放課後の演習場。
西日が差し込む広大なフィールドには、どこか張り詰めた、しかし同時にどこか牧歌的な空気が漂っていた。
今日の授業は、教師による実戦形式の個別模擬戦。
とはいえ、これは生徒を叩きのめすためのものではない。「仮想の敵が自身の個性をどのように解釈し、戦闘においてどのように応用しているか」を実演してみせる、いわば生きた手本を示すためのカリキュラムだった。
祈は戦闘要員ではなくただの救護員だが、「未知数の個性を持つ相手に対する戦闘の見本」として、首輪の上限に触れない範囲での戦闘を許可されたのであった。
「よろしくお願いします、神代先生」
フィールドの中央で、常闇踏陰が静かに頭を下げた。
彼が対峙するのは、雄英高校の救護員であり、その素性の多くが謎に包まれている女性――祈。彼女はいつも通りの穏やかな微笑みを湛え、円環のついた金属製の杖を片手に、ごく自然体で佇んでいる。戦闘用のコスチュームを身に纏ってなお、彼女からは戦場特有の血生臭さが一切感じられない。それが逆に、常闇には底知れない不気味さとして映っていた。
「こちらこそ。よろしくお願いしますね、常闇くん。怪我をしないよう、お互いに気をつけていきましょう」
祈の声が響くと同時に、演習の開始を告げるブザーがけたたましく鳴り響いた。
「――行け、ダークシャドウ!」
常闇の咆哮と共に、彼の身体から漆黒の質量が爆発的に噴き出した。
常闇の影から産み落とされた自律駆動型の個性――『黒影』。それは日中の光による減衰を補って余りあるほどの質量と速度を持って、一気に祈へと襲いかかった。
「アイヨ――!」
悪魔のような相貌をした黒い影が、空気を引き裂きながら祈の視界を埋め尽くす。
対する祈は、焦る風もなく手にした杖を静かに構えた。その双眸が、迫り来る黒影のサイズと質量を冷徹に測定する。
「……大きいですね。日中でありながらこれほどの出力を維持できるのは、常闇くん、あなたの基礎体力の賜物でしょう」
「油断するな、ダークシャドウ! 相手は一筋縄ではいかん!」
「オウヨ!」
黒影の巨大な腕が、容赦なく祈の頭上から振り下ろされた。
まともに喰らえば骨の数本は容易に砕ける一撃。しかし、祈は衝突の直前、まるで最初からそこに攻撃が落ちることを知っていたかのような軽やかな動きで、横へとステップを踏んで避けた。
ドゴォン! と凄まじい轟音が響き、祈が先ほどまでいた地面が蜘蛛の巣状に粉砕される。
「……!」
即座に第二波。黒影は鋭い爪を閃かせ、逃げ道を塞ぐように横薙ぎの払いを繰り出してきた。
祈はそれを避けるのではなく、手にした杖の側面で黒影の爪の軌道をわずかに逸らし、その威力をいなす。キィン、と硬質な音が響く。彼女は衝撃を躱しながら、流れるような動作で後方へと跳び、距離を取った。
「速い……! それに、あの受け流し、まるでこちらの力を利用しているようだ……」
常闇は鋭い目をさらに細め、祈の身のこなしを分析する。無駄が一切ない。彼女の戦闘スタイルは、個性の出力に頼ったものではなく、洗練され尽くした体術と合理性に基づいていた。
「…先生。質問だ。あなたは私のダークシャドウに、直接干渉できるのか?」
常闇の問いに、祈は自身の薄い唇に人差し指を当て、少しだけ首を傾げた。
「……そうですね。私の個性の本質は別のところにありますが、応用として……少し試してみましょうか」
言うが早いか、祈の身体が揺らいだ。
一瞬で距離を詰めてきた祈に対し、常闇は即座に黒影を防御に回そうとする。しかし、祈の目的は常闇への攻撃ではなかった。彼女は、目の前を遮る黒い影――ダークシャドウそのものに向けて、白く細い手をそっと伸ばしたのだ。
彼女の手の平が、黒影の体表に触れる。
その瞬間。
「――っ!?」
ダークシャドウの巨体が、まるで高電圧の電流を流されたかのように、激しく痙攣した。
苦悶の声をあげることすらできず、黒い霧のような身体が激しく波打ち、一瞬だけその輪郭が霧散しかける。
「何っ!?」
常闇が驚愕の声をあげる。自らの魂の一部でもある黒影が、これほど明確に「拒絶反応」を示したのは初めてだった。光による減衰とは違う。
