神様にはなれない私たち   作:琴ノ葉しずく

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第62話 光降る学園

 

 退院を翌日に控えた、静かな冬の夕暮れ。

 祈の病室に、一人の男が訪れていた。プロヒーローの最高峰であり、未だ衰えぬ圧倒的な質量と強靭な肉体を誇る元平和の象徴――オールマイト、八木俊典である。

 

 彼は壁際のパイプ椅子に腰掛け、祈の首元にある黒く鈍い光を放つ金属製の『制御装置』を静かに見つめていた。

 

「――そうか。自分で、これを取り外すと決めたんだね」

 

 八木の朗々とした、けれどどこか切なさを孕んだ声が病室の空気に溶ける。

 

「はい、八木先生」

 

 祈はベッドの上に腰掛けたまま、穏やかに微笑んだ。

 

「ずっと、私には必要な籠なのだと思っていました。私の持つ『ハイド』の側面は、あまりにも危険ですから……誰かを傷つけないよう、義務として嵌めていなければいけないのだと。でも、ラグドールさんとお話しして、気付かされたのです。私はただ、自分の個性と向き合う恐怖から逃げるために、この首輪に縋っていただけなのではないか、と」

 

 祈は膝の上でそっと指を組んだ。

 

「これからは、自分の意思で、自分の身体と力に向き合っていきたいのです。危険がないと証明できたわけではありませんから、必要な検査や公安の手続きにはすべて協力します。ただ……自分の行く末を、誰かに委ねるだけの『人形』でいることは、もうやめようと思いまして」

 

 八木は、その言葉を黙って聞いていた。

 

 かつての彼女なら、どれほど理不尽な拘束であっても、「皆様のご迷惑にならないのでしたら」と、穏やかな微笑みの裏で自分という存在を綺麗に消し去って受け入れていただろう。誰かの身代わりとして消費されることだけを自認していた彼女が、今、自分の意志で、自分のための選択を口にしている。

 

「……よかった」

 

 八木の大きく厚い胸の奥から漏れたのは、深い安堵の吐息だった。

 かつて彼が我武者羅に人を救い続けていた頃から変わらず、自分を全肯定してくれた大切な女性。神の秒針事件のときも、六年前の自身の入院のときも、彼女はいつも自分を置き去りにして、傷つくことだけを当然のように受け入れていた。

 

「君がそうやって、君自身の意思を言葉にしてくれたことが、私は何よりも嬉しいんだよ、神代先生。……でもね、君を縛る籠が外されることを、君自身が恐れなくていい。君がどんな力を内包していようとも、それと向き合う君を支えるために、我々ヒーローがいる。この身体がある限り、君の命綱の、その太い一本にくらいはなれるはずさ」

 

「八木先生……」

「だから、怖がらないでいい。君が君として一歩を踏み出すことを、私は全力で肯定するよ」

 

 その言葉は、一人の元プロヒーローとしての、そして彼女の慈愛に救われてきた一人の人間としての、純粋で揺るぎない「誓い」だった。

 昨夜見た、あの血塗られた虐殺の悪夢。自分がすべてを終わらせてしまったのではないかという悍ましい底冷えが、彼の全肯定の言葉によって、ほんの少しだけ和らぐのを感じていた。

 

「……ありがとうございます、八木先生。私、明日……文化祭に、行きますね」

「ああ。みんな、君の来るのを心待ちにしているよ。素晴らしい一日にしよう」

 

 八木は大きな背中を揺らして優しく微笑み返し、ゆっくりと病室を後にした。

 

 

 

 

     

 

 

 

 八木が去り、夜の帳が完全に病室を包み込んだ頃。

 祈はベッドの脇に置かれた、公安から支給されている連絡用の端末を、じっと見つめていた。

 ふと、脳裏に蘇るのは、かつて自分の隣で必死に背伸びをし、ぎこちない敬語を使いながら焼き菓子を差し出してくれた、十六歳の金髪の少年の姿。外の世界の光を知らない鳥籠の中で、唯一自分の名前を呼んでくれた、愛おしい子供の記憶。

 そして、数日前にテレビの画面越しに見た、大勢のファンに囲まれて完璧なトップヒーローの笑顔を浮かべていた、『ホークス』という大人の男の姿だった。

 

(……首輪を外すこと、お伝えしておいた方が良いかしら)

