「……おねえさん」
目を覚ました祈は、見慣れない白い天井をぽつりと見上げた。
無機質で、どこか静まり返った室内。病院の病室とも、公安の冷たい実験室とも違う、見覚えのない部屋だった。
「……ここは?」
起き上がろうと無意識に両腕に力を込める。
けれど。
「……え?」
身体が思うように動かなかった。
不審に思い自らの手元へと視線を落とすと、祈の両手首には、優しく丁寧な手つきで柔らかな白い布が巻かれていた。それがベッドのフレームへと繋がれ、彼女がこの場所から容易に離れられないよう、軽く固定されていたのだ。
「…………」
痛覚を伴うはずの『ジキルとハイド』の個性を持つ祈だったが、そこに痛みは一切なかった。ただ、自由を奪われた自らの両手首を、ヴェールのない素顔のまま、不思議そうにじっと見つめる。
そのときだった。
カチャリ、と静かな音を立てて部屋の扉が開く。
「おはようございます、おねえさん」
入ってきたのは、見慣れた金髪の青年――ホークスだった。
その背中にある剛翼は、何に脅かされることもなく、穏やかに静止している。
「……啓悟くん?」
「はい」
ホークスは、いつもの飄々とした笑みを浮かべていた。
けれど、祈はほんの少しだけ首を傾げる。彼のその笑顔の裏に、酷く脆くて壊れそうな、ひび割れた焦燥のようなものが張り付いている気がしたからだ。
「これは……どういうことでしょう?」
「どういうことって?」
ホークスはベッドのすぐ横に丸椅子を引き、そっと腰掛けた。
「おねえさんが、ここから勝手に出ないようにしてるんですよ」
「……なぜ?」
「俺がそうしたかったから」
「…………あの」
「俺と一緒にいるのは嫌?」
「…嫌ではありません、でも」
「でも?」
あまりにも真っ直ぐな独占欲の言葉に、祈は困ったように青い瞳を細めて彼を見た。
「啓悟くん」
「はい?」
「私は、何か悪いことをしましたか? 公安の皆様に、またご迷惑を?」
「してませんよ」
即答だった。ホークスはふっと目を和らげる。
「じゃあ、どうして私をこのような形に……」
「だって」
ホークスは、寂しそうに、けれど狂おしそうに笑う。
「おねえさん、油断するとすぐどこか遠くに行っちゃうでしょう?」
「……?」
「誰かに必要とされて呼ばれたら、自分の都合なんて無視してすぐ行く。
困ってる人がいたら、自分の身体が真っ白な肉塊になろうとも平気な顔をして助ける。自分がどれだけ疲れてて、心がボロボロでも、大丈夫ですって微笑んで、全部一人で抱え込む」
祈は、手首を固定されたまま、彼の悲痛な告白を黙って聞いていた。
「だから、もう」
ホークスの声が、じわりと低くなる。その金色の瞳が、熱い執着を孕んで祈を射抜いた。
「俺のところから、どこにも行かないでください」
「……啓悟くん」
「俺から、離れないでください」
「…」
「ここなら安全ですよ。誰もあなたを傷つけないし、誰かの身代わりになる必要もない」
言われて部屋の中を見渡せば、そこには祈がかつて好んでいた古い装丁の本が並び、いつも病室で飲んでいたお気に入りの紅茶の香りが漂っていた。窓辺には、冬美に貰ったような、綺麗に整えられた淡い色の花束が飾られている。
「必要なものは、全部ここにあります。あなたが外の有象無象のために消費される必要なんて、どこにもない」
「……」
「俺が毎日、任務が終わったら必ずここに来ます。欲しいものがあれば俺が持ってきます……だから、ずっとここにいてください」
ホークスはそっと手を伸ばし、祈の白く滑らかな頬に触れた。その手のひらは、わずかに震えていた。
祈はしばらくの間、その震える彼の手の温もりを頬に感じながら、彼を見つめて。
「……怖いんですか?」
「…………」
「それとも寂しいのですか?」
不意の問いかけに、ホークスの動きがピタリと固まった。
「俺が? 寂しい?」
「はい」
祈は、手首を縛られていることなど忘れてしまったかのように、いつも通りの穏やかな博愛の笑みを浮かべた。
「だから、そんなに余裕のない顔をして、私に傍にいてほしいのかなって思いました。……子供の時の、啓悟くんみたいですね」
「……っ」
ホークスは耐えかねたように、ふいと目を逸らした。
「……ほんと、そういうところなんですよねぇ、おねえさんは」
「?」
「俺がどんなに狂ったことしても、お姉さんは俺を嫌いにならんのやろうなって。……心のどこかで、そう信じ込ませてくる」
「嫌いになりませんよ。あなたが私の自由を願って、どれほど翼をすり減らしてきたか、知っていますから」
