「……首輪を、外そうと思います」
翌日。
病室を再び訪れていた公安の目良は、手元の膨大な書類から、驚いたように顔を上げた。いつも眠そうに細められている彼の目が、僅かに見開かれる。
「首輪を、ですか? 神代さん、あなた自身の口からそうおっしゃるなんて……」
「はい」
祈は、首元の黒い首輪にそっと触れた。
「ずっと、私にはこれが必要なものだと思っていました。私の『ジキルとハイド』はあまりにも危険ですから……誰かをまた傷つけてしまわないように、この籠の中に着けていなければいけないのだと、それが私の義務なのだと」
「……ええ、上層部もそう考えてあなたを管理してきました」
「でも、ラグドール様とお話しして、少し考え直したのです」
祈は、窓の外の青い空へと目を向けた。
「私はただ、過去の夢や個性が『怖い』からという理由だけで、思考を放棄してこの首輪を着けていたのではないか、と。本当に必要だから着けているのか、それとも、向き合うことから逃げるために着けているのか。私自身、きちんと考えたことがなかったのだと思います」
目良は、持っていたペンを止め、黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
「……もちろん、個性の安全性を確認していただく必要があることは重々理解しています。私の危険性が完全に消えたわけではありませんから」
「ええ。取り外すとなれば、引き続き厳重な検証と段階的な経過観察が必要です」
「はい。ですから、公安の皆様が必要とされる検査や手続きには、どのようなことでも全力で協力します」
祈は、首輪から静かに手を離した。
「ただ……これからは、誰かに決められた役割を演じるのではなく、私自身の意思で、自分の身体と個性について決めていきたいんです」
目良は、しばらくの間、祈のその光の宿り始めた青い瞳を見つめていた。
やがて、彼は肩の力を抜き、深く一度だけ静かに頷く。
「分かりました。あなた自身がそう望むのであれば、正式な取り外しへの手続きを進めましょう。取り外しにあたっては、装置の内部構造と安全性を再確認し、特殊な医療スタッフの立ち会いのもとで行うことになります」
「ありがとうございます、目良様」
「それと、神代さん。……あなたから、もう一つ別の希望があると伺っていますが」
目良が書類をめくると、祈は少しだけ、少女のように表情を明るくした。
「……文化祭に、行きたいんです」
「文化祭? 雄英の、ですか?」
「はい。雄英高校の文化祭です」
祈の脳裏に、一生懸命に前を向いて歩いている生徒たちの顔が浮かぶ。彼らを支えるために準備に追われているだろう先生方の姿。賑やかな校内の喧騒。そこには、きっとたくさんの、温かい笑い声が響いているはずだ。
「皆さんが一生懸命、あの日々の後に準備していらっしゃると聞きました。私も……誰かのお手伝いとしてではなく、ただの一人の観客として、少しだけでもその場に参加できたら嬉しいです」
目良は、手にしていた書類をパタンと閉じた。
「現在のあなたの体調と主治医の判断、それに安全面での最低限の調整が必要ですが……。あなたをそこまで動かした願いだ、参加できるよう、公安として学校側と前向きに相談してみますよ」
「本当ですか?」
「はい。ただし、何度も言いますが無理は禁物ですからね。倒れられたら私の書類がまた増えます」
「……ふふ。はい、気をつけます」
祈は、心から嬉しそうに笑った。
誰かに必要とされたから動いたのではない。神代祈という一人の人間が、自らの意志で「行きたい」と思ったから。その小さな願いを、自分の言葉で口にできたことが、何よりも誇らしく、嬉しかった。
文化祭に行ける―――
その知らせを聞いた壊理は、大きな赤みを帯びた瞳をこれ以上ないほど輝かせた。
「ほんとう!? 祈さん、文化祭に来られるの!?」
「ええ、まだこれからの体調次第ですけれど……目良様方が調整してくださるそうです」
「それでも嬉しい……!」
壊理は、ベッドのそばまでタタッと駆け寄った。
「わたし、祈さんに見てほしいものがいっぱいあるの! A組のみんなといっぱいいっぱい練習してるの!」
「まあ。一体どんなことでしょう? 教えていただけますか?」
「ううん、ひみつ!」
そう言って、壊理は小さな人差し指を口元に当てて、本当に楽しそうに笑った。
