雑踏の放つ喧騒は、どれだけ耳を塞いでも頭の芯を泥のように汚していく。
夕暮れ時の街並みは、どこか血の混じった泥水のような色をしていた。行き交う人々は皆、一様に整えられた「普通」という仮面を貼り付け、記号化された日常を消費している。
その歪な調和の中に、彼女――トガヒミコはぽつんと取り残されていた。
(好きな人のことを、考えていた)
胸の奥で、じくじくと疼くような熱がある。
思い浮かべるのは、自分が「好き」になった人のことだ。弾けるような笑った顔。耳に心地よく残る声。何気ない仕草のすべて。そのすべてが愛おしくて、眩しくて、そして――堪らなく、壊してしまいたくなる。
その人の皮膚を切り裂き、溢れ出る温かい血をこの唇で吸い尽くしたい。
その人のすべてを自分の中に流し込み、その人そのものになってしまいたい。
けれど、そんな血塗れの衝動を抱く自分が、周囲の人間とは決定的に異なる「おかしい生き物」なのだということくらい、義務教育の過程で嫌というほど理解させられていた。
世界が定義する「普通」の枠組みに、自分の居場所はない。だから、普通の女の子のようになす術もなく、想いを告白することなんて、できっこなかったのだ。
「……ん?」
思考の海に沈んでいたトガの視界に、ふと、一人の男の姿が滑り込んできた。
少し気怠そうに細められた両眸。無造作に伸ばされ、整えられているのかいないのか判別がつかない黒髪。周囲の人間を警戒する風でもなく、かと言って無防備というわけでもない。片手には、どこにでもあるコンビニのビニール袋をぶら下げて、ただ、だらだらと歩いている。その男の立ち姿を見た瞬間、トガの胸に小さな火花が散った。
(――かっこいい)
本当に、ただそれだけの直感だった。
理由などない。彼がヒーローのように輝かしいオーラを放っていたわけでも、誰もが振り返るような美形だったわけでもない。むしろ、街の背景に溶け込む泥のような陰気さすらあった。そして、かなり年上だ。三十路くらいだろうか。
けれど、トガの目はどうしても彼から離れられなかった。彼女の鋭敏な本能が、その男の奥底に眠る「普通ではない何か」を察知していたのかもしれない。
視線に気づいたのだろう。男の歩調が不意に緩み、その顔がまっすぐトガの方を向いた。
目が、合ってしまった。ガラス玉のような、底の知れない冷徹さを孕んだ瞳。トガは心臓を跳ね上げ、慌てて視線を斜め下の地面へと逸らした。
「……あ」
「ん? 俺?」
男は自分の胸元に人差し指を向け、億劫そうに首を傾げた。
トガは完全に硬直していた。衣服の下でじっとりと嫌な汗が滲む。男の足音が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「なに、知り合い?」
「ち、違います!」
裏返った声で否定しながら、トガは小さく肩を竦めた。またやってしまった、と胸の中で自己嫌悪が渦巻く。自分のような異常者は、こうして大人しく息を潜めているべきなのに。
「そっか」
しかし、男の反応はひどく淡白なものだった。不審がる様子も見せず、あっさりと頷くと、そのままトガの横を通り過ぎようと足を動かす。
その背中が遠ざかっていくのを見た瞬間、トガの胸の中で、何かが弾けた。引き止めなければならない。この機会を逃せば、自分は二度と「普通」の皮を被ることすらできなくなるかもしれない――そんな根拠のない焦燥感が、彼女の喉を突き動かした。
「あのっ!」
「ん?」
男が足を止め、億劫そうに振り返る。その気怠げな視線を受け止めた瞬間、トガは思考を放棄して、心臓の奥に溜まった澱みをすべて吐き出すように叫んだ。
「……好き、です!」
夕暮れの路地裏に、少女の場違いな告白が響く。
「……は?」
男は呆然としたように口を半開きにした。
言ってしまった。初対面の、名前すら知らない相手に。何を言っているのだろう、私は。
トガは自分の頭の狂いっぷりに眩暈を覚えながら、顔を真っ赤に染めて俯いた。視界が急速に狭くなり、自身の呼吸音だけが耳障りに大きく聞こえる。
「ご、ごめんなさい……! あの、違うんです、違わないけど……っ!」
「いや、待て待て」
男は困ったようにガシガシと頭を掻いた。ビニール袋から、カサリと安っぽい音が鳴る。
「お嬢ちゃん、いくつか聞いていい?」
「……十六、です」
「女子高生かぁ……」
男はあからさまに眉根を寄せ、やれやれと溜息をついた。その表情には、年端もいかない少女に迫られた大人の困惑が正しく浮かんでいるように見えた。
「俺、ロリコンじゃねーからなぁ……」
「……っ」
胸の奥が、冷たい氷で満たされていくような感覚。