「…………」
その、普遍的な精神の欠落ゆえの、どこまでも全肯定で空虚な言葉。
けれど、その温かさに、ホークスの張り詰めていた表情が、泣きそうなほどに崩れていく。
「……ほんと?」
「はい」
「俺がこんな、あなたを閉じ込めるみたいな最低なことしてても?」
「はい」
「ここから逃げたいって、一瞬でも思わない?」
祈は少しだけ、真面目に考えた。それから、自らの手首を繋ぐ柔らかな布を優しく見つめ、そっと微笑む。
「……啓悟くんが、それほどまでに寂しくて、私を必要としてくださるのでしたら。私はいつでも、あなたの重荷の身代わりになりますよ。ずっと、一緒にいます」
「…………」
ホークスは、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。
彼はベッドに突っ伏すようにして、祈の華奢な身体を、壊れ物を扱うような力でぎゅっと抱きしめる。手首が固定されている祈は、それでも残された可動域で、彼の広い背中にそっと優しく両手を回した。
「……ずるいなぁ、おねえさんは」
「どうしてですか?」
「そんなこと言われたら……俺、ほんとにあなたを外の世界に離せなくなる」
「大丈夫ですよ、啓悟くん」
「……うん」
「ここにいます」
「うん」
「ずっと一緒です」
「うん…」
そのまま。ホークスは祈の胸に顔を埋め、彼女を抱きしめ続けた。
外の世界の喧騒も、公安も、ヴィランも、何一つ届かない静かな鳥籠の中で。
ずっと。ずっと――。
――ジリリリリリリ!!! プルルルルルル!!!!
「……う、お……っ?」
枕元でけたたましく鳴り響く、通信端末の無機質な電子音。
それによって、ホークスは重い瞼を無理やりこじ開けるようにして、強引に現実へと引き戻された。視界に飛び込んできたのは、見慣れた自分のマンションの、少し散らかった寝室の天井だった。
白く温かいあの部屋も、甘やかに自分を受け入れてくれたあの人の温もりも、一瞬にして朝の陽光の中に霧散していく。
「…………夢、っすか」
ホークスは寝返りを打ち、シーツに手を伸ばして、けたたましく震えるスマートフォンを掴み取って通話ボタンをタップした。耳元に当てると、受話口の向こうから、彼のスケジュールを管理している事務所のサイドキックの男の、呆れ果てた声が響いてきた。
『もしもしホークスさん?! やっと出た! いつまで寝てるんですか!』
「……あー、すんません。ちょっと、深い夢見とって……」
『深い夢ってなんですか。さっさと起きてください、時間ないんですよ?!今日はテレビ局の取材なんですから!!』
「……いやぁ。ねえ、俺、自分で思うよりだいぶ重症かもしれません」
ホークスはガシッと自らの顔を空いた方の手で覆い、ベッドの上で深くため息を吐き出した。
『今さらですか? 東京から戻ってきて以来、スマホの着信履歴ばかり気にして上の空なことくらい、とっくに事務所の全員が知ってますよ。いいから早く身支度してください!』
「え、それどういう意味です? 電話越しにそんな冷たいこと言わないでくださいよ、俺の繊細なメンタルに響くでしょ」
『知りませんよもう! 車はもう下に回してあるので、五分以内に降りてきてください!』
ツッ、と一方的に通話が切られ、寝室に静寂が戻る。
一人ベッドの上に取り残されたホークスは、シーツのシワを凝視した後、バサッと枕に顔を埋めた。
「……何考えてるんだ、俺は、ほんとに……」
夢の中の祈の顔を思い出す。
手首を縛られているというのに、我が儘を言う自分を責めることもせず、ただ愛おしそうに笑って、背中に手を回してくれた。
「……なんて怖い夢なんだ」
小さく、誰もいない部屋に呟く。
彼女を自分の手で檻に閉じ込めてしまうという、自らの内に潜むどす黒い独占欲への恐怖。
けれど、ホークスは少しだけ間を置いて、自らの胸元をそっと押さえた。
「……でも、めちゃくちゃ嬉しい」
彼は、自らの割り切れない矛盾と面倒くささに、呆れたような自嘲の笑みを浮かべた。
外の明るい陽光が差し込む窓を睨み、それから壁の時計へと視線を向ける。
「……って、やばっ! 予定の時間すぎとる!」
慌ててベッドから跳ね起きる。
「夢の中で軟禁しとる場合じゃないって、ほんとに!」
ホークスは急いで洗面台へと向かい、私服のコートを手に取って身支度を始める。
鏡の向こうの彼の顔には、いつもの、飄々としたトップヒーローとしての明るい笑顔が、完璧に戻っていた。