1年A組の圧倒的なステージが終わった後も、体育館には地鳴りのような歓声と拍手がしばらくの間、鳴り響いていた。
「すごかった……! すごかったね、祈さん、ミリオお兄ちゃん!」
興奮冷めやらぬ様子で、壊理が祈の手と、そしてもう一人――彼女の隣に立っていた大きな少年の手をぎゅっと握りしめて、ぴょんぴょんと跳ねていた。
通形ミリオ。雄英高校が誇るビッグ3の一人であり、あの地下の死闘で、壊理に心を砕いていた少年。彼は眩いばかりの笑顔を壊理に向けていた。
「ああ、凄かったなぁ壊理ちゃん! デクくんたち、最高に格好良かった!」
通形はそう言って優しく壊理の頭を撫でた後、ふと視線を落とし、祈の方へと向き直った。その青空のような瞳には、純粋な歓喜だけでなく、深い、海よりも深い感謝の念が宿っている。
「……神代先生」
「はい、通形くん。お久しぶりですね。お元気そうで何よりです」
「はい! おかげさまで、俺は怪我一つなく、こうして元気にやっています」
通形は一歩前に出ると、祈に向かって、深く、丁寧に頭を下げた。
「……ずっと、病院にお邪魔して直接お礼を言いたかったんです。あの戦いで致命傷を負ったと聞いたとき……俺は、自分の無力さを嘆きました。あいつらが持っていたクスリもですが、俺のこの身体が、この『透過』の個性が今も無事なのは、全部神代先生が身代わりになってくれたからだ、と」
通形は顔を上げ、ベッド脇の制御装置の残滓がある祈の首元を静かに見つめた。
「神代先生のおかげで、俺は今、個性を失わずに、あの子の前にヒーローとして立って、笑ってあげることができています。俺のヒーローとしての命を繋いでくれて、本当に、本当にありがとうございました」
真っ直ぐで、一点の曇りもない誠実な感謝の言葉。
祈はヴェールの下で、どこか困ったように、けれどそっと微笑んだ。以前の彼女なら「私はただの道具ですから、お気になさらず」と突き放していただろう。けれど、ラグドールや八木との約束が、彼女の唇を優しく押し上げる。
「いいえ、通形くん。お礼を言うのは私の方ですよ。……あなたがそうやって無事で、お兄ちゃんとして優しく笑ってあげている。その姿を見られただけで、頑張った甲斐が、十二分にあったというものです。……どうかこれからも、あの子の良きお兄さんでいてあげてくださいね」
「――っ、はい! もちろんです!」
通形は力強く頷き、再び太陽のような笑顔を咲かせた。その様子を、少し離れた場所から見守っていた相澤消太も、フッと小さく鼻を鳴らして視線を和らげていた。
「次、あっちに行きたい! おいしい匂いがする!」
「ふふ、焦らなくても大丈夫ですよ、壊理ちゃん。時間はたくさんありますからね」
その後、祈は通形や壊理、そして警備を兼ねた相澤たちと共に、他クラスやサポート科が並べる賑やかな模擬店を回った。
おいしそうなクレープを小さな口いっぱいに頬張って「あまい……!」と幸せそうに微笑む壊理。それを見て「良かったなぁ!」と自分のことのように喜ぶ通形。
普通科の出し物である演劇を鑑賞したり、色とりどりの風船が飾られた廊下を歩いたり、生徒たちが作った不器用で温かい展示物を眺めたり。
誰かに「身代わりとして使われる」ためではなく、ただの一人の観客として、その場に存在する。笑い声に包まれた当たり前の日常の光が、祈にとって夢のような時間がそこには流れていた。
やがて、楽しかったお祭りの時間も終わりに近づき、夕暮れが雄英高校の巨大な校舎を茜色に染め上げていく。
壊理はたくさん歩いて疲れたのか、相澤の背中に背負われたまま、小さな寝息を立ててすっかり眠り込んでいた。
「神代先生、今日は本当にありがとうございました。壊理ちゃん、あんなに笑ったの、保護されてから初めてです」
通形が名残惜しそうに言うと、祈は首を振った。
「いいえ。私こそ、人生で一番、温かいものをいただいた気がします。……皆様、本当にありがとうございました」
相澤と通形に送り出され、祈は退院後の手配をされていた雄英の客室へと一度戻ることになった。
