神様にはなれない私たち   作:琴ノ葉しずく

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第56話 忍び寄る影

 

 

 雄英高校では、文化祭に向けた準備が始まっていた。

 校内のあちらこちらで生徒たちが忙しなく動き回り、教室からは賑やかな声が聞こえてくる。出し物の相談をする者、必要な道具を調達する者、クラスメイトと意見をぶつけ合う者。

 

 いつもと変わらないようでいていつもとは少し違う、そんな学園の日常が少しずつ形になり始めていた。

 けれど、その輪の中に神代祈の姿はない。彼女は今も病院のベッドの上にいた。

 

「……文化祭、ですか」

 

 見舞いに訪れた八木の話を聞き、祈は小さく首を傾げた。

祈の護衛として傍にいた彼は、今は通常通り雄英高校で教鞭をとっている。

 

「ああ。生徒たちは随分と張り切っているようだよ。特に1年A組は、何やら大掛かりな催しを考えているらしい」

「ふふ。皆さん、楽しそうですね」

 

 祈は微笑んだ。

 窓から差し込む午後の日差しが、祈の白い肌を照らしている。顔色は以前よりもよくなっていた。死穢八斎會の戦闘で負った外傷は『ジキル』の自動修復によって綺麗に塞がり、こうして会話を交わすこともできる。

 しかし、ベッドから起き上がるだけでも、まだ身体には鉛のような重さが残っていた。

 表面上の肉体が整っても、過剰行使によって底を突いた体力と、繊細な出力を操るための個性制御は未だ戻りきっていない。

 

 何より、ジキルが鳴りを潜めている今の祈の意識の底には、別の、冷え切った何かがじわじわと這い上がりつつあった。

 本人はそれを、なるべく気に留めないようにしていたけれど。

 

「神代先生は、文化祭に行きたいと思うかい?」

「私が、ですか?」

「ああ」

 

 思いがけない問いだったのか、祈はしばらく黙っていた。

 それから、困ったように青い瞳を細める。

 

「……そうですね。皆さんが頑張っている姿を、見てみたいとは思います」

「ならば、元気になったら――」

「でも」

 

 八木の言葉を、祈が静かに遮った。

 

「私がいなくても、皆さんは大丈夫でしょう?」

 

 声は穏やかだった。

 寂しさを滲ませるでもなく、諦めを口にするでもなく。ただ、当たり前の事実を確かめるような言い方だった。

 八木は、すぐには答えなかった。いや、答えることができなかった。

 彼女はいつだってそうだ。

 誰かを助けることには迷わない。誰かのために傷つくことも、時には自分の命を危険に晒すことさえ、彼女は躊躇わない。

 けれど、自分が誰かに必要とされることについては、驚くほど無頓着だった。

 あるいは―――必要とされなくなることを、最初から当然のこととして受け入れているのかもしれない。

 誰かの身代わりとして消費され、消えていくことだけが自分の本質だと言わんばかりに。

 

「神代先生」

「はい」

「君がいなくても、彼らは前に進むだろう。それは間違いない」

 

 祈は静かに頷いた。

 

「けれどね」

 

 八木は、彼女の顔をまっすぐに見つめた。

 

 

「君がいたことまで、なかったことになるわけではないんだ」

 祈の指先が、シーツの上でわずかに動いた。

 その瞬間、病室の空気が、ほんの僅かに凍りついたような錯覚に八木は囚われた。

 いつも纏っている慈愛の温かさではない、生命の終わりに触れるような、底知れない冷徹な気配――『ハイド』の残滓が、祈の指先から一瞬だけ零れ落ちたような。

 

「君が彼らに与えたものも、君と過ごした時間も、彼らの中に残っている。君がここにいないからといって、それが消えてしまうわけではないよ」

「……そう、でしょうか」

「ああ。だから、今は君自身のことを考えてほしい」

 

八木は、自分の胸を衝いた本能的な寒気を誤魔化すように、少しだけ声を和らげた。

 

「誰かを助けるためではなく、誰かの役に立つためでもなく。君が君自身のために、休むことを覚えてほしいんだ」

 

 祈は答えず、ただ困ったように微笑んでいた。

 その笑顔を見て、八木は胸の奥に小さな痛みを覚える。

 彼女はきっと、休むことにも理由を求めるのだろう。誰かに許されなければ、何もせずにいることさえ難しいのかもしれない。

 

「……それは、難しいお願いですね」

 

