雄英高校が文化祭の準備で活気づく中、白い壁に囲まれた病室の空気は、驚くほど静止していた。祈は、ベッドの背もたれに身体を預け、壁に据え付けられた小さなテレビを眺めていた。
そんな静寂の中で、テレビの画面だけが、せわしなく明滅を繰り返していた。
『――続いてのニュースです。近年、目覚ましい活躍を見せる若き実力派ヒーロー、ホークス。彼が本日午前、福岡市内での連続強盗事件を、その圧倒的な速さで瞬時に解決しました。現地の映像が入っています……』
画面に映し出されたのは、燃えるような烈火の剛翼を背負い、大勢の報道陣とファンに囲まれて飄々と微笑む一人の男の姿だった。
カメラに向かって器用にウインクをして見せ、大人の余裕と軽薄さを完璧に演じ分けるその姿は、今やテレビで見ない日がないほどの時代の寵児だ。
「……ふふ。すっかり、立派になられて」
祈は、画面の中のホークスを見つめながら柔らかく唇を綻ばせた。
彼が背負う翼の鮮やかさを見るたびに、胸の奥が温かくなる。それと同時に、彼女の脳裏には、まだその翼が今よりも少し小さく、そして何より、彼が自分の本名を護るための檻の中にいた頃の記憶が、鮮明に蘇ってくるのだった。
それは、今から数年前。
彼が鷹見 啓悟という、公安によって塗り潰される前の名前を、まだ彼女の前でだけは保持していた頃の、とある静かな午後の記憶。
◇
「おねえさん、これ」
「はい?」
当時、十六歳になったばかりのホークスが差し出したのは、任務帰りに買ってきたという小さな紙袋だった。公安の厳格な管理下、分刻みのスケジュールで道具として磨き上げられる日々の隙間で、彼が自分の意志で手に入れたもの。
「これ、あげます」
「まあ。私にですか?」
「はい。……あ、いや、どうぞ」
差し出された手を少し引き気味にしながら、妙にぎこちなく言い直した彼に、祈はくすりと笑った。
「ありがとうございます。開けてもいいですか?」
「もちろん、です」
少しだけ、言い慣れない響きだった。
袋の隙間からのぞく彼の顔は、どこか緊張したように強張っている。
祈が丁寧に結び目を解き、中を覗き込むと、そこには街の小さな洋菓子店で作られたような、可愛らしい焼き菓子が入っていた。
「わあ、おいしそうですね。啓悟君が選んでくれたのですか?」
「そうっす。……です」
「ふふっ」
「……何ですか、一体」
「いいえ。啓悟君、最近とても丁寧にお話ししてくれますね」
「そりゃ……俺も、もう十六なんで」
啓悟はほんの少しだけ、所在なさげに胸を張った。
まだ完全に大人になりきれていない、少年独特の細い肩。それでも、公安の大人たちにどれだけ冷徹に扱われようとも、この修道服を着た女性の前でだけは、一人の男として、対等な存在として立ちたかったのだろう。
「いつまでも子ども扱いされるわけにはいかないっつーか……いかない、ですから」
「そうですね。もう十六歳ですものね」
祈は彼の背伸びをからかうことなく、真面目に頷いた。
「すっかりお兄さんですね」
「……いや、そこまでじゃないです」
「そうですか?」
「そうです」
少しだけ、二人の間に間が空いた。
「……そう、ですよ」
語尾の着地点が見つからず、自分でも何を言っているのか分からなくなってきたのか、ホークスは僅かに耳の付け根を赤く染めている。
祈はそんな彼を見て、愛おしそうに微笑んだ。顔の上半分を覆うレースの隙間から、光の薄い、けれど底のない慈愛を湛えた青い瞳が彼を見つめていた。
「啓悟君は、本当に頑張り屋さんですね」
「……別に」
「敬語も、一生懸命覚えているのでしょう?」
「……まあ」
「偉いですね」
そう言って、祈の手が自然と伸びる。
白く、どこか浮世離れした形の良い手が、啓悟の、まだ少し硬い羽毛のような質感の残る金髪に触れた。
ゆっくりと、慈しむように頭を撫でられる。
「…………」