けれど、胸に残る圧倒的な光の余韻と、同時に静かに這い上がってくる「祭りの後の寂しさ」が、彼女の足を少しだけ彷徨わせた。
◇
文化祭の片づけが始まり、校舎から少しずつ人の気配が消えていく。
楽しかったお祭りの喧騒が遠ざかるにつれ、夕暮れの静寂が雄英高校の巨大な校舎を包み込み始めていた。
祈は、誰にも告げずに一人、校舎の屋上へと向かった。
ガチャリ、と重い鉄扉を開けて外に出ると、静けさを孕んだ夕暮れの風が、彼女の修道服とレースのヴェールを優しく揺らした。
見上げる空は、燃えるような見事なオレンジ色――茜色に染まっている。
今日一日、本当にたくさんの笑顔を見た。眩しい光の中で楽しそうにステップを踏んでいた子供たち。生まれて初めて見る本物の輝きに目を丸くして喜んでいた壊理の笑顔。クラスメイトと笑い合う生徒たちの活気。そして、自分の無理を見抜いて少し困ったような顔をしながらも、優しく寄り添ってくれた相澤や八木、通形たちの顔。
それらを思い返すたび、祈の胸の奥底には、今まで感じたことのない、ひどく温かなものがじんわりと残っていた。
「……素敵な一日でしたね」
誰に聞かせるでもなくぽつりと呟いて、祈はそっと目を閉じる。
そして、自らの内に溢れるこの愛おしい余韻をそっと逃がすように、静かに唇を開いた。
「――Amazing Grace, how sweet the sound……」
アメイジング・グレイス。
かつて、公安に縛られる前――教会で過ごした遥か遠い日々の記憶の中で、何度も耳にし、何度も口ずさんだ、馴染み深い聖歌だった。
伴奏はない。マイクもない。メリハリのある声質でもない。プロの歌手とは程遠い声量の歌声。
ただ、夕暮れの遮るもののない空に向かって、澄んだ歌声が静かに広がっていく。
その声には、誰かを感動させようとするような技巧も、己を誇るような華やかさも一切なかった。けれど、不思議なほどによく通り、夕闇が迫る世界へと染み渡っていく。
幾多の時代を巡り、死を隣人として受け入れてきた長き年月を生きてきた者の深い静けさと、その一方で、普遍的な精神を欠落させたまま世界を無垢に見つめる少女のような純真さ。その、相反する二つの性質が、ひとつの歌声の中に美しく同居していた。
祈は、誰かを救おうとはしていなかった。
誰かのために祈っていたわけでもない。
ただ、今日という一日が嬉しかった。自分が壊れた人形のままであっても、この光の中にいて、誰かと同じ時間を過ごせたことが、ただどうしようもなく心地よかった。だから歌った。それだけだった。
屋上へと続く鉄扉の前で、八木俊典はピタリと足を止めていた。
文化祭の片づけを終えた生徒たちの様子を見回っていたところだった。客室から祈の姿が消えていると聞き、心配になって探しに来たのだ。
扉のノブに手をかけ、開けようとした瞬間――その向こうから、息を呑むほど美しい歌声が聞こえてきた。
「Tis grace hath brought me safe thus far,And grace will lead me home…」
思わず、手が止まる。
師匠が死んだあの日も、腹を抉られて死にかけた六年前も、いつも微笑んで自分を全肯定してくれた彼女の、知っている歌だった。けれど、彼女の歌声を、このようにして直接耳にするのは初めてだった。
八木は、扉を開けなかった。
今、あの扉の向こうに踏み込んで、この神聖な時間を邪魔をしてはいけない。そんな気がしたのだ。オレンジ色の夕日に照らされ、白いヴェールを風に揺らしながら、祈はまっすぐに夕空を見つめて歌っている。八木はその浮世離れした横顔を、鉄扉にはめ込まれた小さなガラス窓越しに、ただじっと見つめていた。
彼女はいつもそうだ。いつだって、誰かのために行動する。
傷ついた人がいればその身を削って手を差し伸べ、苦しんでいる人がいれば、自分の身体が肉塊になろうとも平気な顔をして後回しにする。
そんな彼女が今、誰のためでもなく、自分の喜びのために歌っていた。
「……っ」