 やがて祈は、ぽつりと呟いた。

 

「そうかもしれないね」

「私、自分のために何かをするのは、あまり得意ではありませんから」

「知っているとも」

 

 八木は苦笑した。

 

「だからこそ、何度でも言うつもりだよ」

 

 祈は顔を上げた。

 

「君は、君自身を大切にしていいんだ」

 

 その言葉を、祈は黙って聞いていた。

 窓の外から、遠く子供たちの声が聞こえてくる。文化祭の準備は、きっと明日も続いていく。

 彼女がいなくても―――彼女がいない場所で。

 それでも、彼女と出会った人たちは、それぞれの時間を重ねていくのだろう。

 

「……文化祭、成功するといいですね」

 

 祈はそう言って、再び微笑んだ。

 今度は、先ほどのような冷たい気配はどこにもなかった。いつもの、物腰柔らかな彼女の微笑みだった。

 八木は頷いた。

 

「ああ。きっと素晴らしいものになるよ」

 

 そう答えながら、彼は心の中でひとつ付け加えた。

 ――その日を、君にも見てほしい。

 君が誰かのために傷つくことなく、ただそこにいて。皆の笑顔を、君自身の喜びとして受け取れるように。彼女の奥底で、いまにも目覚めようとしている、あの悍ましくも静かな『死』の気配を、どうか引き留められますようにと。

 元・平和の象徴は、祈るようにそう願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

◇

 

 

 

 

 

 

 

同じ頃。

 薄暗い一室で、一人の男が報告書に目を通していた。

 紙面に記されたのは、死穢八斎會壊滅に関する報告。そして、その事件に関わった者たちの記録。男の指が、ある一枚の写真の上で止まった。

 銀色の髪。青い瞳。顔の上半分を覆う、白いレースのヴェール。

 写真の中の女は、血に汚れた衣服のまま、誰かを庇うように立っていた。

 

「……神代祈、か」

 

 男は、その名を口の中で転がした。

 公安の管理下に置かれた人間。極めて特殊な個性の保持者。治癒と生命維持に関わる力を持ちながら、同時に、死そのものに干渉する性質を備えている。

 報告書には、彼女の能力についての記述が並んでいた。

 だが、男の関心を引いたのは、能力の希少性だけではなかった。

 彼女は、他者を救うために自分の身を顧みない。

 そして、救われる側に回ることをひどく苦手としているそうな。記録を追うほどにその傾向は明らかだった。

 誰かのために傷つくことを厭わず、誰かのために自らを差し出す。その一方で、自分が何を望んでいるのか、自分がどう扱われたいのかについては、ほとんど言葉にしていない。

 まるで、自分自身の人生にさえ、所有権を持っていないかのようだった。

 

「……随分と、健気な子だ」

 

 男の声には、嘲笑らしい響きがなかった。

 むしろ、ひどく穏やかだった。哀れみ、と呼んでも差し支えないほどに。

 もちろんそれが本物の慈悲でないことは、彼自身が一番よく知っていた。

 彼にとって人間とは、可能性であり、道具であり、時には興味を満たすための玩具でもある。

 

 だが、だからこそ。

 

 この少女には、少しばかり興味が湧いた。

 生と死の境界に手を伸ばせる力を持ちながら、自分自身の生には驚くほど執着がない。

 それは、使い方次第でどれほどの価値を生むだろう。

 男は報告書を閉じた。

 

「傷は、もう塞がったのかな」

 

 まるで、遠くにいる知人の体調を案じるような口調だった。

 

「無理をする子は困るね。誰かがちゃんと気にかけてあげないと」

 

 傍らに控えていた者が、返答に迷う。

 男は気にした様子もなく、写真をもう一度眺めた。

 その顔に浮かぶのは、優しげな微笑み。

 彼女がいつか、自分のことを誰にも相談できなくなったとき、自分の気持ちを打ち明けられる相手が、誰一人としていなくなったとき―――そのとき、自分がどんな言葉をかけてやればいいのか。

 男は、すでに考え始めていた。

 

「大丈夫だよ、神代祈」

 

 誰もいない部屋で、彼は静かに囁いた。

 

「君のことを、理解してあげられる人間はいるとも」

 

 その声は、ひどく優しかった。

 だからこそ、残酷だった。

 男はまだ、彼女の前に姿を現してはいない。

 彼女もまた、自分が見つけられたことを知らない。

 それでも、確かに。

 神代祈という存在は、一人の怪物の関心を引いてしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

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