「当日まで、祈さんには絶対に内緒にしておくの。だから……だから、体調をよくして、ちゃんと来てね!」
「ふふ。はい。約束します、楽しみにしていますね」
壊理は、祈の手を自身の小さな両手で包み込んだ。
「……絶対の、約束だよ?」
「はい。絶対の約束です、壊理ちゃん」
その微笑ましいやり取りを、少し離れた病室の壁際で聞いていた八木俊典も、目元を細めて安堵したように微笑んでいた。
「よかったね」
「八木先生」
「君が公安の管理下を離れて、自分から『行きたい』と言ってくれたことが、私は何よりも嬉しいんだ」
祈は、不思議そうに首を傾げた。
「文化祭に行きたいと思うのは、そんなに特別なことでしょうか?」
「私にとっては、そして君を知るすべての人にとっては、特別なことさ」
八木は胸に手を当てて穏やかに続けた。
「君はいつだって、誰かのために何ができるか、誰の身代わりになれるかばかりを先に考えていただろう? 君自身の『心』をずっと置き去りにして。……けれど今回は、君自身が行きたいと思ったんだ。私はね、そういう君の、一人の人間としてのささやかな願いを、これからは一番大切にしてほしいんだよ」
祈は、ゆっくりと目を瞬かせた。八木の言葉が、乾いた心に染み渡っていく。
それから、彼女は小さく、けれど確かな意志を込めて笑う。
「……はい。八木先生、私、文化祭に行きたいです」
「うん」
「皆さんの楽しそうな姿を、この目で見てみたいんです」
「ああ、きっとみんな、君の姿を見て喜ぶだろうね」
八木はそう言って笑う。
その隣で、壊理も嬉しそうに何度も何度も頷いている。
「絶対、楽しいよ!」
二人の心からの笑顔を見て、祈の胸の奥が、かつてないほどの温かさで満たされていく。
文化祭に行く。ただ、それだけのこと。
けれど、誰かに命令されたからではなく、自分で決めたじぶんのための予定が、これから先に待っている。それが、彼女にとっては少しだけ誇らしかった。
その日の午後。
再び、病室の扉が厳かに行儀よくノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、死穢八斎會編で共に戦い、祈の凄惨な身代わりを目の当たりにしたプロヒーロー――サー・ナイトアイだった。
「失礼する」
「ナイトアイ様!」
祈は、嬉しそうに顔を上げた。
「お久しぶりです。お怪我の具合はよろしいのですか? お忙しいのに、来てくださって」
「私の怪我など、君の負った負荷に比べれば大したことはない。あの時は助かった…本当に、ありがとう。君がいなければ、私は死んでいたかもしれない」
ナイトアイは持参した手提げ袋をテーブルに置き、祈の顔色をじっと確かめた。
「体調は?」
「随分よくなりました。目良様のおかげで、もう少しで退院の許可が出るそうです」
「そうか。それは何よりだ」
彼は長身を折り曲げるようにして、椅子に腰掛けた。鋭い眼鏡の奥の瞳が、祈の首元を捉える。
「……ところで。目良から聞いたが、首輪を外すことにしたそうだな」
祈は少し驚いた。
「もう、ご存じなのですか?」
「当然だ。公安へあの意見書を提出した張本人の一人だからね。……だが、君自身がそれを望んだと聞いて、少し驚いている。……不安は、ないのか?」
祈は、少しだけ考えた。
昨夜の悪夢の炎が、再び脳裏をよぎる。燃える建物。黒い光。助けられなかった過去の人々。自分の血に塗れた両手。
――私が、私の意志で、あのみんなを終わらせてしまったのだろうか。
「……怖くない、と言ったら嘘になります」
ナイトアイは、彼女の言葉を遮らずに黙って聞いていた。
「また、私の知らないところで、私の個性が何かを傷つけてしまったらどうしようと思います。もしあの夢が本当で、私の本質が恐ろしい怪物だったら……と」
祈は、膝の上で指をぎゅっと組んだ。
「でも、怖いからという理由だけで、ずっと何も決めずに、首輪に守られているフリをするのも違う気がしたんです。それこそ、自分の個性から目を背けているだけだと気付きました」
「……なるほど」
「私は、首輪を外したらすべてが安全になると思っているわけではありません。ですが、外さなければ安全だとも、言い切れないと思います」
ナイトアイは、わずかに目を細め、彼女の覚悟を肯定するように頷いた。
「装置による強制的な抑圧があることと、君が自分自身の力を正しく理解し、制御できるようになることは、全く別の問題だからな」
