翌日の午後、祈は病室のベッドの上に静かに腰掛けていた。
昨夜見た、あの凄惨な『神の秒針事件』の悪夢――燃え盛る炎、黒い光、血に塗れた自分の手、そしてあれが暴走ではなく自らの明確な殺意であったかもしれないという底なしの疑念。それらが脳裏に焼き付き、昨夜はほとんど眠ることができなかった。
それでも朝になれば、いつも通りに洗面台で顔を洗い、銀髪を丁寧に整え、誰が病室を訪ねてきても完璧な「物腰柔らかな聖女」として、笑顔で迎えられるように。
ひんやりとした、首元の黒い首輪。
指先でその冷たい金属にそっと触れてから、祈は諦観を孕んだ手を膝の上に戻した。
コンコン、と小気味よい音で病室の扉が鳴る。
「はい、どうぞ」
「失礼します。神代さん、こんにちは」
入ってきたのは、轟冬美だった。その手には、可愛らしい小さな紙袋が提げられている。
「冬美様。いらっしゃいませ」
「ふふ、病院に来るのに『いらっしゃいませ』って言われるの、なんだか不思議ね」
「すみません、つい癖で」
「謝らなくていいのよ」
冬美は親しみやすい笑みを浮かべながらパイプ椅子を引いた。
「今日はお見舞い。お仕事の話も、公安の難しい話も一切なしにしましょう?」
「はい」
「これ、差し入れ。病院の看護師さんに確認して、今の神代さんでも食べても大丈夫なものを選んできたの」
紙袋から取り出されたのは、丁寧に個包装された焼き菓子と、そして可憐な淡い色の小さな花束だった。
「まあ……綺麗ですね」
「病室に飾れたらと思って。お邪魔だったら持って帰るけれど」
「いいえ。とっても嬉しいです。ありがとうございます」
祈は花束を両手で受け取った。白一色で無機質だった病室の景色に、淡い色彩がよく映えていた。
「……なんだか、春みたいですね」
「そうでしょう? お店で見かけたとき、神代さんの優しい雰囲気にすごく似合いそうだなって思ったのよ」
「私に、ですか?」
「ええ」
冬美は、祈の顔をじっと見つめた。
祈の笑顔は、いつも通り穏やかだった。けれど、その双眸の奥には、どこか無理をして何かを押し殺しているような、深い疲弊の影が滲んでいるように見えた。
「……神代さん」
「はい?」
「ちゃんと、眠れてる?」
冬美の不意の問いかけに、祈の指が花束の包装紙をそっと撫でた。昨夜のあの、内臓が裏返るような悪夢の残痛が、一瞬だけ全身を駆け巡る。
「……はい。昨夜は少し、途中で目が覚めてしまいましたけれど」
嘘ではない。けれど、本当のことをすべて話したわけでもなかった。
冬美は、それ以上は無理に詮索しようとはしなかった。
「そっか」
そう言って、優しく微笑みながら紙袋を片付ける。
「じゃあ今日は、少しでも神代さんの気分転換になるように、私のおしゃべりに付き合ってもらおうかな!」
「冬美さんのお話ですか?」
「そう。最近、家であったちょっとしたこととか。……あとは、焦凍のこととかね」
「焦凍君の?」
「そうなの。あの子ったら、この前ね……」
冬美は、不器用ながらも雄英高校で懸命に歩みを進めている弟の、少し可笑しくて温かい近況を話し始めた。
祈は静かに相槌を打ち、ときどき楽しそうに声を立てて小さく笑った。
冬美は、祈を無理に元気づけようとはしなかった。ただ、外の世界にある「いつものお話」をした。いつものように笑えることを。いつものように誰かを心配することを。
この閉ざされた病室の中に、当たり前の日常の光を、少しだけお裾分けするように。
しばらく楽しい時間を過ごした後、冬美はふと、祈の首元に視線を落とした。
黒い首輪。
以前から彼女が着けているのを知っていた、公安の抑制装置。けれど、死穢八斎會の凄惨な現場を経た今となっては、それは以前とは全く違って見えた。
「……それ、ずっと着けているのよね」
祈は、言われて自分の首輪に指先を触れさせた。
「はい」
「苦しく、ない?」
「大丈夫です。慣れていますから」
答えてから、祈は少しだけ目を伏せた。
――苦しくない、はずだった。
けれど、昨夜の悪夢が、再び生々しく頭をよぎる。燃え盛る研究所。黒い光。自分の血塗られた手。
――本当に、私が、私の意志で、あのみんなを燃やし尽くしたのでしょうか。
「……神代さん?」
冬美の心配そうな声に、祈はハッと我に返って顔を上げた。
「すみません。少し、考え事をしてしまいました」
「ううん、大丈夫」
冬美は立ち上がり、祈の肩を優しく叩くようにして、柔らかく笑った。
「話したくなったら、いつでも話してね。今じゃなくても、何年後でもいいから」