 

 彼もまた、ナイトアイたちと共に、自分の首輪を外すために裏で動いてくれていた一人だと、目良から聞いている。もしかしたら、既に知っているかもしれないが。自分のために翼を焦がしてくれたかつての少年に、自分の口から、この決意を伝えたかった。

 

 祈は細い指先で画面を操作し、彼の番号を呼び出す。

 耳元に端末を当てると、規則正しい電子音が静かな病室に響き渡った。

 

 

 ――プルルル、プルルル、プルルル。

 

 

 静かなコール音が、何度も、何度も繰り返される。

 だが、どれだけ待っても、画面の向こうの彼が、その通信に応じる気配はなかった。

 

『――ただいま電話に出ることができません。しばらく経ってからお掛け直しいただくか……』

 

 無機質な機械の音声が流れた瞬間、祈はそっと通話を切った。

 

「……お忙しいのですね、啓悟君」

 

 ぽつりと、夜の静寂に彼の本名を零す。

 

 今や彼は、九州だけでなく日本全国を股にかける、誰よりも速いトップヒーローだ。分刻みのスケジュールに追われ、公安の闇と戦い、平和のためにその剛翼をすり減らしている。自分のように、一日中病室のベッドの上で天井を眺めている人間とは、生きている時間の密度が違うのだ。

 繋がらなかった通話画面を見つめながら、祈はほんの少しだけ、胸の奥がチリリと痛むような感覚を覚えた。

 それは、寂しさ、という名前の感情だった。

 かつては、手を伸ばせばいつでも届く場所にいて、頭を撫でてあげれば「嫌じゃ、ないです」と耳を赤くしていた少年が、今はもう、自分の遠く及ばない眩しい光の向こう側へ行ってしまったかのような。

 

 けれど、祈はすぐにその寂しさを首を振って打ち消した。

 

「いいえ……立派になられたのですもの。喜ばしいことです」

 

 誰かの身代わりではなく、一人の人間として彼らの未来を応援したい。ラグドールと約束した通り、自分の願いをなかったことにしないために。

 祈は端末をテーブルに戻し、枕元に置かれた壊理の絵を優しく撫でてから、静かに目を閉じた。今夜は、あの悍ましい秒針の音は、不思議と聞こえてこなかった。

 

 

 

 

     

 

 翌朝。

 ついに、祈の退院の日が訪れた。

 冬の高気圧がもたらした青空からは、透き通った、暖かな陽光が地上へと降り注いでいる。

 祈は長年親しんできた、修道服に身を包み、顔の上半分を覆う白いレースのヴェールを丁寧に整えた。首元には、まだ黒い首輪が嵌められている。本格的な取り外しは、文化祭の後に公安の専門チームと医療スタッフの立ち会いのもとで行われる予定だ。

 けれど、その重みを感じる祈の心は、数日前とは全く違っていた。これは自分を閉じ込める檻ではなく、もうすぐ手放す、過去の残滓なのだと割り切ることができていた。

 

「神代さん、お迎えの車両が準備できました。……いやぁ、学校側との安全面の調整やら、公安の警備配置やらで、私は昨夜も一睡もできませんでしたよ……。ですが、あなたが自分の意志で『外に行きたい』なんておっしゃるものですから、上層部も私も、変な汗を流しながら書類を通したんですからね。しっかり楽しんできてください」

 

 病室に現れた目良は、相変わらず目の下に凄まじい隈を作りながらも、どこか安堵したような皮肉を口にしていた。

 

「ふふ、目良様、本当にありがとうございます。皆様のご尽力、心から感謝いたしますね」

「はいはい、お礼は結構ですから、絶対に無理をして倒れないでくださいよ。私の睡眠時間が完全にゼロになりますから」

 

 目良に見送られながら、祈は雄英高校が手配した遮光ガラスの特製車両へと乗り込んだ。

 車窓から流れる景色を眺めている間も、胸の高鳴りが止まらない。誰かに必要とされたから行くのではない。自分が、あの子供たちの笑顔を見たいから、そこへ行くのだ。

 

 

 

 

 

     

 

 車両が雄英高校の敷地内へと滑り込んだ瞬間、閉ざされた車内まで、外の圧倒的な「熱気」が伝わってきた。

 

