雄英高校では、文化祭に向けた準備が始まっていた。
校内のあちらこちらで生徒たちが忙しなく動き回り、教室からは賑やかな声が聞こえてくる。出し物の相談をする者、必要な道具を調達する者、クラスメイトと意見をぶつけ合う者。
いつもと変わらないようでいていつもとは少し違う、そんな学園の日常が少しずつ形になり始めていた。
けれど、その輪の中に神代祈の姿はない。彼女は今も病院のベッドの上にいた。
「……文化祭、ですか」
見舞いに訪れた八木の話を聞き、祈は小さく首を傾げた。
祈の護衛として傍にいた彼は、今は通常通り雄英高校で教鞭をとっている。
「ああ。生徒たちは随分と張り切っているようだよ。特に1年A組は、何やら大掛かりな催しを考えているらしい」
「ふふ。皆さん、楽しそうですね」
祈は微笑んだ。
窓から差し込む午後の日差しが、祈の白い肌を照らしている。顔色は以前よりもよくなっていた。死穢八斎會の戦闘で負った外傷は『ジキル』の自動修復によって綺麗に塞がり、こうして会話を交わすこともできる。
しかし、ベッドから起き上がるだけでも、まだ身体には鉛のような重さが残っていた。
表面上の肉体が整っても、過剰行使によって底を突いた体力と、繊細な出力を操るための個性制御は未だ戻りきっていない。
何より、ジキルが鳴りを潜めている今の祈の意識の底には、別の、冷え切った何かがじわじわと這い上がりつつあった。
本人はそれを、なるべく気に留めないようにしていたけれど。
「神代先生は、文化祭に行きたいと思うかい?」
「私が、ですか?」
「ああ」
思いがけない問いだったのか、祈はしばらく黙っていた。
それから、困ったように青い瞳を細める。
「……そうですね。皆さんが頑張っている姿を、見てみたいとは思います」
「ならば、元気になったら――」
「でも」
八木の言葉を、祈が静かに遮った。
「私がいなくても、皆さんは大丈夫でしょう?」
声は穏やかだった。
寂しさを滲ませるでもなく、諦めを口にするでもなく。ただ、当たり前の事実を確かめるような言い方だった。
八木は、すぐには答えなかった。いや、答えることができなかった。
彼女はいつだってそうだ。
誰かを助けることには迷わない。誰かのために傷つくことも、時には自分の命を危険に晒すことさえ、彼女は躊躇わない。
けれど、自分が誰かに必要とされることについては、驚くほど無頓着だった。
あるいは―――必要とされなくなることを、最初から当然のこととして受け入れているのかもしれない。
誰かの身代わりとして消費され、消えていくことだけが自分の本質だと言わんばかりに。
「神代先生」
「はい」
「君がいなくても、彼らは前に進むだろう。それは間違いない」
祈は静かに頷いた。
「けれどね」
八木は、彼女の顔をまっすぐに見つめた。
「君がいたことまで、なかったことになるわけではないんだ」
祈の指先が、シーツの上でわずかに動いた。
その瞬間、病室の空気が、ほんの僅かに凍りついたような錯覚に八木は囚われた。
いつも纏っている慈愛の温かさではない、生命の終わりに触れるような、底知れない冷徹な気配――『ハイド』の残滓が、祈の指先から一瞬だけ零れ落ちたような。
「君が彼らに与えたものも、君と過ごした時間も、彼らの中に残っている。君がここにいないからといって、それが消えてしまうわけではないよ」
「……そう、でしょうか」
「ああ。だから、今は君自身のことを考えてほしい」
八木は、自分の胸を衝いた本能的な寒気を誤魔化すように、少しだけ声を和らげた。
「誰かを助けるためではなく、誰かの役に立つためでもなく。君が君自身のために、休むことを覚えてほしいんだ」
祈は答えず、ただ困ったように微笑んでいた。
その笑顔を見て、八木は胸の奥に小さな痛みを覚える。
彼女はきっと、休むことにも理由を求めるのだろう。誰かに許されなければ、何もせずにいることさえ難しいのかもしれない。
「……それは、難しいお願いですね」
やがて祈は、ぽつりと呟いた。