「……はい」
その温かい言葉に、祈は張り詰めていた肩の力を、ほんの少しだけ抜くことができたのだった。
冬美が優しい余韻を残して帰ってから、しばらくして。
再び、病室の扉が勢いよくノックされた。
「はーい! 神代さん、お邪魔しまーす!」
弾けるような明るい声とともに入ってきたのは、ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツのラグドールだった。
「ラグドール様」
「こんにちは! 具合はどう? 顔色は……うーん、まだ本調子じゃないかな?」
ラグドールはベッドのすぐそばまでタタタッと駆け寄ると、祈の顔を爛々と覗き込んだ。
「でも、ちゃんと起きてる! よかったぁ!」
「ご心配をおかけして、申し訳ありません」
「はい、謝罪は一回まで!」
「……え?」
「お見舞いに来た人に、ずっと謝られたら悲しくなっちゃうでしょ?」
ラグドールは、ぷくっと頬を膨らませて腰に手を当てて言った。
「今日は楽しく過ごす日! ね?」
祈は驚いて目を瞬かせたあと、その純粋な勢いに負けて、くすりと笑った。
「……はい。ありがとうございます」
「よーし!」
ラグドールは持ってきた大きなバッグをガサゴソと開けた。中から出てきたのは、色とりどりのカードと、小さな手帳だった。
「じゃーん! これ、何だと思う?」
「……カード、でしょうか?」
「正解! でも、ただのカードじゃないの!」
ラグドールは得意げに胸を張った。
「神代さんの個性のこと、私なりに色々考えてみたの。もちろん、公安みたいに勝手に分析したり、無理に調べたりするつもりは一切ないよ! 今日はあくまで、遊び!」
「遊び……ですか?」
「そう、ゲームみたいなもの! たとえばね、今の気分を色で表すなら何色かな、とか。今日食べたいものは何かな、とか」
彼女はベッドのテーブルの上に、カラフルなカードを一枚ずつ丁寧に並べていく。
「ほら、こういうの。答えたくないものは答えなくていいし、途中でやめてもいい。全部、神代さんが決めていいんだよ」
祈は、綺麗に並べられたカードを見つめた。赤、青、黄色、緑。それぞれに、短い質問の言葉が書かれている。
「……面白そうですね」
「でしょ?」
ラグドールは嬉しそうにパッと表情を輝かせた。
「じゃあ、最初の質問!」
彼女が楽しそうに差し出した一枚のカード。そこには、こう書かれていた。
『今、いちばん欲しいものは?』
祈は、そのカードの文字をじっと見つめた。
少しだけ、考える。温かい緑茶。静かな読書の時間。あるいは、早くこの病院を退院すること。
今までの彼女なら、他人が望む「模範解答」を瞬時に導き出していただろう。けれど、ラグドールの真っ直ぐな瞳に見つめられ、彼女の脳裏に浮かんだのは、全く別の言葉だった。
「……安心、でしょうか」
口にしてから、祈自身が驚いたように目を瞬かせた。
自分がそんな、己のための「我が儘」のような言葉を口にするなんて、思いもしなかった。ラグドールは、すぐには何も言わなかった。からかうことも、驚くこともしない。ただ、ゆっくりと深々と頷く。
「そっか」
それだけだった。
「じゃあ今日は、世界でいちばん安心できる時間にしよう!」
「……それは、どうすればいいのでしょう?」
「うーん……」
ラグドールは人差し指を顎に当てて少し考え、それから満面の笑みで言った。
「とりあえず、私がここにいる!」
あまりにも単純で、けれどこれ以上ないほど力強い答えだった。
祈は張り詰めていた心の堤防が解けるのを感じ、思わず声を上げて笑った。
「ふふ……本当に、ありがとうございます」
「どういたしまして!」
ラグドールは椅子に座り、カードを丁寧に片付け始めた。
「ねえ、神代さん。私ね、オール・フォー・ワンに『サーチ』を奪われて失ったとき、本当に、すごく悲しかったんだ」
祈は、静かに彼女の横顔を見つめた。
「自分の個性がなくなったこともそうだけど……今まで当たり前にできていたことが、急にできなくなるって、思っていたよりずっと怖かったの」
ラグドールは、手帳の端を爪で静かになぞった。あの林間学校で、祈が彼女の個性の『種』を初期化して保存してくれたからこそ、今の彼女は前を向けている。その恩人である祈を、今度は自分が救いたかった。
「でも、今はね。前とは違う形でも、できることがあるって思えるようになったの。……だからね、神代さんも、今すぐ何かを白黒決めなくていいと思うんだ」
