カチャリ、と無機質で重い金属音が病室の静寂に響いた。
公安委員会の特級医療スタッフが慎重な手つきで操作を終えると、長年、祈の首元を縛り続けていた黒い制御装置がゆっくりと開かれ、取り外された。肌に触れていた冷たい金属が離れた瞬間、首元を通り抜ける冬の空気がひどく軽く感じられる。それは彼女がこれまでの人生で一度も味わったことのない、本当の意味での『解放感』だった。
けれど、檻が消え去ったその首元を見つめながら、祈の脳裏には一瞬だけ、あの血塗られた『神の秒針事件』の悪夢がかすめる。
(首輪がなければ、私はまた、私の意志で誰かを終わらせてしまうのではないか――)
背筋を掠める無意識の恐怖。だが、その微かな震えを遮るように、病室の傍らに立つ男――八木俊典が、穏やかに、けれど絶対に揺らがない静けさで彼女を見守っていた。その揺るぎないヒーローとしての佇まいが、彼女の乱れかけた秒針を優しく繋ぎ止める。
「……お疲れ様です、神代さん。これで、手続きはすべて完了しました」
立ち会っていた目良が、相変わらず目の下に深い隈を作ったまま、手元の書類を鞄に収めた。
「今日からは最低限の経過観察のみとなります。……いやぁ、首輪を外した瞬間にあなたが暴走して私が報告書をさらに十枚書く羽目にならなくて、本当に心から安心しましたよ。それでは、約束通りの『外出許可』です。ただし、絶対に無理をして倒れないでくださいね」
「ふふ、目良様、本当にありがとうございます。皆様の優しさに、心から感謝いたしますね」
祈はヴェールのない素顔で、静かに微笑んだ。
◇
一時間後。病院のエントランスに現れた祈の姿は、いつもの厳格な修道服ではなかった。
冬美が選んでくれた、落ち着いた色合いの、上品で静かな藍色のワンピース。街の空気に馴染むその装いに、美しい銀髪と顔の全容をすっぽりと隠すことができる、少し大きめのつばの広い帽子を被っている。
ネットの海に拡散されたあの『アメイジング・グレイス』の動画のせいで、非公式ファンクラブの会員数は今も狂ったように増え続けている。目良の計らいと八木の厳重な注意もあり、今日のお出かけは徹底的なカモフラージュが施されていた。
「お待たせしました、八木先生」
「いや、今来たところさ。……とても、よく似合っているよ、神代先生」
「ふふ、ありがとうございます」
振り返った八木は、目立たない私服のコートを羽織っていた。見上げるほどの巨躯ではあるが、ヒーロー活動全盛期と比べると衰えた方だと思う。引退してからというもの、オオールマイトの姿になるのは雄英高校での授業くらいだ。ワンフォーオールの残り火が消えれば、筋肉量はさらに減るだろう…とは言っても、年齢に見合わない体躯であるゆえに、一般人と比べると目立つことは間違いない。
彼はいつもの修道女の姿とは違う、街に溶け込むような落ち着いたワンピース姿の祈を見て、その浮世離れした美しさに――そして、初めて『自分の意志』で外の世界へ歩き出そうとしている彼女の佇まいに、胸の奥がドクンと跳ねるのを感じた。
一人の人間として、その凛とした姿に改めて激しく惚れ直してしまう。
(……ああ、いけないな。私は平和の象徴だというのに)
ほんの僅かに混ざる、男としての、そして一人の人間としての淡い下心と独占欲。世界に見つかってしまった彼女の歌声を思い出し、彼は誰にも気づかれないように小さな苦笑を飲み込んだ。それから、大きな手を差し伸べるようにして歩き出す。
「さあ、行こうか。まずは、君が希望していた場所へ」
「はい。よろしくお願いいたします」
デート―――首輪を外した祈に「一番に何がしたい?」と聞いた八木は、「街に出て普通に買い物をしたい」と言った祈の願いを叶えるつもりだ。
二人が最初に向かったのは、祈がかつて長く過ごし、今も彼女が気にかけている小さな教会の跡地だった。そこには今も、身寄りのない子供たちが小さな身を寄せて暮らしている。
「あ! 祈お姉ちゃんだ!!」