八木は、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような、名前のない感覚を覚えた。
嬉しかった。誰かのための『身代わり』としてではなく、彼女が自らの意志で、こんなにも満ち足りた表情をするのだと知れたことが、ヒーローとして、一人の男として、どうしようもなく愛おしい。
そして――それと同時に、胸の奥をチリリと掠めたのは、酷く利己的で小さな、寂しさだった。この、世界で一番優しくて切ない歌声を、誰にも知られずに、自分だけが聴いていたいと、そんな我が儘を思ってしまったからだ。
最後の残響が夕闇に溶け、歌が終わる。
祈はゆっくりと目を開け、茜色から群青色へと移り変わる空を見上げた。
「……明日も、こんな日だといいですね」
その小さな声は、扉の向こうにいる八木には届かなかった。
けれど、彼女が紡いだ歌声の温度は、確かに彼の胸に届いていた。彼はしばらくの間、魂を奪われたかのようにその場を動けずにいた。
…一方、その少し離れた、屋上へと続く階段の踊り場。
教室への忘れ物を取りに戻ってきた雄英高校の一人の生徒が、完全に足を止めていた。
(何だ、この歌声……プロの歌手……? いや、違う……)
あまりにも綺麗で、どこか現実離れした声だったから、その生徒は何気なく、ポケットからスマートフォンを取り出した。
レンズが捉えたのは、ほんの数十秒の光景。
オレンジ色の夕日に照らされた屋上と、風に揺れる白いヴェール。隙間から零れる美しい銀色の髪。そして、静かに歌う修道服の女の姿。逆光のせいで、顔のパーツははっきりとは映っていない。
けれど、空間に浸透していく澄んだ歌声だけは、スマートフォンのマイクに鮮明に記録されていた。生徒は、興奮を抑えきれないまま、撮影した動画を友人に送信した。
『ねえ、これ聴いて。うちの学校の屋上で誰かが歌ってたんだけど、ヤバすぎる』
それが、すべての始まりだった。
◇
翌日。
文化祭が明け、無事に検査の手続きを終えて一時的に病室へと戻っていた祈が、テレビを眺めていると、廊下の向こうから妙に騒がしい声が聞こえてきた。
「えっ、ちょっと待って、これ神代さんじゃない!?」
「いや、絶対そうだろ! この修道服とレースのヴェール、ニュースで見たことあるぞ!」
「嘘、綺麗すぎじゃない……? 天使か何かなの……?」
祈は不思議そうに小首を傾げ、病室の扉を見つめた。廊下を行き交う看護師や医師たちの足音が、いつもよりなんだか浮き足立っているように感じられる。
コンコン、と少し硬いノックの音がして、見舞いに訪れた八木俊典が、どこか困ったような、複雑な苦笑いを浮かべて病室に入ってきた。
「八木先生。こんにちは。なんだか外が騒がしいようですが、何かあったのですか?」
「……神代先生。ああ、うん。実は、ひとつ君に話しておかなければいけないことがあってね」
八木はパイプ椅子に腰掛けた。
「君は昨日、片づけの最中に、校舎の屋上で歌を歌っただろう?」
祈はレースの向こうで、パチパチと青い瞳を瞬かせた。
「……ええ、少しだけ。でも、どうして八木先生がそれをご存じなのですか?」
八木は一瞬、きまり悪そうに視線を泳がせ、答えに詰まった。
「それは……その、私が偶然、君を探しているときに聴いてしまってね。とても、素晴らしい歌だったよ」
嘘ではない。ただ、彼自身が聴いていたこと以上に、大変な事態が起きていることを、彼女はまだ何も知らないのだ。八木は「それでね、あの……」と言い淀みながら、自らのスマートフォンの画面を祈の方へと向けた。
「これを見てほしいんだ」
画面に映し出されていたのは、見覚えのある雄英高校の屋上の風景。そして、オレンジ色の夕日を受けて白いヴェールを揺らす、自分自身の姿だった。
祈が驚く間もなく、八木が画面をスクロールしていく。再生回数は、すでに個人の投稿としては目を疑うような爆発的な数字に達していた。動画が投稿サイトにアップされるや否や、もの凄い速さで拡散され、コメント欄への反応も一秒ごとに次々と増え続けている。
