病室のテレビでは、昼のニュースが流れていた。
祈はベッドの背もたれを少しだけ起こし、白い毛布を膝に掛けて画面を眺めていた。音量は控えめで、アナウンサーの声も、廊下を行き交う看護師たちの足音も、どこか遠くに聞こえる。
画面の中では、地域の子供たちが集まる催しの様子が映し出されていた。
色とりどりの飾りつけ。小さな手に握られた風船。カメラに気づいて、恥ずかしそうに笑う子供。
祈は、ほんの少し首を傾けた。
「……あら」
見覚えのあるような、ないような光景だった。
かつて公安の管理下、あるいは協会にいた頃、子供たちと過ごした時間が、ふと胸の奥によみがえる。
祈を見つけると、遠くから駆け寄ってくる子。今日あった出来事を、息継ぎも忘れて話してくれる子。手をつないでほしいと、何も言わずに袖を引く子。祈が本を読んであげると、いつの間にか膝のそばに集まって、眠ってしまう子もいた。
あの子たちは、今頃どうしているだろう。
元気にしているだろうか。
好き嫌いをせず、ご飯を食べているだろうか。
また誰かに、困った顔で甘えてはいないだろうか。
思い浮かべる顔は、どれも幼くて、少しずつ違っていた。
「……会いたいですね」
口にしてから、祈は瞬きをした。
自分がそんなことを思うのが、少し不思議だった。
会いたいと思うのなら、会いに行けばいい。けれど今は身体が思うように動かず、医師からももうしばらく安静にしているように言われている。
それに、あの子たちがここへ来る理由などないのだ。
祈は視線をテレビへ戻した。
画面の中の子供が、隣にいる大人の手を引いて笑っている。その手が、ひどく小さく見えた。
「……誰か、お見舞いに来てくださらないかしら」
声に出した途端、病室が急に静かになった気がした。
祈は困ったように目を伏せる。
誰かに会いたいと願うこと。誰かに、自分のところへ来てほしいと思うこと。
それは、相手の時間を奪うことではないだろうか。
忙しい人もいる。心配をかけてはいけない人もいる。自分のために、わざわざ足を運んでもらうなんて、そんな傲慢なことを考えてはいけない。誰かの身代わりとして上手く使われることだけが自分の役割なのだから――そう考えるのは、いつものことだった。
けれど今日は、テレビの中の子供たちが、どうにも目に残る。
もし、あの頃の子供たちが来てくれたら。きっと、病室が賑やかになる。少し騒がしくて、看護師に注意されてしまうかもしれない。ベッドのそばに集まって、何を話そうかと一斉に口を開くのだろう。
想像するだけで、ヴェールの下で頬がわずかに緩んだ。
祈は毛布の上で指を組み、そっと目を閉じた。
「……元気でいてくれたら、それで十分なのですけれど」
そう言いながらも、心のどこかでは、ほんの少しだけ違うことを願っていた。
元気な顔を見せに来てほしい。自分のことを、忘れずにいてほしい。そして、できることなら。会いに来たかったのだと、そう言ってほしかった。
テレビは変わらず、明るい声を届けている。祈はその声を聞きながら、病室の扉へ一度だけ視線を向けた。
誰かが訪ねてくる予定は、何もない。それでもしばらくの間、祈は扉から目を離せずにいた。
◇
こんこん、と。
病室の扉が静かにノックされたのは、午後のニュースが終わる頃だった。
「どうぞ」
祈が返事をすると、扉の向こうから聞き慣れた低い声がした。
「入るぞ」
雄英高校の教師であり、プロヒーローのイレイザー・ヘッド――相澤消太だった。
その後ろから、白い髪の小さな女の子が、遠慮がちに顔を覗かせる。
「……壊理ちゃん?」
祈の青い瞳が、わずかに見開かれた。
死穢八斎會の拠点で、自らの身体をボロボロにしながら救い出した幼き命。まさか、自分が救ったその子自身が、自分の元へ訪ねてくるなど、祈にとっては完全に想定の外だった。
壊理は相澤の服の裾を小さな手でぎゅっと握ったまま、じっと祈を見つめていた。
「こんにちは…祈さん」
小さな、消え入りそうな声だった。
けれど確かに自分の名前を呼んでくれた。
「……こんにちは」
祈は思わず、いつもよりずっと柔らかく微笑んだ。
「来てくださったのですね。ありがとうございます」
「見舞いに来た」
相澤が短く答え、持っていた紙袋をテーブルに置く。
彼の鋭い眼光は、祈の顔色の悪さや、ベッド脇の制御装置の作動履歴を静かに見極めていた。祈が自分の傷や苦しみを極端に軽く扱い、平然と自己犠牲に走る歪んだ人間だと、相澤はこれまでの経緯から少しずつ理解し始めていた。だからこそ、このお見舞いには彼なりの不器用な気遣いが含まれている。
「壊理がどうしてもお前に会いたいと言ってな。病院に確認して、短時間なら問題ないそうだから連れてきた」
「そう、だったのですか」
祈は壊理を見た。
壊理はまだ、ベッドのそばまで来られずにいる。以前の彼女なら、知らない場所に連れてこられただけで不安に押しつぶされていただろう。今だって、慣れない病室の空気と機械の音に緊張しているのが見て取れる。