「お姉ちゃん! ずっと入院してたって聞いて心配してたんだよ!」
教会の古い扉を開けると、中から元気な子供たちが一斉に鳥の雛のように駆け寄ってきた。祈は帽子を少し持ち上げ、慈愛に満ちた瞳を細めてしゃがみ込む。
「ふふ、みんな、元気にしていましたか? 好き嫌いをせず、ご飯を食べていましたか?」
「うん! 食べてるよ! お姉ちゃん、これなぁに?」
子供たちが、八木が抱えていた大きな紙袋に目を輝かせる。祈は微笑みながら、その袋の中から、綺麗に個包装された様々な焼き菓子を一つずつ手渡していった。それは、入院中に冬美やラグドール、ナイトアイ、啓悟たちから貰った、あのたくさんの温かいお見舞いのお菓子だった。
「私の大切なお友達がね、私が元気になるようにって、たくさん持ってきてくださったの。とっても甘くて、美味しいお菓子ですよ。みんなで仲良く、分けて食べてくださいね」
「わーい! ありがとうお姉ちゃん!」
「お姉ちゃんのお友達、ありがとう!」
嬉しそうにお菓子を抱えて笑う子供たちの姿を、祈は本当に幸せそうに見つめていた。自分が誰かの『身代わり』として傷ついた結果の副産物が、今、こうして目の前の子供たちを純粋に笑顔にしている。その優しい循環が、彼女の精神の欠落を、確かな温かさで満たしていく。
「私一人では食べきれないので」
八木はその様子を隣で静かに見守りながら、彼女が他人の愛をこうして受け入れ、次の光へと繋げている姿に、どうしようもないほどの愛おしさを募らせていた。
「皆さん、また会いに来ますからね」
子供たちに別れを告げ、二人はお出かけの次の目的地へと向かった。道中、祈は街の小さな雑貨屋の店先に置かれていた、一冊のシンプルなアルバムに目を留めた。
「……神代先生、それが気になるのかい?」
「はい。私、写真が好きなんです」
「写真か…」
「これから、たくさんの素敵な景色や、皆さんの笑顔を、自分の意志で集めていきたいなと思いまして。そのための本が一冊、欲しかったのです」
「それは素晴らしいね。ぜひ、購入しよう」
誰かに与えられた役割の手帳ではなく、自分がこれから刻んでいく記憶のための、真っ白なアルバム。それを大切そうに胸に抱える彼女の姿に、八木は「これからは私が、その本を君の笑顔でいっぱいにしてみせる」と、心の中で静かに誓うのだった。
◇
お出かけの最後に、八木が案内したのは、街外れにある景色の良い小高い丘の上だった。
遮るもののない高台からは、冬の澄んだ空気の向こうに、茜色に染まり始めた街並みが一望できる。美しいグラデーションを描く夕暮れの空が、二人の足元を優しく照らしていた。
「綺麗ですね、八木先生……」
「ああ、本当に素晴らしい眺めだ」
祈はつばの広い帽子をそっと抑え、オレンジ色の風を受けながら、うっとりと街を見下ろした。首輪の外れた首元は、風が吹くたびにひんやりと冷たい。けれど、隣に立つ八木の温かい気配がすぐ側にあるからこそ、彼女の心には恐怖ではなく、純粋な『心地よさ』だけが広がっていた。
「首輪が外れたら、もっと自分の個性が怖くなるものだと思っていました。でも……不思議ですね。こうして八木先生の隣で外の空気を吸っていると、私、少しだけ自分が普通の人間になれたような、そんな錯覚をしてしまいます」
「錯覚なんかじゃないさ」
八木は身体を少しだけ彼女の方へと傾け、絶対に揺らがない、優しさを込めた声で告げた。
「君はもう、誰かに管理されるだけの『人形』じゃない。自分の足で立ち、自分の意志でここへ来た、一人の自由な人間だ。君の隣には、いつでも私がいる。……神代先生、ふたつほどお願いがあるのだけど」
八木はほんの少しだけ声を潜め、彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。胸の奥に秘めた不器用な下心が、夕暮れの茜色に背中を押されるようにして、言葉となって零れ落ちる。