「そうかもしれないね」
「私、自分のために何かをするのは、あまり得意ではありませんから」
「知っているとも」
八木は苦笑した。
「だからこそ、何度でも言うつもりだよ」
祈は顔を上げた。
「君は、君自身を大切にしていいんだ」
その言葉を、祈は黙って聞いていた。
窓の外から、遠く子供たちの声が聞こえてくる。文化祭の準備は、きっと明日も続いていく。
彼女がいなくても―――彼女がいない場所で。
それでも、彼女と出会った人たちは、それぞれの時間を重ねていくのだろう。
「……文化祭、成功するといいですね」
祈はそう言って、再び微笑んだ。
今度は、先ほどのような冷たい気配はどこにもなかった。いつもの、物腰柔らかな彼女の微笑みだった。
八木は頷いた。
「ああ。きっと素晴らしいものになるよ」
そう答えながら、彼は心の中でひとつ付け加えた。
――その日を、君にも見てほしい。
君が誰かのために傷つくことなく、ただそこにいて。皆の笑顔を、君自身の喜びとして受け取れるように。彼女の奥底で、いまにも目覚めようとしている、あの悍ましくも静かな『死』の気配を、どうか引き留められますようにと。
元・平和の象徴は、祈るようにそう願わずにはいられなかった。
◇
同じ頃。
薄暗い一室で、一人の男が報告書に目を通していた。
紙面に記されたのは、死穢八斎會壊滅に関する報告。そして、その事件に関わった者たちの記録。男の指が、ある一枚の写真の上で止まった。
銀色の髪。青い瞳。顔の上半分を覆う、白いレースのヴェール。
写真の中の女は、血に汚れた衣服のまま、誰かを庇うように立っていた。
「……神代祈、か」
男は、その名を口の中で転がした。
公安の管理下に置かれた人間。極めて特殊な個性の保持者。治癒と生命維持に関わる力を持ちながら、同時に、死そのものに干渉する性質を備えている。
報告書には、彼女の能力についての記述が並んでいた。
だが、男の関心を引いたのは、能力の希少性だけではなかった。
彼女は、他者を救うために自分の身を顧みない。
そして、救われる側に回ることをひどく苦手としているそうな。記録を追うほどにその傾向は明らかだった。
誰かのために傷つくことを厭わず、誰かのために自らを差し出す。その一方で、自分が何を望んでいるのか、自分がどう扱われたいのかについては、ほとんど言葉にしていない。
まるで、自分自身の人生にさえ、所有権を持っていないかのようだった。
「……随分と、健気な子だ」
男の声には、嘲笑らしい響きがなかった。
むしろ、ひどく穏やかだった。哀れみ、と呼んでも差し支えないほどに。
もちろんそれが本物の慈悲でないことは、彼自身が一番よく知っていた。
彼にとって人間とは、可能性であり、道具であり、時には興味を満たすための玩具でもある。
だが、だからこそ。
この少女には、少しばかり興味が湧いた。
生と死の境界に手を伸ばせる力を持ちながら、自分自身の生には驚くほど執着がない。
それは、使い方次第でどれほどの価値を生むだろう。
男は報告書を閉じた。
「傷は、もう塞がったのかな」
まるで、遠くにいる知人の体調を案じるような口調だった。
「無理をする子は困るね。誰かがちゃんと気にかけてあげないと」
傍らに控えていた者が、返答に迷う。
男は気にした様子もなく、写真をもう一度眺めた。
その顔に浮かぶのは、優しげな微笑み。
彼女がいつか、自分のことを誰にも相談できなくなったとき、自分の気持ちを打ち明けられる相手が、誰一人としていなくなったとき―――そのとき、自分がどんな言葉をかけてやればいいのか。
男は、すでに考え始めていた。
「大丈夫だよ、神代祈」
誰もいない部屋で、彼は静かに囁いた。
「君のことを、理解してあげられる人間はいるとも」
その声は、ひどく優しかった。
だからこそ、残酷だった。
男はまだ、彼女の前に姿を現してはいない。
彼女もまた、自分が見つけられたことを知らない。
それでも、確かに。
神代祈という存在は、一人の怪物の関心を引いてしまったのだった。