朝の六時。古い木造の教会に、規則正しい箒の音が響き始める頃、俺の一日もまた、最悪の目覚めと共にスタートする。
「……あー、おはよ。神代さん。朝から精が出るねぇ」
よれた私服のまま、首をポリポリと掻きながら礼拝堂へ下りていくと、そこにはいつも通りの黒い修道服を纏い、頭から白いレースのヴェールを深く被った神代祈がいた。
彼女は箒の手を止め、俺に向かって微笑んだ。
「おはようございます、筑紫様。朝食のご用意はできております。温かいうちにお召し上がりください」
凛とした丁寧な敬語。
相変わらず、彼女の顔は薄いレースの網目に遮られてよく見えない。
俺の個性『共感層(シンパシー)』を意識の隅で発動させてみれば、彼女の心は、今朝も冷え切った凍土のままだ。感情の起伏はない。
俺への警戒も、神父を亡くした悲しみも、すべては分厚い氷の下に隠されている。
なのに、テーブルの上に置かれた朝食からは、出汁のいい匂いと、ほかほかとした温かい湯気が立ち上っている。
(中身はガチガチに凍りついてるくせに、こういう『他人への気遣い』だけは100%本物なんだから、本当に調子が狂う)
「……なんつーか、いただきます。本当に、やりづらいねぇ」
文句を言いつつ椅子に座り、彼女の手料理を口に運ぶ。
悔しいが、味は文句なしに美味い。
死んだエリアス神父から教わったのだろうか。
俺が黙々と箸を動かしている間、彼女は一歩引いた場所で、お行儀よく両手を前に組んで静かに佇んでいた。
「君さ、自分の分は? 俺を見張るのがお仕事なわけ?」
「いえ。私は少し前に済ませましたので、お気になさらないでください。……筑紫様、お口に合いましたでしょうか」
「……あー、美味いよ。毎朝これ食えるなら、公安のクソみたいな残業よりはマシかな」
俺が投げやりにそう言うと、彼女の胸元の銀色のロザリオが、差し込む朝日に反射して小さく揺れた。
レースの向こうで、彼女がほんの少しだけ、お人形の微笑みを浮かべたのが気配で分かった。
午前中、彼女は教会の仕事を淡々とこなす。
俺の『お仕事』は、彼女の外界への接触を監視することだ。
だが、彼女は監視されること自体に怯えも怒りも抱かない。
ただの「当然のルール」として受け入れている。
その従順さが、元公安の端くれである俺にとっては、逆に歪で、酷く痛々しく見えた。
昼過ぎになると、近所の子どもたちが教会の重い扉を押し開けてやってくる。
「おねえちゃーん! お絵描きしよ!」
「こんにちは、皆様。今日も元気が良くて素晴らしいですね」
子どもたちが彼女の修道服の裾に群がった瞬間、俺の『共感層』が、彼女の心から溢れ出た瑞々しい温もりをダイレクトに受信した。
――可愛い。愛おしい。この子たちの笑顔を、命を、何があっても守りたい。
凍りついた彼女の心の中で、その「純粋な博愛」だけは、嘘偽りのない本物の光として爛々と燃えている。
彼女は膝をつき、子どもたちと同じ目線になると、白いレースのヴェールを少しだけ自分の手で持ち上げた。
網目の向こうから覗く、人間離れした圧倒的な美貌。その瞳が、子どもたちの無邪気な姿を映して、本当に優しそうに細められる。
「……はぁ。やっぱり、毒気を抜かれる感じかな」
俺は礼拝堂の柱に背を預け、缶コーヒーを片手にその光景を苦々しく睨みつける。
特定の誰かを愛する心は壊れているのに、世界を救いたいという善意だけは本物。
裏切られたと絶望しているのに、死んだ神父の『人を愛しなさい』という遺言を呪縛のように守り続けている。
こんな矛盾した化け物(聖女)、どう扱えばいいっていうんだ。
「筑紫さん、なにしてるのー? 一緒にあそぼ!」
「おーおー、来んな来んな。お兄さんは今、お仕事っていう名のサボり中だからさ。そこのお姉さんに遊んでもらいなよ」
しっし、と手を振って追い払うと、子どもたちは「筑紫さんケチー!」と笑いながら、再び彼女の元へと駆けていった。