祈の視線が、首元の黒い首輪へと自然に落ちる。
「私も署名したよ。公安の人から外せるかもしれないって言われて、怖くなっちゃった?」
祈は、答えなかった。いや、答えられなかった。
ラグドールは、無理にその顔を覗き込もうとはしなかった。
「怖いなら、怖いままでいいんじゃないかな」
それは、太陽のように明るい彼女からは想像もつかないほど、静かで、優しい声だった。
「外すことを前向きに考えるのも、今はまだ怖いからやめておくことも、全部、神代さんが決めていいんだよ。誰のためでもなく、神代さんがね」
「……私が、決める」
「うん。神代さんが、神代さんのために」
祈は、無意識に首輪に触れていた手を、ゆっくりと下ろした。
昨夜見た夢の残滓は、まだ鮮明に脳裏に残っている。炎の中にいた人々。黒い光。自分の手。
本当に自分がやったのかどうか、今の壊れた精神では分からない。けれど、分からないからこそ、底知れず怖かった。
「……もし、これを取り外して、また誰かを傷つけてしまったら」
ぽつりと、掠れた言葉が祈の唇から落ちた。
ラグドールは、真っ直ぐに祈の顔を見た。
「……うん」
「私の個性が、私の知らないところでまた暴走して……皆さんを、傷つけてしまったら……っ」
言い終えた瞬間、祈は自分の口元を両手で押さえた。
「……すみません。お見舞いに来ていただいたのに、こんな、変なことを言ってしまいました。忘れてください」
「変じゃないよ」
ラグドールは、遮るように、はっきりとした口調で言った。
「怖いんだよね。もの凄く」
祈は、言葉を失って目を伏せた。一滴の涙がシーツに落ちて染みを作る。
「……はい。怖い、です」
「そっか」
ラグドールは、そっと手を伸ばしかけて、途中で一度止めた。触れてもいいか、祈の心の境界線に尋ねるように。
祈が小さく頷くと、ラグドールはその白く冷え切った手を、自らの両手で温めるように優しく握りしめた。
「神代さん。『怖い』って、ちゃんと言ってくれて、本当にありがとう」
「……どうして、お礼を言うのですか?」
「だって、今までの神代さんだったら、どんなに怖くても『大丈夫です』って笑って、一人で全部隠しちゃったかもしれないでしょ?」
祈は、何も言えなかった。その通りだったからだ。
「怖いって思ってる本当の気持ちを、誰かに話せた。それってね、神代さんにとっては、ちゃんともの凄く大切な一歩なんだよ」
ラグドールは、祈の手を握ったまま、ひまわりのように笑った。
「それに、個性の安全性については、これからじっくり専門家や周りのみんなと一緒に考えていけばいいんだよ。夢を見たからって、それが本当に現実になる事実とは限らないんだから!」
「……はい」
「今夜もまた怖くなったら、すぐに誰かに話してね。看護師さんでも、主治医の先生でも、私たちプッシーキャッツでも、みんないるんだから!」
祈は、心の底から救われたような心地で、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます、ラグドール様」
「どういたしまして!」
ラグドールは、いつもの爆発的な明るい笑顔に戻り、カードをシャッフルした。
「じゃあ、次のカード!」
差し出されたカードには、こう書かれていた。
『今日、少しだけ嬉しかったことは?』
祈は、そのカードを両手で受け取った。少しだけ考えて。優しく、考えて。やがて、ヴェールの下で、今日一番の自然な微笑みを浮かべる。
「……冬美さんが、とても綺麗な春のお花を持ってきてくださいました」
「おお! いいねいいね!」
「それから……今、ラグドール様が私の隣に来てくださったことです」
「わー! やったぁ! 嬉しい!」
ラグドールは、満面の笑みを浮かべてバンザイをした。
祈も、釣られるようにして自然に笑っていた。その笑顔は、長年の心身の摩耗もあってまだ少しだけ疲れていたけれど。けれど、昨夜のように、一人で孤独な恐怖を抱え込んでいる顔では決してなかった。
首輪は、まだそこにある。過去の悍ましい記憶も、消えてはいない。
それでも。
今日の病室には、冬美がくれた花があった。ラグドールがくれた色とりどりのカードがあった。そして、祈の手を温かく握ってくれる人がいた。
祈は、そのカードを一枚、手帳の間にそっと挟んだ。
『今、いちばん欲しいものは?』
その答えを、二度と忘れないように。
今度は、自分自身の本当の願いを、なかったことにしないために。