壊理が相澤に連れられて病室を去った後も、祈の枕元には彼女から手渡された一枚の拙い絵が大切に残されていた。
不揃いな線で描かれた、白黒の服を着た人影。
それを見つめる祈の横顔は穏やかだったが、その静寂を破るように、病室の扉が再び小さく開いた。
「――少し、いいか」
入ってきたのは、壊理を一度廊下へと連れ出し、雄英の送迎車両へと引き渡してきた相澤だった。彼はいつもと変わらない、酷く気怠げな足取りで壁際のパイプ椅子を引き、祈のベッドの斜め前に腰を下ろした。
「ええ、相澤先生。壊理ちゃんは無事に戻られましたか?」
「ああ。通形が付き添って、今頃は学校へ向かっている。あの子は車に乗る直前まで、君の話をしていたよ」
「ふふ。それは良かったです」
祈はいつもの物腰柔らかな微笑みを浮かべた。銀色の髪が、午後の傾きかけた陽光を弾いて淡く揺れる。
外傷は『ジキル』の自動修復によって一見すれば完全に消え去っているが、過剰行使による致命的な体力の低下と、乱れた個性制御は戻っていない。起き上がるだけでも身体に鉛のような負荷がかかっていることを、相澤の鋭い眼光は見逃さなかった。
「……神代」
相澤はポケットに両手を突っ込んだまま、低く、どこか値踏みするような声を絞り出した。
「壊理に『少しだけ痛む』と言ったな」
「はい。八木先生に、少しは心配をかけるようにと言われてしまいましたから。嘘をつくのは良くないと思いまして」
「そうか。だが、お前の言う『少し』が、普通の人間にとっては『とっくにショック死していてもおかしくないレベルの残痛』と同義であることくらい、俺には分かるぞ
相澤の言葉に、祈は僅かに瞬きをした。
相澤は深く息を吐き出し、首元の捕縛布を少しだけ弄る。
「死穢八斎會の拠点で、お前が何をしたか、俺は報告書を読んだ。……治崎の放った攻撃からナイトアイと壊理を庇い、自分の身体を肉壁にしたそうだな?結果お前は致命傷を負った、とな。……そこから強引に細胞を再構成し、繋ぎ止めた。即死の攻撃を受け止め、致死量の血を流しながらも意識を保って緑谷のフォローに回った……どれも、常軌を逸した自己犠牲と個性行使だ。肉体が再生したからといって、脳が記憶した『破壊と再構成の負荷』がそう簡単に消えるはずがない」
「……お恥ずかしい話です。長年の経験と、公安での調整のおかげで形にはなっていますが、やはり今回は少し、出力を誤ってしまいました。臓器の再構成には同等の負荷がかかると分かっていながら、少しばかり焦ってしまったようです」
「誤った、じゃない。お前は最初から、自分の身がどうなろうと構わないと思っていただろう」
相澤の言葉は冷徹だった。責めるような調子ではない。ただ、目の前にある歪んだ事実を、淡々と解剖していくかのような静けさがあった。
「誰かの身代わりになりたい、誰かのために上手く使ってほしい。お前の根底にあるその精神性は、一見すれば聖者のそれだ。だが、ヒーローの観点から言わせてもらえば、それは酷く悪質で、自己完結した狂気に見える。お前がそうやって笑顔で自分を削り、死の淵から這い上がってくるたび、周りの人間がどれだけ罪悪感に削られているか、自覚はあるか?」
「……相澤先生」
「オールマイトもそうだ。お前に向ける視線は、ただの心配じゃない。……もっと暗く、引き返せない場所に足を踏み外しかけているような、そんな危うさがある」
祈は答えなかった。ただ、困ったように首を傾げ、薄い青い瞳で彼を見つめ返すだけだった。痛覚はあっても「自分のために痛みを拒絶する」という感情に繋がらない。そんな彼女の決定的な『精神の欠落』を前にして、相澤はそれ以上言葉を重ねることをやめた。
「……まあいい。君のその歪みを正す義理は、俺にはない。だが、壊理の前でだけは、あまり安い命のような扱い方をするな。あの子は、君に染み付いた、あの地下の血の匂いを、誰よりも敏感に感じ取っている」
「……ええ。肝に銘じておきますね。お気遣い、ありがとうございます、相澤先生」
相澤はそれだけ言うと、椅子から立ち上がり、今度こそ病室を後にした。残された祈は、彼が指摘した「血の匂い」という言葉を反芻しながら、自身の手のひらを見つめていた。
◇
数日後。
病室を訪れたのは、雄英の教師ではなく、祈を長年管理下に置いているヒーロー公安委員会の人間――目良だった。
彼はいつも通り、寝不足で目の下に酷い隈を作った疲弊しきった顔で、書類の束を抱えてパイプ椅子に腰掛けた。