ホークスは、まるで全身の動きを止められたかのように固まった。
「……おねえさん」
「はい?」
「俺、もう十六なんですけど」
「はい。知っていますよ?」
「……頭、撫でるの」
「嫌でしたか?」
「…………嫌じゃ、ないです」
最後だけ、声が消え入りそうなほど小さくなった。
祈は手を止めず、壊れ物を扱うかのような優しさで、彼の髪を撫で続ける。自身の体力を削りながら他者を癒す『ジキル』の持ち主である彼女の手は、過酷な訓練で冷え切った彼の身体を溶かすほどに、驚くほど温かかった。
「よかったです」
「……でも」
「はい?」
「いつか、ちゃんと……大人として見てほしいです」
勢いに任せて、言ってしまった。
少年の細い胸の中で、心臓がうるさいほどの音を立てて波打っている。
祈は少しだけ意外そうに目を丸くしたあと、いつもの穏やかな、すべてを包み込むような顔で頷いた。
「ええ。啓悟君が大人になっていくのを、楽しみにしていますね」
「……はい」
違う。
少年は、心の中で小さく首を振った。
そういう意味で言ったんじゃない。ただの『姉と弟』や『保護者と子供』の成長記録として、遠くから眺めるように楽しみにされたいわけじゃない。
でも、今はまだ、それ以上を言葉にする勇気も資格もなかった。自分の本名すら、公安のコードネーム――ホークスという完璧な鳥籠の中に消えかけている自分には、彼女の隣に並び立つための力があまりにも足りない。
ホークスは溢れそうになる感情をごまかすように、照れ隠しに紙袋を指さした。
「……それ、早く食べてください。おいしいんで」
「ふふ。では、啓悟君も一緒に食べましょう」
「いいんですか?」
「もちろんです」
祈が隣の丸椅子を引く。
啓悟は少し迷うような仕草を見せてから、その隣に、そっと吸い寄せられるように座った。
「……いただきます」
「はい、召し上がれ」
焼き菓子をひと口、口に運ぶ。
バターの香りと砂糖の甘さが広がる。それは間違いなく甘い。それなのに、彼の胸の奥は、どうしようもないほどに少しだけ苦しかった。
――早く大人になりたい。
あなたをこの公安という底なしの暗闇から連れ出せるくらい、強くて、誰よりも速く飛べる大きな翼を持った大人に。
そう強く願う一方で。
今だけは、この心地よい手の温もりと甘やかしの中で、何も持たない子どものままでいたいとも思ってしまう。十六歳の少年が抱えるには、あまりにも割り切れない矛盾だった。
「啓悟君?」
「……何でもないです」
ホークスは、眩しいものを見るように目を細めて笑った。
まだ少しだけぎこちない、けれど彼なりに精一杯の敬語で。
祈の隣にいられるこの無菌室のような、世界で一番優しい時間を、ひとつも取りこぼさないように。
◇
「……本当に、時の流れというのは早いものですね」
テレビの中で、大勢のファンに囲まれてスマートに微笑む現在の『ホークス』を見つめながら、祈は小さく呟いた。
あのとき、必死に敬語を覚えようとしていた十六歳の少年は、いまやその言葉遣いすら完璧な武器として使いこなす、立派なトップヒーローだ。もう彼女が頭を撫でてあげる必要などないくらいに、彼は大きく、強く成長した。
けれど、彼がどれだけ大人になろうとも、祈の心根は変わらない。
彼が、そして雄英の子供たちが、その光り輝く未来へ進むためであるならば。
「私はいつでも、あなたたちの身代わりになりますよ」
画面の向こうの、かつての少年へ向けるように、祈は静かに微笑む。
その穏やかな慈愛の裏で、彼女の意識の底に澱のように溜まる『ハイド』の冷たい影が、ほんの一瞬だけ、愉しげに揺れたような気がした。
それでも彼女は、いつもの丁寧な物腰のまま、リモコンを押してテレビの電源を切る。
静寂が戻った病室の窓の外からは、遠く、文化祭の準備に勤しむ生徒たちの賑やかな声が、風に乗って微かに聞こえていた。