【ネットの深淵――既存のファンクラブ会員たちの誓い】
社会の陽光から隠されたネットの片隅、あるいは彼女の『聖性』に狂わされた狂信者たちが集う、非公式のファンクラブ『神代祈を見守る会』。
死穢八斎會事案の凄惨な報道以来、彼女が身代わりとなって幼い命を繋ぎ止めたことに涙し、その無欲な自己犠牲に救われてしまった既存の会員たちにとって、投下されたその動画は、ただの「美しい歌声」などという生温いものではなかった。
『全人類、刮目して聴け。……これは、祈さまの『魂』の叫びだ』
『最初の一声を聴いた瞬間、自分のこれまでの醜悪な人生が全部恥ずかしくなって、気がついたら部屋の床に平伏して泣いていた。大袈裟でも何でもない、本当に涙が止まらないんだ』
『夕日に照らされて、白いレースのヴェールを風に揺らしている姿が、あまりにも儚くて……美を詰め込んだ人形のようで、見ていて胸が締め付けられる』
『なんということだ、我々の祈さまが世間に知られてしまった』
スレッドを流れる文字の熱量は、一秒ごとに加速していく。彼らが何よりも戦慄し、同時に深く狂わされたのは、歌の後半に紛れ込んでいた、あの世界を拒絶するように冷たい『孤独』の残滓だった。
『……みんな、気付いたか? 歌の後半、一瞬だけ世界が凍りついたような、冷たい気配が混ざった。聴いているだけで背筋が凍りつくような、あの底知れない深淵』
『気付いた。でも、だからこそ、祈さまの孤独が伝わってくるんだ。あんな恐ろしい力を持ちながら、あの方は誰かを救うために平然と自分の内臓を焼き切るような思いをしてまで、笑いながら「問題ありません」って言うんだぞ……?』
『世界がどれだけあの方を放っておかなくても、俺たちだけは絶対に忘れない。祈さまが誰かの身代わりとして消費され尽くしてしまう前に、その尊い存在を、陰から全力で護り抜くんだ。会員数が一晩で何十倍になろうとも、古参である俺たちの信仰は、絶対に揺らがない――』
*
【歪んだ鏡――ジェントルとラブラバの更生への決意】
警察の手によって逮捕され、取り調べの合間の静寂の中で。ジェントル・クリミナルとラブラバの二人は、どこからか流れてきたその『白いヴェールの聖女』の歌声を目に、そして耳にしていた。
歴史に名を残したい。
人々に認められたい。
その歪んだエゴのために手段を誤り、社会を脅かす道を選んでしまったジェントル。そして、ただ一人の人を愛し、その人の夢を叶えるためなら、世界を敵に回すことも厭わなかったラブラバ。
二人とも、胸に抱いていた願いの本質が悪だったわけではない。ただ、弱者を脅かし、他人の未来を傷つけることでしか、その願いを形にできなかった。
そんな二人の目の前で、画面の中の祈は――誰に称賛されるためでもなく、誰かを救うための義務感でもなく、ただ、今日という一日が嬉しかったからという理由だけで、夕空を見上げて歌っていた。
その無欲で完璧な聖歌は、二人を直接責め立てることはしない。だからこそ、ジェントルの胸には、どんな冷徹な法律の言葉よりも深く、鋭く堪えた。
「……ラブラバ。私は、一体何をしていたのだろうね」
ジェントルは、掠れた声でぽつりと呟いた。
ラブラバは、彼の服の袖を小さな手でぎゅっと握りしめたまま、すぐには答えることができなかった。ジェントルがどれほど自らの人生を悔いて、人々に認められようとしてきたかを、彼女は誰よりも知っていたから。
「ジェントル……私たち、もう一度、ゼロからやり直せるかしら。今度は、正しい道の上で……」
「やり直さなければならないのだろうね。今度こそ、誰の未来も傷つけることなく、君のその純粋な愛に恥じない男として……」
この歌を聴いたからといって、彼らがこれまでに犯してきた罪が消えるわけではない。過去の過ちが帳消しになるわけでもない。だが、祈の無私の歌声に触れたその瞬間が、二人にとって、本当の意味で自らの犯した罪と向き合い、心からの更生を目指すための、絶対的な決意の秒針となった。
祈は二人を許したわけでもない。けれど、二人が自分自身の足で再び歩き出すための、その尊い『始まり』を、確かに作っていた。
*
【二度目の恋――心操人使の心情】
自室のベッドの上で。心操人使は、スマートフォンに表示されたその数十秒の動画を、もう何度再生したか分からないほどに、じっと見つめ続けていた。
最初は、その空間すべてを支配するような美しい声に驚いた。
次に、夕暮れの屋上で、誰に求められたわけでもなく一人きりで歌う祈の姿が、どうしようもなく気になった。
そして最後には――画面を閉じることすら、できなくなっていた。
心操は知っている。神代祈という女性が、どれほど他人のために自分の身体を軽視し、傷だらけになりながら「問題ありませんよ」と微笑んでしまう、歪んだ優しさの持ち主なのかを。
けれど、この動画の中にいる彼女は、決定的に違っていた。
誰かの傷を『ジキル』の治癒で癒しているわけでもない。
誰かの代わりに、理不尽な痛みを背負い込んでいるわけでもない。
ただ、今日という一日が、子供たちの笑顔が楽しかったから、自分のために歌っている。
心操が、彼女と出会ったあの体育祭の日から、ずっとずっと見たかったのは――誰かの身代わりとして消費されるのではない、そういう彼女の「本当の心」だった。