やっぱり、そうだ。そうだよね。こんな唐突で、気持ちの悪い自分を真っ当に受け止めてくれる人間なんて、この世界のどこを探してもいるはずがない。
トガが諦めと絶望に身を委ね、その場から逃げ出そうとした、その時だった。
「で?」
「……え?」
「血、吸いたいんだろ?」
低く、地を這うような落ち着いた声が、トガの鼓膜を震わせた。
トガは弾かれたように顔を上げた。男の視線は、彼女の顔ではなく、その手元――きつく握りしめられ、微かに震える指先へと向けられていた。
男――筑紫は、内心で冷徹に目の前の少女を観察していた。
彼の脳内には、自身の個性『共感層』によって、少女の精神から溢れ出たドロドロとした感情が流れ込んできていた。常人であれば精神を病みかねないほどの、純度の高い「血への飢餓」と「他者への同化欲求」。
(――見つけた)
筑紫の胸中で、元公安職員としての計算と、「神代祈」への執着が瞬時に噛み合った。この少女の個性は、おそらく血液の摂取、あるいはそれによる変身の類。そしてその精神は、社会のシステムによって完全に摩耗し、限界を迎えている。
神代祈の役に立つ手駒として、これ以上なく都合の良い「壊れた逸材」が、向こうから転がり込んできたのだ。筑紫の目は、獲物を品定めする肉食獣のそれへと変わっていた。
しかし、トガはその冷酷な本質に気づかない。
「……なんで、それを」
「いや、なんとなく」
筑紫は表情から一切の冷徹さを消し去り、再び元の気怠げな男の仮面を被った。コンビニの袋を持ち直し、わざとらしく首を傾げる。
「普通の告白じゃねーなと思ってさ。指先、血が滲むくらい握りしめてるし。……で、どうなんだ? 血を吸いたいのか?」
「……!」
トガの身体が小さく震えた。
恐怖と緊張で、奥歯がガチガチと鳴る。否定される。化け物だと罵られる。気持ち悪いと吐き捨てられて、警察に通報されるか、あるいは恐怖のあまり逃げ出される。これまでの短い人生で、何度も予感してきた最悪の結末が、いよいよ現実になるのだと確信した。
だから、彼女は消え入るような声で、ただ事実を肯定することしかできなかった。
「……はい」
世界から拒絶されるのを待つように、トガは目を瞑った。
けれど、筑紫から返ってきたのは、あまりにも拍子抜けするほど普通の、日常の挨拶と変わらないトーンの声だった。
「それならいいぜ」
「…………え?」
トガは、自分の耳を疑った。今、この人は何と言ったのだろう。
「だから、血、吸いたいんだろ? いいぜって言ったんだ」
「……いい、んですか? 本当に……?」
「おう。ただし、俺が嫌だって言ったら絶対にやめろ。あと、勝手に他の奴から吸うな。そっちの制限は絶対だ。それさえ守るなら……俺からなら、まあ、いくらでもいいぜ」
トガは完全に呆然とした。目の前にいる男が、急に未知の言語を話し出したかのような錯覚さえ覚える。
「……気持ち悪く、ないんですか?」
溢れ出そうになる疑問を、トガは絞り出すように口にした。
「は?何が?」
「だって、血を吸いたいんですよ……? 普通の人は、そんなこと思わない。人の血が、どうしても欲しくなるんです。好きな人の血を吸って、その人そのものになりたくて……そんなの……」
「ふーん」
筑紫は興味なさそうに鼻を鳴らした。
「……変、ですよね? 私、やっぱりおかしいですよね……?」
縋るようなトガの視線を、筑紫は真っ正面から受け止めた。その瞳の奥にあるのは、同情でも嫌悪でもない。ただ、冷徹に事実を事実として受け入れる、絶対的な平熱の精神だった。
筑紫は困ったように小さく笑い、少女の頭を軽く小突くように言葉を紡いだ。
「別に。欲しいもんがあるのは、変じゃねーだろ」
「……!」
「人間、腹が減ったら飯を食いたくなる。それと同じだろ。まあ、やり方は考えなきゃいけねーけどな。腹が減ったからって、店の商品を勝手に持って帰ったら犯罪だ。それと同じで、ルールさえ作れば、お前のそれもただの性質だろ」
トガは、大きく目を見開いた。
これまで誰一人として、彼女の渇望を「ただの性質」として扱ってくれる者はいなかった。皆が腫れ物を触るように遠ざけるか、あるいは矯正すべき異常として彼女を精神的に圧殺しようとしたのだ。
「……じゃあ」
「ん?」
「私が、こういうのを……こういうのを、好きでも……?」
「お前がそれを好きなんだろ?」
「……はい」
「なら、好きなんだろ。他人がどうこう言う筋合いじゃねーよ」
あまりにも簡単に、世界がひっくり返るような言葉が告げられた。
ずっと、誰にも言えずに胸の奥に閉じ込めていた。自分の中から毟り取って、捨て去ってしまいたかった、呪いのような飢餓。それを、この男は、まるで夕飯のメニューを決めるかのような軽さで肯定してみせた。