その様子を見つめながら、祈が静かにこちらへ視線を向ける。
「筑紫様は、口調はぶっきらぼうですが、子どもたちの足元に落ちていた小さなガラス片を、先ほどさりげなく拾って捨ててくださいましたね」
「……は? 何それ、見てたわけ?」
「はい。薄いレース越しですが、筑紫様の優しいお姿は、しっかりと見えております」
凛とした丁寧な敬語のまま、彼女は静かに言った。
俺はバツが悪くなって、残りのコーヒーを一気に飲み干し、空き缶をクシャリと握りつぶす。
「勘違いしないでよね、神代さん。ここでガキが怪我して泣き叫んだら、俺の耳が痛くなるでしょ。お仕事の環境維持のための、ただの合理的な行動。それだけ」
「ふふ……左様ですか。失礼いたしました」
レースの下から、今度は仮面ではない、ほんの少しだけ『人間』らしい微かな笑い声が聞こえたような気がした。
俺の『共感層』には何の感情も届かない。
彼女の心はまだガチガチの凍土のままだ。なのに、俺の胸の奥は、今までに感じたことのない妙な熱さで激しくざわついていた。
やがて夜が訪れ、子どもたちも帰り、教会は再び深い静寂に包まれる。
自室のベッドに寝転びながら、俺は天井を見つめてため息をついた。
神代祈という女。
世界への呪いを胸に秘めたお人形でありながら、誰よりも真っ直ぐな光を放つ聖女。
彼女を見張るはずの俺の目が、彼女の心を覗くはずの俺の個性が、いつの間にか、彼女という存在そのものから、どうしても離れなくなっている。
「……割り切るお仕事、ねぇ。本当に、やりづらいったらありゃしない」
静まり返った教会の夜の空気の中で、俺はネクタイを乱暴に緩め、泥のような眠りへと落ちていった。
隣の部屋にいる、あの美しく、狂おしいほどに切ないお人形の気配を、背中に感じながら。
そんな、嵐の前の静けさのような奇妙な平穏は、着任から数ヶ月が経ったある日、公安から押し付けられた「もう一つの厄介事」によって、唐突に形を変えることになった。
「あー……。なんつーか、おい。飯食うか? ガキ」
公安支部の応接室。
ソファに腰掛けた俺の隣で、借りてきた猫のように――いや、今にも飛びかかって噛みつきそうな野良犬のように、小さく体を丸めている男の子が一人。
年齢は七歳。
名前は鷹見啓悟。
……いや、公安に拾われた時点で、その名前は戸籍ごと綺麗に消え去っている。
数日前、泥沼の強盗殺人犯の親からエンデヴァーによって救い出され、その規格外の「剛翼」の才能を見込まれて公安に回収されたばかりの、ホヤホヤの英才教育サンプルだ。
上層部からは『実戦的な立ち回りと基礎訓練はお前が叩き込め。しばらくお前の監視拠点に置いておく』と、これまた面倒な命令を丸投げされた。
「……いらない」
掠れた声で、ガキは俺をキッと睨みつける。
その背中から生えた小さな数枚の赤い羽が、警戒でピンと逆立っていた。
俺の個性『共感層(シンパシー)』に流れ込んでくるのは、世界に対するドロドロとした恐怖、不信、そして親から受けた虐待の凄惨な傷の記憶。
ガキのくせに、心にガチガチの防壁を張ってやがる。
(なるほどねぇ。さすが公安が目をつけた最高傑作。可愛げの欠片もありゃしない)
頭をガリガリと掻きながら、俺の脳裏に、ふと最悪で、最高に興味深い悪戯心が閃いた。
この、世界中の悪意を煮詰めたような傷だらけのガキを。
あの、凍りついた心の隙間から、狂気的なまでの博愛の光を放ち続けている『お人形の聖女様』にぶつけたら、一体どんな化学反応が起きるんだろう。
あのおめでたい善人の仮面が、この生意気なクソガキの毒気によってバリバリに割れるのか。
それとも、あの人間離れした聖人の優しさが、この野良犬の心を強引に手懐けてしまうのか。
(ちょっと、見てみたいよねぇ。お仕事の、ほんの退屈しのぎにさ)
「よし、立てガキ。美味いスープ作ってくれるお姉さんに会わせてやるよ」
俺はガキの細い腕を引いて抱き上げると、礼拝堂へと連れ出した。