「……ずるいだろ、これ」
薄暗い部屋の中で、心操は自らの額を押さえて小さく呟いた。
一度好きになった相手に、全く別の、より深い理由でもう一度恋に落ちるなんて、そんな底なし沼のようなことがあるのだろうか。
あった。現に今、自分の胸の奥が、痛いほどに脈打っている。
彼女の底なしの聖性が好きだった。誰にでも手を差し伸べるところが好きだった。でも今は、それだけではない。
彼女が、誰かのための道具ではなく、彼女自身のために笑える人であってほしい。誰かに許されなくても、自分自身の幸せのために生きてほしい。そう願っている自分自身の感情に、心操は完全に気付かされてしまったのだ。
画面の中で、祈は歌い終え、夕空を見上げて静かに微笑んでいた。
心操はスマートフォンをベッドに伏せ、自らの両手で顔を覆った。
「……会いてえな」
誰にも聞かれないように呟いたその言葉こそが、今の彼の、偽りのない本音だった。
*
【独占欲と鳥籠――ホークスの心情】
全国を飛び回るトップヒーロー、ホークスの反応は、他の誰とも決定的に違っていた。
彼は、任務の合間の移動車両のシートの中で、その動画が画面に流れた瞬間――最初の、たった一音だけで、それが神代祈の声であると完璧に聞き分けた。
見間違えるはずがなかった。
風に揺れる見慣れた修道服の裾。美しい銀髪。顔を覆うレースのヴェール。そして何より、かつて少年だった自分が、その隣で必死に背伸びをしながら聴いていた、あの温かい手のひらの主の歌声なのだから。
「……あーあ」
剛翼を休めるシートの中で、思わず深い溜息のような息が漏れた。
こんなの、世界中の人間が好きになるに決まっている。いや、もうとっくに、人生のすべてを狂わされるほどに好きなのだ。そんなことは、何年も前から分かっている。
それでも、改めて思い知らされる。
祈は、自分の知らないところで、こんなにも美しい顔をするのだ。
誰かを救うためでも、公安の命令でもなく、ただ自分の心が満たされたから歌う。それが、彼女の幸福が、彼にとっては本当に、涙が出るほどに嬉しかった。
なのに。
「……こんなの、みんな好きになるじゃないですか」
ネット上で激増していくファンクラブの会員数とコメント欄をスクロールしながら、苦々しげに唇を尖らせた。
そこには、祈を称賛する言葉が、有象無象の人間たちから星の数ほど並んでいる。歌声に惹かれた人。彼女の美しさに驚いた人。もっと彼女を知りたいと書き込む人々。もちろん、全てが良い書き込みではない。作り物だと疑う者、歌っているのは別人だと冷やかす者、祈という人物がそもそも実在する人物ではない―――好き勝手言ってくれる。
しばらくその狂った画面を眺めていた。
祈が誰かに見つけてもらえるのは、嬉しい。彼女の自己犠牲がようやく報われ、世界から大切にされ、愛されるのも、心から嬉しいと思っている。
でも――。
自分だけが知っていると思っていた、彼女の一面を、世界中の有象無象が知ってしまい、勝手に恋に落ちていくのは、どうしようもないほどに少しだけ悔しい。
「……俺、ほんと面倒くさいな」
自嘲気味に自らの額を押さえ、苦笑する。
トップヒーローとしての飄々とした大人の余裕など、彼女の歌声一つで、一瞬にして余裕のない鷹見啓悟へと引き戻されてしまう。
それでも、動画を消す気にはどうしてもなれなかった。
もう一度、再生のボタンをタップする。夕日のオレンジ色を浴びた彼女が、再び画面の中で、澄んだ声で歌い始める。
ホークスはそっと目を閉じた。
いつか、いつの日か。彼女が公安の暗闇からも、世界中の喧騒からも解き放たれて、自分の隣でこうして歌ってくれたらいいのに、と。
世界の平和のためでもなく、誰かの身代わりになるためでもなく。ただ、隣にいる自分と過ごす時間が楽しくて、自然に唇が綻ぶように、歌ってくれたら。
自分の端末に残された、昨夜の彼女からの「繋がらなかった着信履歴」をそっと指先で見つめながら、彼は小さく愛おしそうに笑った。
「……いつか、ね」
祈がこれから誰を選ぶのか。彼女が、自分のことをどう思っているのか。今はまだ、何も分からない。
それでも彼は、彼女を好きでいることを、その翼が燃え尽きるまでやめられそうになかった。
公安委員会・統計報告
動画の拡散後、一部地域で軽微な犯罪や迷惑行為の通報件数が減少した。
当初、公安は偶然の変動と判断した。季節的な要因、警戒活動の強化、報道による心理的影響。考えられる理由はいくつもある。
しかし、複数の地域で似た傾向が続いた。さらに、補導された少年の一部が、事情聴取の際に同じ動画について言及した。
「……あの人の歌を聴いたんです」
「別に、人生が変わったとかじゃないです。ただ……あんなふうに歌える人がいるのに、俺は何やってんだろうって」
別の少年は、もっと簡単に答えた。
「なんか、悪いことする気が失せた」
もちろん、犯罪がなくなったわけではない。
歌を聴いても何も変わらない人はいる。反発する人もいる。動画を面白半分に消費する人もいる。
それでも、ごくわずかな人々が、踏みとどまった。
誰にも知られない場所で、誰にも褒められない選択をした。
その積み重ねが、統計の小さな変化となって現れた。