「……嫌いに、ならなくていいんですか?」
トガの声が微かに震える。
「自分のこと?」
トガは小さく、けれど確かに頷いた。
筑紫は再び頭を掻き、視線を少しだけ上に向けてから、もう一度トガの瞳をじっと見据えた。まずはこの少女の心を完全に掌握する。冷酷な打算が、最も効果的な言葉を正確に選び出していた。
「そりゃ、俺にはお前の全部が分かるわけじゃねーけどさ。……自分のこと、そんなに嫌いにならなくてもいいんじゃねーの。お前がお前を嫌ってどうすんだよ」
その言葉が、トガの心の防波堤を完全に粉砕した。
視界が急激に滲み、熱い涙がボロボロと頬を伝って流れ落ちる。
「……っ、う、あ……」
「おっと」
筑紫はわざとらしく慌てた様子を見せ、一歩後ろに下がった。
「え、泣く? 俺、なんかまずいこと言ったか?」
トガは激しく首を振った。何度も、何度も、首がちぎれんばかりに拒絶のジェスチャーを繰り返す。
「ちが……っ、違います……!」
「そ、そうか?」
「……嬉しい、です。私、生まれて初めて……そんなこと、言ってもらえました……っ」
しゃくり上げ、子供のように泣きじゃくるトガを見て、筑紫は口元にわずかな、しかし冷たい満足感を宿した。計画通りだ。この少女はもう、自分から離れられない。
筑紫は困ったような笑みを貼り付け直すと、自身の細い手首を覆う袖を、躊躇いなく捲り上げた。白い皮膚の下に、青い静脈が透けて見えている。
「そりゃよかった。……で、どうする? 吸うんだろ? ほら」
差し出された腕。トガはその腕を、まるで世界で最も価値のある宝物を見るかのような、恍惚とした目で見つめた。
「……本当に? 本当に、いいの……?」
「おう。本当に」
「……痛く、しちゃうかもしれないよ?」
「痛すぎたら叩くけどな」
「……ふふ、あははっ」
トガは涙を流しながら、狂おしいほどの歓喜に満ちた笑顔を浮かべた。
そして、そっと筑紫の腕にしがみつき、その冷たい皮膚に自身の指先を這わせる。おねだりをする子供のように、そっと尖った犬歯を彼の肌へと押し当てた。
(あぁ……いいんだ。本当に、吸ってもいいんだ)
躊躇いは一瞬。次の瞬間には、トガの牙が容赦なく筑紫の肉を突き破っていた。
ぷつり、という肉の爆ぜる感触と共に、トガの口腔へ熱い液体が溢れ出す。
「――っ、は、ァ……!」
トガの背筋を、未だかつてない極上の戦慄が駆け抜けた。
口内に広がるのは、ひどく純度の高い、そして奇妙なほど「静か」な血の味だった。
普通、人間の血にはその時々の感情が混ざる。恐怖、焦燥、あるいは興奮。けれど、筑紫の血は驚くほど平熱で、どこまでも澄んだ冷たさを帯びていた。まるで冬の底に沈む凍てついた湖のようだ。鉄の味が舌を痺れさせると同時に、彼の本質――元公安としての冷徹さと、その奥に潜む、ある一人の女性への狂信的なまでの忠誠心が、ダイレクトにトガの脳髄へと流れ込んでくる。
(冷たくて、重くて……でも、すっごくあったかい……!)
トガは夢中で喉を鳴らし、彼の腕に吸い付いた。ゴクリ、ゴクリと音を立てて、世界で一番欲しかった「肯定」を飲み干していく。筑紫の『共感層』がトガの恍惚を読み取っているように、トガもまた、彼の血を通じて筑紫の深淵に触れていた。
普通の人間なら恐怖するはずの、闇に染まった男の血。それが、トガにとってはどんな極上の甘味よりも愛おしく、美味に感じられた。
筑紫の皮膚を伝う、吸いきれなかった一滴の鮮血が、トガの顎を伝って赤く尾を引く。
トガの視界は、快楽と幸福感でチカチカと白く明滅していた。自分が筑紫に混ざり合っていく。彼の体液が自分を満たしていく。その圧倒的な充足感に、心臓が壊れそうなほど激しく脈打つ。
「……ふ、ぅ、はぁ……っ」
しばらくして、トガは名残惜しそうに、けれど満足そうに筑紫の腕から唇を離した。
彼女の唇は、筑紫の血で濡れて妖しく輝いている。その顔は、まるで最愛の恋人と結ばれたかのように赤らみ、完全に蕩けきっていた。
「……好きです。あなたが好き」
「はいはい。まずは落ち着け」
筑紫は自分の腕に残された生々しい歯形と、そこから滲む血を視線を落として眺め、それから何でもないことのようにポケットからハンカチを取り出して傷口を押さえた。眉一つ動かさないその平然とした態度が、トガにはさらに堪らなく愛おしい。
「大好きです!」
「だから初対面だろうが、お前。……まぁ、それだけ美味そうに食ってくれたなら、提供した甲斐もあったかね」
筑紫は呆れたように笑ってみせた。けれど、その瞳の奥には、狙い通りに少女を手中に収めた、冷酷な観察者の光が静かに灯っていた。
「別にお前のためじゃねーよ」
「それでも嬉しかったんです!!!」
筑紫はツンデレ。