「はい」
「では、外した後も……君は、その底知れない『ジキルとハイド』という個性と、逃げずに向き合い続けるつもりか?」
「……はい。これからも、私の意思で、学んでいきたいです」
ヴェール越しではあったが、祈はまっすぐに、彼の瞳を見据えて答えた。
ナイトアイは少しの間、彼女のその揺るぎない眼差しを見つめていた。そして、静かに、満足そうに頷いた。
「君が自分で考え、自分で決めたのなら、その意思は全力で尊重されるべきだろう」
「……ありがとうございます、ナイトアイ様」
「ただし。無理をして、これまでのように一人で抱え込むことは絶対に認めない」
「……え?」
「個性の制御も、今後の身体の管理も、君一人で完結させる必要はどこにもない。……必要なときには、迷わず周囲の人間を頼れ。我々を頼りなさい」
祈は、あまりにも真っ直ぐな彼の言葉に、困ったように眉を下げて微笑んだ。
「……皆さん、本当に同じことをおっしゃいますね」
「それだけ、君が人に頼るのが下手糞だということだ。自覚をもちなさい」
あまりにも即答されて、祈は思わず声を立てて笑ってしまった。
「ふふ……本当に、そうかもしれませんね。私、これでも長生きしているのですが」
ナイトアイは、自身の眼鏡の位置を小さく直すと、持ってきた袋を開けた。中には、高級な個包装の焼き菓子が入っていた。
「病院の管理栄養士に、今の君が食べられるものかどうか、事前に確認してから持ってきた。問題がなければ、後でのんびり食べるといい」
「ありがとうございます。皆さん、私の好きなお菓子を持ってきてくださるので、病室がどんどん賑やかになってきました」
「それは結構なことだ。君はもっと、甘やかされるべきだ」
ナイトアイは一度厳格に頷いてから、ふと思い出したように尋ねた。
「文化祭にも行くそうだな」
「はい」
祈の返事は、先ほどまでよりも少しだけ弾んでいた。
「壊理ちゃんが、とても楽しみにしてくださっているんです。私に内緒の出し物があるそうで……」
「そうか。彼女も、君が来てくれれば心底喜ぶだろう」
「私も、本当に楽しみなんです。皆さんが一生懸命準備してくださったものを見られるのが……自分の役割のためではなく、ただ、その場にいたいんです」
ナイトアイは、その彼女の劇的な変化を、静かに見つめていた。
以前の祈なら、きっとこう言って、誰かのための身代わりに成ろうとしていただろう。
『自分にできることがあれば、何かお手伝いします。誰かのお役に立てるのでしたら』
けれど今、彼女はただ純粋に「楽しみだ」と言っている。誰かのために何かをするのではなく、自分がその場にいたいから、と。
その喜ばしい変化を、ナイトアイはあえて口には出さなかった。ただ、もう一度眼鏡の位置を直し、静かに言った。
「なら、当日までにしっかりと体調を整えておくことだ。君が途中で倒れてしまっては、文化祭を楽しむどころではないからな」
「はい。気をつけます」
「約束だぞ」
「……はい。約束します」
祈は、今日一番の温かい微笑みを浮かべた。
ナイトアイが帰ったあと。
病室に残された祈は、窓辺に置かれた、冬美のくれた美しい花を静かに見つめていた。
首輪を外すこと。文化祭に行くこと。どちらも、まだ心のどこかには、拭いきれない不安と恐怖が残っている。昨夜見た、あの血塗られた夢の恐怖も、忘れたわけではない。
それでも。
明日になれば、また別の誰かが、自分に会いに来てくれるかもしれない。文化祭の日には、壊理ちゃんが最高の笑顔で迎えてくれるだろう。雄英の生徒たちは、きっと眩しいほどの光の中で、賑やかに騒ぐに違いない。
祈は、もう一度自分の首元に触れた。冷たい金属の感触。
いつか、この檻が完全になくなったとき。自分は一体、何を思うのだろう。やっぱり怖いだろうか。それとも、少しだけ「自由だ」と思えるだろうか。
まだ、その答えは分からない。
けれど、今度はその答えを、公安にも、誰にも決めてもらわなくてもいい。神代祈という一人の人間として、自分で歩んで、見つければいいのだ。
「……楽しみですね」
祈は、窓の外の広大な空へ向けて、誰にともなく小さく呟いた。
その言葉は、間近に迫った文化祭のことだけを指しているのではなかった。これから始まる、自分自身の本当の人生に対する、確かな一歩の響きだった。