『おいおい誰だこれ、声が綺麗すぎて鳥肌立った』
『この服とヴェール、こないだの公安のニュースに出てた神代祈さんじゃない?』
『ステインと戦った聖女様が歌ってるってマジ!?』
『天使って本当にいたんだな……フルで聴かせてくれ』
さらに、ネットの有志の手によって、いつの間にか『神代祈ファンクラブ』と名付けられた非公式のアカウントまで乱立し、その会員数は今も狂ったような勢いで激増を続けていた。
祈はスマートフォンの画面をじっと見つめたまま、しばらくの間、静かに黙っていた。
八木は、彼女がこの事態にどう反応するのか、固唾を飲んで見守る。驚くのだろうか。それとも、公安の駒として目立ってしまったことを困るのだろうか。
やがて、祈は小さく首を傾げ、ぽつりと尋ねた。
「……あの、八木先生」
「うん」
「私、何か……いけないことをしてしまったのでしょうか? 公安の皆様や、雄英の皆様に、ご迷惑をおかけしてしまいましたか?」
「――っ」
八木は、思わず大きく目を見開いた。
爆発的な再生回数への驚きでもなく、世界中からの凄まじい称賛の言葉への喜びでもない。
自分の命すら『誰かのための道具』として扱い、普遍的な精神を欠落させている彼女が、真っ先に気にしたのは――「自分が誰かに迷惑をかけるような、悪いことをしたのか」という、痛々しいほどの自己否定だった。
「いや! 違うんだ。君は何も、これっぽっちも悪いことなんてしていないよ」
八木は慌ててスマートフォンを裏返してベッドの上に伏せ、大きな手を差し伸べるようにして、心からの穏やかな声を告げた。
「君の歌を聴いたたくさんの人が、純粋に『素敵だ』と思った。ただそれだけのことなんだ。君のあの温かい気持ちが、歌声に乗って、たくさんの知らない誰かにまで届いたんだよ」
「……そう、なのですか」
祈は、どこか困ったように優しく目を伏せた。
自分の歌声が、こんなに大勢の人々に届くなんて考えたこともなかった。誰かに褒められるために歌ったわけでも、聖女として誰かを救うために祈ったわけでもない。ただ、昨日の日常が、みんなの笑顔が嬉しかったから。
「……不思議ですね」
祈は細い指先を胸元に当て、小さく呟いた。
「ただ、嬉しくて歌っただけなのに」
「そうだね。本当に、君の歌は素晴らしかった」
八木は、彼女を安心させるように、これ以上ないほど温かく微笑んだ。
そして、言葉には出さず、心の中で静かに付け加える。
――君は、いつもそうなんだ。
自分では大したことをしていない、ただの死ねない人形だと思っている。けれど、君が何気なく差し出した手や、何気なく零した微笑み、そして昨日紡いだ歌声が……どれほど多くの人々の人生を救い、狂わせるほどの光になってしまうか、君自身だけが分かっていない。
ただひとつ、八木にはヒーローとしての、そして彼女を案じる者としての気がかりがあった。
この動画の拡散によって、神代祈という存在は、これから彼女の知らない無数の人々からも、さらに強い注目と関心を集めることになる。明日には首輪が外され、自由な一歩を踏み出そうとしている彼女の意志とは無関係に、世界が彼女を放っておかなくなる。
「神代先生」
「はい?」
「これから、少し君の周りが騒がしくなるかもしれない。……もし、困ったことや、怖いことがあったら、どんなに小さなことでも遠慮なく、私を頼ってほしい。私に言ってほしいんだ」
祈は、レースの向こうから八木の真っ直ぐな瞳を見つめ返し、ゆっくりと、深く頷いた。
「ありがとうございます」
彼女の穏やかな笑顔を見て、八木俊典は、自らの胸の奥で静かに、けれど絶対に揺らがない決意を固めていた。
これから彼女の歌声がどれほど遠くまで届こうとも。世界が彼女をどのように持て囃そうとも、その歌を歌った彼女自身が、かつてのあの日々のように再び暗闇の中でひとりぼっちになってしまわないように。
今度は自分が、平和の象徴としてではなく、八木俊典という一人の人間として、ずっと彼女のそばにいようと。
窓の外から差し込む穏やかな光が、二人の静かな距離感を、温かく満たしていた。