夕暮れのステンドグラスの光が落ちる堂内。
いつも通り、黒い修道服に白いレースのヴェールを被った神代祈が、静かに十字架を見上げて佇んでいた。
革靴の音と、ガキの不揃いな足音に気づき、彼女がゆっくりと振り返る。
「おかえりなさいませ、筑紫様。……そちらの小さなお客様は?」
いつも通りの、凛とした丁寧な敬語。
俺は居心地が悪そうなガキの背中をポンと前に押し出し、ニヤニヤとした意地悪な薄笑いを浮かべた。
「公安が拾ってきた新しいサンプル。名前は……ま、啓悟(けいご)って呼んでよ。今日からここに居候させるから。
ほら神代さん、あいつらにろくな飯食わされてないみたいで、心も体もボロボロのひねくれ坊主だよ。君の得意な『博愛』とやらで、優しくお世話しちゃってよ」
さあ、どうする聖女様。
俺は柱に背を預け、意地悪な観察者の目線で彼女を見つめた。
だが、神代祈の反応は、俺の安っぽい予想を遥かに超えていた。
「――」
彼女は、小さな啓悟を見た瞬間、言葉を失ったように微かに息を呑んだ。
白いレースのヴェールの向こう側。
俺の『共感層』が捉えたのは、彼女の心にかけられた冷たい氷の鍵が、まるで激しい地震に遭ったかのように、凄まじい勢いでガタガタと震え、ひび割れそうになっている驚愕の衝動だった。
「……お、ねえ、ちゃん……?」
啓悟が、彼女の纏う圧倒的な「生と死」の異質な気配と、それ以上に溢れ出る狂おしいほどの温かさに気圧されたように、ぽつりと声を漏らす。
祈はゆっくりと、まるで自分の体が壊れていくのも厭わないような危うい足取りで啓悟に近づくと、その場に静かに膝をついた。
そして、いつもは子どもたちにすら滅多に外さない、あの白いレースのヴェールを、自らの手で躊躇いなく完全に跳ね上げた。
「…ッ」
剥き出しになった、神様すら嫉妬するほどの人間離れした美貌。
彼女がゆっくりと啓悟に手を伸ばすと、一瞬だけ啓悟の体が硬くこわばるのが分かった。
その湖のような瞳が、大粒の涙をボロボロと溢れさせながら、啓悟の小さな体を、その背中の赤い羽を、痛々しそうに見つめていた。
「……よく、がんばって……生きて、いてくださいましたね……」
震える声。
それは、死んだ神父の命令を実行するだけの自動人形の言葉ではなかった。
彼女自身の魂の底から、過去の自分と同じ「地獄」を見てきた子どもに対して、血を吐くようにして絞り出された、本物の、狂おしいほどの情愛だった。
「あ……」
啓悟の張り詰めていた警戒心が、彼女の放つ凄まじい抱擁感によって、一瞬にして決壊するのが分かった。
ガキの目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。
祈はその小さな体を、黒い修道服の中に包み込むように、壊れ物を扱う手つきで優しく、強く抱きしめた。
「もう、大丈夫です。ここには、あなたを傷つける大人も、冷たい機械も、何ありません。……神代の家へ、ようこそ。啓悟くん」
夕日の赤に染まる礼拝堂で、血まみれの過去を持つ女と、泥まみれの過去を持つ子どもが、静かに泣きながら抱き合っている。
「……チッ。なんなんだよ、一体」
俺はポケットの中で拳を握りしめ、ひどく苦い不快感と共に、その光景から目を逸らした。
ほんの退屈しのぎのいたずらのつもりだった。
なのに、俺の『共感層』には、彼女のガチガチに凍りついていた心が、あのガキを前にして「この子を、私の命に代えてでも守る」という、凄まじい熱量の愛で爆発しているのが、痛いほどに流れ込んできていた。
胸のざわつきが、もう無視できないほどに大きくなっていく。
お仕事の枠を、割り切るための境界線を、この『生き神様』はあまりにも簡単に踏み越えていく。
「……本当に、やりづらいったらありゃしない」
俺は吐き捨てるようにそう呟き、二人の泣き声が響く礼拝堂を、足早に立ち去るしかなかった。
筑紫くんはカフェイン中毒です。