「いやぁ……神代さん。体調の方はどうですか。相変わらず、外見だけは二十代をキープしていらっしゃいますが、中の数値はガタガタだと医師から苦情が来ていましてね……。ただでさえ、死穢八斎會の戦後処理や、壊理ちゃんの保護に関する書類仕事で死にそうなのに、あなたの機密文書の更新手続きまで重なって、私はもう、本当に睡眠が欲しいですよ……」
「申し訳ありません、目良様。あまり無理をなさらないでくださいね。私なら、このようにただ寝ているだけですから、後回しにしていただいて一向に構わないのですよ」
「そうはいかないから、こうして這って来ているんです」
目良は大きなため息をつきながら、一枚の厳重に封印された特級制限の用紙を取り出す。
「――さて、世間話はここまでにして、今後のあなたの処遇についての相談、というか、報告です」
「処遇、ですか?」
「ええ。今回の死穢八斎會事案におけるあなたの功績は、公安としても無視できないレベルのものです。何より、あの場にいたヒーローたち全員の身代わりとなって被害者の壊理ちゃんを五体満足で救い出した立役者ですからね。……ただ、その結果として、あなたの周囲の風向きが、少し変わり始めていましてね」
目良は、祈の首元に装着されている、黒く鈍い光を放つ金属製の『制御装置』を視線で指し示した。個性の出力を強制的に抑え込み、万が一の暴走を防ぐための、公安の象徴とも言える檻だ。
「その首輪について、ですがね。……先の戦闘に同行し、あなたの自己犠牲を目の当たりにしたサー・ナイトアイをはじめとする、複数の実力派ヒーローたちから、公安委員会に対して正式な『意見書』が提出されましてね」
「ナイトアイ様から……?」
「ええ。ナイトアイさんですが、あなたが目を覚ます前に書類を回してきたんですよ。曰く、『人命救助において誰よりも凄惨な身代わりとなった功労者に対し、重大な人権侵害にあたる拘束具を常時装着させる根拠は何か』『彼女の個性は確かに危険だが、適切なヒーロー活動の補助の範疇において制御されている。強制的な抑圧は、かえって個性の暴走や心身の摩耗を招くのではないか』『まして、彼女はヒーローではない』……とね。他にも、オールマイトのパイプや、国内外の現役トップヒーローの何人かも、この意見に賛同しているようでしてね。……本当に、どこからそんな人脈を引っ張ってきたのやら、公安の上層部も頭を抱えていますよ」
目良は疲れた声で淡々と告げた。
祈は、自分の首元に触れた。ひんやりとした金属の感触。長年、自分の肉体の一部のように馴染んでいたその重みが、外部のヒーローたちの手によって「外される検討」をされているという。
「上層部も、現在のヒーロー社会のパワーバランスを考慮すると、彼らの意見を全面却下するわけにはいかない状況です。そのため……あなたの回復状況次第ではありますが、その首輪を試験的に外し、今後の管理体制を緩和することも検討され始めています。……どうですか? 自由になれるかもしれない、というのは、あなたにとって朗報でしょう?」
目良は探るような目を向けた。
だが、祈の表情には、喜びの色は一切浮かばなかった。
彼女はただ、いつものように穏やかに、けれどどこか空虚に微笑むだけだった。
「……わざわざお調べいただき、ありがとうございます。ですが、目良様。私は、このままでも十分に自由ですよ。公安の皆様には、これまで良くしていただいていますし……これを取り外すことで、皆様にご迷惑がかかるのであれば、私はいつまでも、このままで構わないのです」
「……相変わらず、欲のないことですね。まあ、委員会としての正式な決定が出るまでは保留ですが、一応、そういう動きがあることだけは覚えておいてください。では、私は次の会議があるのでこれで……ああ、本当に眠りたい……」
目良は泥のように疲弊した背中を丸めて、病室を出て行った。
静まり返った病室で、祈は再び自分の首輪に指を修める。
自由―――首輪を外せば、自分は自由になれる。周囲のヒーローたちは、親切心からそう言ってくれているのだろう。
――けれど。
祈の胸の奥には、そんな単純な言葉では割り切れない、底冷えするような恐怖がじわじわと広がり始めていた。
その夜。
祈は、深く、暗い眠りの底へと落ちていった。