「……もし良ければ、これからは私のことを、役職や苗字ではなく、名前で呼んで欲しいんだ」
「え……?」
「八木俊典…できれば、俊典と」
祈は八木の目を見つめ返す。彼は、どこまでも真剣だった。
「君にそう呼ばれることが、今の私にとって、何よりの救いになるような気がしてね」
恋人という甘い関係ではない。むしろ遠い。けれど、お互いに背負ってきた過去の重さを知っているからこその、深い信頼がある。過去を忘れた祈への贖罪という訳ではないが、これくらいは許して欲しいという下心。ほんの少しだけ混ざった彼の男としての願いに、祈はレースのヴェールのないその瞳を僅かに揺らし、驚いたように瞬きをした。それから、恥ずかしそうに、けれど心からの柔らかな微笑みを彼に向けた。
「……はい。俊典、さん」
「――っ、ああ。ありがとう」
その響きに八木の胸が跳ねた、その時だった。
高台の入り口の方から、学生らしき数人の賑やかな話し声が近づいてきた。彼らはスマートフォンをいじりながら、興奮気味に画面を覗き込んでいる。
「なぁ、マジでこの動画ヤバくない? トレンド1位の神代祈って人、確か雄英の近くの病院に入院してるって噂だけど……」
「雄英高校、いいよなぁ」
「待て、あれ……あの丘の上にいる人、なんかワンピースの感じとか、雰囲気が動画の人に――」
ネットの爆発的な拡散の影響は、こんな街外れにまで及んでいた。彼らが祈の姿に気付き、声をあげそうになったその瞬間。
「――おっと。すまないが、少し道を譲ってもらえるかな」
ガシッ、と空間そのものを遮るようにして、八木がスマートに生徒たちの視線の前に立ちはだかった。
彼は祈の細い肩を自らの大きな手のひらでぐっと抱き寄せ、大きな身体の影へと完全に隠しながら、学生たちに爽やかな、けれど有無を言わせない笑顔を向けた。
「っ……! あ、オールマイト……!?」
「す、すみません! 」
「……っ!」
学生たちは、突如目の前に現れた「本物の平和の象徴」の凄まじいオーラと質量に完全に圧倒され、神代祈の存在など脳内から一瞬で消し飛び、脱兎のごとく慌てて道を戻っていった。
生徒たちが完全に去ったのを確認すると、八木はすぐにいつもの優しい苦笑いに戻り、自らの胸元に引き寄せていた祈の肩から、そっと手を離した。
八木は祈の細い肩を気遣うようにそっと覗き込んだ。
「すまない……今ので、どこか痛むようなことはなかったかい?」
祈は、彼のどこまでもスマートで、それでいて自分を最優先に労ってくれる優しい庇い方に、帽子を抑えながらくすくすと楽しそうに笑った。
「いいえ、どこも痛くありませんよ。とても格好良かったです、俊典さん。……ふふ、お姫様にでもなったかのような錯覚をしてしまいました」
「はは……そのように褒めてくれるのは、世界中で君くらいのものさ」
八木は名前で呼ばれた嬉しさと照れくささで少しだけ赤くなった顔を誤魔化すように頭を掻きながらも、彼女のその弾むような笑い声が、何よりも愛おしかった。
自分でワンピースを選び、自分で帽子を被り、自分でアルバムを買い、自分の意志で俊典の手を取った。
「それで…俊典さん、もう一つのお願いというのは…?」
「あ、ええと、その」
「?」
「私も、君の名前を呼んでも良いだろうか…と…いや、呼ばれたくないなら全然問題ないのだが、今まで通りでも」
先程まで紳士的で格好良かった八木が、耳まで赤くして困っている。
「…ふふ」
それが、なんだか可愛らしかった。
「ぜひ。祈、と」
「…い、祈……くん」
「ふふ。はい、よくできました」
首輪の消えた祈の首元を、オレンジ色の夕暮れの風が優しく吹き抜けていく。過去の悪夢も、ハイドの影も、まだ完全に消えたわけではない。それでも、自分の意志で刻み始めた新しいアルバムの最初の1ページには、間違いなく、この眩しい茜色の光と、隣で少し不器用に微笑む、大好きなヒーローの姿が、美しく刻まれているのだった。
オールマイトは童貞(公式設定)