の割り切ったお仕事の範囲内なわけ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は胸の奥の、今までに感じたことのない激しいざわつきを、必死に無視していた。