普段なら、彼女の睡眠は『ジキル』の作用によって、穏やかで何も見ない静寂に包まれているはずだった。しかし、個性制御が著しく乱れ、意識の底で『ハイド』の存在が強まりつつある今の彼女の脳裏に、かつてないほど鮮明な『悪夢』が狂い咲いた。
――チク、タク、チク、タク。
耳元で、悍ましいほどの音量で秒針の音が鳴り響いている。
視界を埋め尽くすのは、燃え盛る炎と、崩れ落ちた建物の残骸。
底知れない死の気配。
そして。足元を赤黒く染め上げる、おびただしい数の『血』と『死体』の山だった。
過去最悪の鮮明さで蘇る記憶。それは、かつて彼女が引き起こしたとされる最悪の災厄――『神の秒針事件』の当日の光景だった。
「ひ、引き金を……! 個性を止めろ……!!」
「化け物……! 死を撒き散らす、悪魔め……!!」
誰かの絶叫が聞こえる。それは、かつて彼女を研究対象として、恐るべき実験体にしていた大人たちの声だった。
彼らの身体は、ある者は細胞を強引に終わらせられ、またある者は、生命の終わりに直接干渉され、塵のように朽ち果てていく。それは、生を司るジキルではなく、完全に死を司る『ハイド』の側面が、世界のすべてを拒絶するように吹き荒れた結果だった。
画面が切り替わるように、祈の視線が自分の『手』へと向いた。
その白く美しい手は、真っ赤な血に塗れていた。
ジキルとハイド。生と死を内包する、あまりにも肥大化した二つの側面。
(……ああ、これは――)
夢の中の祈は、ただ呆然と、自分の手によって屠られていく人々を見つめていた。
当時の公安や研究者たちは、この事件を「過酷な実験に耐えかねた個性の暴走」「自衛本能による、不可抗力の事故」として処理した。首輪を嵌め、出力を強制的に抑え込めば、彼女は再び「無害な聖女」として扱えるのだと、そう結論づけた。
けれど、夢の中の生々しい記憶は、祈の心に致命的な疑念を突きつける。
――本当に、個性の暴走だったのだろうか?
――ジキルとハイドが、未熟な私を守るために、勝手に荒れ狂っただけなのだろうか?
違う。
あの時、研究者たちの命の灯火を冷酷に吹き消し、すべてを「終わらせた」瞬間。
祈の心の奥底には、確かに、明確な『意志』があったのではないか。
これ以上、痛い思いをしたくない。
これ以上、身代わりにされるだけの玩具のように扱われたくない。
この目の前にいる醜悪な人間たちを、一人残らず、私の『ハイド』によって終わらせてしまいたい。
そう願ったのは、他の誰でもない、自分自身だったのではないか――。
「……っ!」
激しい耳鳴りと共に、祈は跳ね起きるように目を覚ました。
ハッと息を荒くし、自分の胸元を押さえる。額からは冷や汗が流れ、乱れた呼吸に合わせて不規則に揺れる。
「は…っ…はぁ…」
病室の窓の外は、まだ深い夜の闇に包まれていた。テレビの電源は切れており、昼間の賑やかな子供たちの声も、壊理の愛らしい微笑みも、ここにはない。あるのは、ベッド脇の機械が刻む、規則正しい電子音だけだ。
祈は、震える手で自分の首元に触れた。鈍い光を放つ、公安の首輪。
ナイトアイやオールマイト、ヒーローたちは、彼女を「理不尽に囚われた被害者」として救い出そうとしてくれている。この首輪を外せば、自由になれると信じて。
「……自由、ですか」
祈はぽつりと、夜の静寂に言葉を落とした。
その声は、いつもの慈愛に満ちたトーンとは異なり、酷く冷え切っていた。首輪を外せば自由になれる。それは、普通の人間であれば当然の権利だ。けれど、神代祈という存在にとっては、そんな簡単な話ではない。
この首輪は、公安が彼女を縛るための『鳥籠』であると同時に。
彼女の内側に潜む、自らの意志で他者を虐殺しかねない『怪物』を、辛うじて押し留めておくための『命綱』でもあったのだ。
もし、首輪を外してしまったら。
もし、ジキルによる修復が追いつかないほどの負荷がかかり、意識の底からハイドが完全に表面化してしまったら。
私は、今度こそ自分の意志で、あの優しい雄英の子供たちを、私を心配してくれる八木先生や啓悟君を、あの小さな壊理ちゃんを――この手で終わらせてしまうのではないか。
「……私は、やっぱり」
誰かを救う人間にはなれない。
それどころか、ただの優しい人形にすら、なりきれない。むしろ―――
祈は膝を抱え、枕元に置かれた壊理の絵を、暗闇の中でじっと見つめ続けた。
首元の金属の冷たさだけが、彼女が辛うじて『無害な聖女』でいられることを証明するように、夜の闇の中で静かに自己主張を続けていた。