それでも、恐怖を押し殺して、ここまで来てくれたのだ。
「壊理ちゃん」
祈は手を伸ばしかけて、途中で止めた。
まだ身体に鉛のような重さが残っている。無理に起き上がれば、きっと隣の相澤に止められるだろう。
だから、代わりに手のひらを上に向けて、そっとベッドの端へ差し出した。
「こちらへいらっしゃいませんか?」
壊理は不安そうに相澤を見上げた。
相澤が小さく頷くと、彼女は意を決したように一歩、また一歩とベッドへ近づいてくる。
そして、祈の白く細い手を、両手でそっと握りしめた。
「……いたくない?」
最初に出てきた言葉は、それだった。
敵対する個性を打ち消す凶悪な『ハイド』を持ちながら、誰かを救うためには自らの内臓の再構成すら厭わない『ジキル』の主。
祈は一瞬、答えに迷った。
身体の芯にある痛みは、未だ残っている。少し動くだけでも酷く消耗するし、個性制御も戻りきっていない。けれど、そんなことをそのまま伝えたら、この優しい子はきっと自分を責めてしまう。
「もう、大丈夫ですよ」
いつものように、自分の痛みを無視して微笑もうとして――ふと、先日の八木の言葉が脳裏をよぎった。
『君が君自身のために、休むことを覚えてほしいんだ』
祈は、握られた壊理の小さな手を見つめ、少しだけ言い方を変えた。
「……少しだけ、痛みます。でも、ちゃんと良くなっていますからね」
壊理は、祈の手をさらにぎゅっと握った。
「そっか……」
それから、壊理は悲しそうに俯いてしまった。
「壊理ちゃん?」
「わたし……」
小さな声が、カタカタと震えていた。
「わたしのせいで、祈さんが……ボロボロに、なっちゃって……」
「違う」
相澤がすぐに口を開いた。
普段と変わらない抑揚のない低い声だったが、そこには明確な、拒絶の余地を与えない強さがあった。
「お前のせいじゃない。あの場で何が起きたのか、誰が何をしたのか。それを混同するな。お前はただ、助けを求めて、ここにいる」
相澤の言葉に、壊理の肩が小さく揺れた。
祈もまた、壊理の手を壊れ物を包むように優しく包み直す。
「壊理ちゃん」
彼女がゆっくりと顔を上げるのを待ってから、祈は静かに、けれど心の底からの言葉を紡いだ。
「私は、あなたに会えて嬉しいです」
壊理が大きな目を丸くして、瞬きをする。
「……うれしい?」
「はい。こうして、お顔を見せに来てくださったでしょう?」
祈は少しだけ首を傾けた。
「実は私、今日はほんの少し……寂しかったのです。誰か来てくださらないかしら、なんて、我が儘なことを考えていました。ですから、壊理ちゃんがこうして会いに来てくださって、本当に嬉しいのですよ」
「…ほんとう?」
「はい、本当ですよ」
壊理はしばらく黙っていた。
やがて、祈の手を握る小さな手に、確かな力がこもる。
「……また、来てもいい?」
祈の胸の奥が、ジキルの治癒の温かさとは違う、純粋な感情の熱でじんわりと温かくなった。
「もちろんです」
今度は、一瞬の迷いもなかった。
「また来てください。お待ちしていますね」
壊理はようやく、張り詰めていた表情を緩めて、少しだけ笑った。
その純粋な笑顔を見て、祈の唇からも自然と笑みがこぼれる。
相澤は二人の様子を静かに見守りながら、壁際の椅子に腰を下ろした。余計な口を挟むことはせず、ただ、壊理が自分から祈の手を握り続け、祈もまたそれを当たり前のように受け入れているのを確認していた。祈が「他人に必要とされること」を少しずつ受け入れるために、この時間が治療以上に必要なのだと、相澤は見抜いていたのかもしれない。
やがて壊理は、自分のポケットから、丁寧に折りたたまれていた小さな絵を取り出した。まだ少し不揃いな拙い線で描かれた、三人の人影。そのうちの一人は、ひときわ綺麗な白黒の服を纏っていた。
「これ、祈さん」
「まあ……私ですか?」
「うん。たすけてくれたから。だから、描いたの」
祈は絵を受け取り、宝物を扱うように両手で大切そうに眺めた。自分のいない場所で、この子が自分のことを考え、指先を動かしてくれた。その事実が、祈の乾いた心を優しく満たしていく。
「ありがとうございます。大切に、大事にしますね」
その言葉に、壊理は今度こそ安心したように笑った。
祈は貰った絵を、ベッドの枕元へそっと置いた。
テレビの明るい音は、いつの間にか二人の会話の静けさに溶けて、聞こえなくなっていた。
誰かが来てくれたらいい。
そう願った我が儘な午後に、本当に誰かが来てくれた。しかも、その子は自分のことを忘れずに、会いたかったのだと言ってくれた。
祈は壊理の手を握ったまま、幸せそうにそっと目を細める。
「……来てくださって、ありがとう」
今度の言葉は、誰かを安心させるための偽りでも、役割を演じるためのものでもない。
神代祈という一人の人間としての、素直な気持ちだった。