 ――ドンドン、と遠くから響く楽器の重低音。

 あちらクラスから聞こえる、地鳴りのような生徒たちの笑い声や歓声。

 校門の周りには色とりどりのアーチや看板が掲げられ、模擬店の香ばしい匂いが風に乗って漂ってくる。これまでの暗い事件や、ヴィラン連合の脅威といった重苦しい空気を一瞬で吹き飛ばすかのような、圧倒的な光の空間がそこには広がっていた。

 

「――お待ちしておりました、神代先生…いや、神代さん」

 

 車を降りた祈を迎えたのは、雄英高校の教師陣、そして大柄な体躯の八木俊典だった。

 

「八木先生。雄英高校の皆様……お邪魔いたしますね」

 

「素晴らしいタイミングだよ、神代さん。今ちょうど、1年A組のステージが始まるところなんだ。さあ、こちらへ」

 

 八木に案内され、祈は一般の観客席から少し離れた、壊理や相澤たちが待つ特別な観覧エリアへと足を運んだ。

 

「あ……! 祈さん……!!」

 

 白いフリルがあしらわれた可愛らしい私服を着た壊理が、祈の姿を見つけるなり、小さな妖精のようにパタパタと駆け寄ってきた。その隣には、いつも通り気怠げながらも、周囲への警戒を怠らない相澤消太が立っている。

 

「こんにちは、壊理ちゃん。約束通り、会いに来ましたよ」

 

 祈がそっと腰を落とし、両手を広げると、壊理は弾むような勢いでその胸へと飛び込んできた。小さな、体温の塊が祈の修道服をぎゅっと握りしめる。

 

「来てくれた……!えへへ、 本当に、来てくれたんだね!」

「ええ、約束ですから。壊理ちゃんの秘密の出し物、とても楽しみにしていたのですよ」

「うん! もうすぐ始まるの! A組のみんなが、すごいのを見せてくれるんだよ!」

 

 壊理は祈の手をしっかりと握り、ステージの方を指差した。

 その瞬間、体育館の照明が一斉に落とされ、次の刹那――。

 ドゴォン!! と、目の眩むような極彩色のライトと、爆発的なバンドサウンドが会場全体を震わせた。

 

 

「――いくぜ雄英高校!! 楽しんでいってくれ!!」

 

 

 ステージの上で、爆豪勝己が凄まじいドラムのビートを刻み、耳郎響香がソウルフルな歌声を響かせる。そして、緑谷出久をはじめとする生徒たちが、体育館を縦横無尽に駆け回りながら、眩いばかりのダンスを披露し始めた。

 青山優雅の放つレーザーがミラーボールに反射し、光の粒子が雨のように観客席へと降り注ぐ。

 

「わ……っ」

 

 祈は、レースのヴェール越しに、その圧倒的な光景を目に焼き付けていた。

 ステージの上で踊る子供たちの顔は、誰もが心の底から輝くような笑顔を浮かべていた。これまでの傷も、恐怖も、絶望も、すべてをこの瞬間のエネルギーに変えて、前を向いて笑っている。

 

「すごい……すごいよ、祈さん……っ!」

 

 隣で壊理が、生まれて初めて見る「本物の輝き」に、目をこれ以上ないほどに輝かせながら歓声をあげていた。その小さな身体が、音楽に合わせてぴょんぴょんと跳ねている。あの日、死穢八斎會の地下で、泣き叫びながら世界のすべてを拒絶していた小さな少女が、今、自分自身の足で立ち、他人のために笑っている。

 

(ああ……本当に、良かった……)

 

 祈の胸の奥底から、温かい、涙が出るほどの感動が込み上げてきた。

 他人の身代わりになることが自分の役割だと思っていた。けれど、今、祈の心にあるのは、そんな義務感ではなかった。

 

(私は、この子たちの笑顔が見たかった)

 

 初めて、自分の過去の苦難や、この個性の存在意義を、肯定できたような気がした。

 降り注ぐ光の粒子の中で、祈は壊理の手を優しく握り直し、心からの微笑みを浮かべた。

 首輪はまだ、そこにある。繋がらなかった、ホークスへの寂しさも消えてはいない。

 けれど、この眩しい日常の光の中に、神代祈という一人の人間として、確かに存在できている。その事実が、彼女の秒針を、新しく、静かに進め始めていた。

 

 

 

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