今、黒影を通じて常闇の精神に流れ込んできたのは、ひどく冷酷で、悍ましく、すべてを暴力的にすり潰すような「悪意」の塊。いつも聖母のように微笑む祈の奥底に隠された、もう一つの人格――『ハイド』の片鱗だった。常闇の精神を侵食しかねないその凶悪な気配に、黒影は本能的な恐怖を覚えたのだ。首輪が反応しない一瞬だけだというのに―――
祈もまた、ほんの少しだけ目を見開いていた。
彼女の脳内では、個性『ジキルとハイド』のスイッチが、黒影の異質な構造に触れて微かに揺らいでいた。
「……なるほど」
「どうした、ダークシャドウ!? 何が起きた!?」
常闇の呼びかけに、ダークシャドウは震えながらも、どうにか祈の手を振り払うようにして後退した。
「変ナ感ジガシタ!!死ンデルミタイナ…変ナ感ジ!!」
「ふふ。取り乱させてしまってごめんなさいね」
祈は静かに手を離し、衣服についた見えない埃を払うようにパタパタと手を振った。その表情はいつもの『ジキル』としての、穏やかな微笑みに戻っている。
「どうやら、普通の生命活動とは少し違うようです。私の個性は、通常の生物の心音や細胞、その精神のバランスに同調して干渉するものなのですが……ダークシャドウくん、あなたにはそれがない。精神の塊でありながら、独自の自我を持っている」
常闇は息を呑んだ。一瞬触れただけで、黒影の構造をある程度見抜いたというのか。
「つまり……私の『ハイド』による直接的な精神干渉や崩壊は、あなたにはあまり効かないということです」
「ならば……!」
常闇の瞳に闘志が宿る。直接干渉が効きにくいのであれば、純粋な質量とパワーの勝負で押し切れる可能性がある。
「ダークシャドウ! 最大出力だ!」
「応ヨ! 押シ切ッテヤルゼ!」
常闇の指示を受け、ダークシャドウがその身体をさらに数倍へと膨れ上がらせた。演習場の西日を遮るように、巨大な闇の幕がフィールドを覆い尽くしていく。
周囲が急速に暗転し、光を嫌う黒影のパワーが爆発的に跳ね上がる。黒い嵐のような質量が祈を飲み込み、彼女の華奢な姿は完全に闇の底へと見えなくなった。
「神代先生!」
常闇が叫ぶ。その声は、勝利を確信したものではなく、どこか安否を気遣うようなものだった。手本を見せる模擬戦としては、少し出力を上げすぎたかもしれない、という懸念。
しかし、闇の中から返ってくる声はなかった。
「……?」
ダークシャドウが怪訝そうに周囲の闇を探る。手応えがない。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。
その瞬間――巨大な闇のカーテンを切り裂いて、天から一筋の「黒い光」が真っ直ぐに落ちてきた。
それは、祈の『ハイド』の破壊衝動を、最小限の力で指向性を持たせて放った一撃。
「―――鉄槌」
祈のひどく静かな呟き。
直後、個性の枠を超えたような、絶対的な暴力を凝縮した轟音が演習場に炸裂した。
光を放つ漆黒のエネルギー体。それはダークシャドウの巨大な身体ではなく、常闇踏陰の、わずか数十センチ真横の地面へと正確に着弾したのだ。
ドォン!!!
凄まじい衝撃波と爆風がフィールドを吹き荒れる。地面の土砂が文字通り消し飛び、突風となって常闇の身体を容赦なく打ち据えた。
手加減されてなお、そこに込められた『ハイド』の純粋な「破壊の性質」に、常闇の全身の毛羽が恐怖で逆立つ。
「ぐ、うっ……! ?」
あまりの衝撃に、常闇の足が地面から離れ、その身体が大きく後ろへと吹き飛ぶ。
主人がバランスを崩したことで、連動していたダークシャドウの供給線が一瞬だけ揺らぎ、巨大な影の身体が常闇の元へと引き戻されるようにして縮小した。
その、わずかな空白。
爆煙を割って、祈の姿が音もなく滑り込んできた。
彼女の衣服にはチリ一つついていない。吹き飛ぶ常闇の視界に、彼女のどこまでも穏やかな、しかし絶対的な強者の佇まいが映る。
「常闇くん」
気がついた時には、常闇の視界は完全に制圧されていた。
すとん、と軽い感触と共に、祈の持つ杖の先端が、仰向けに倒れかけた常闇の胸元へとピタリと突きつけられる。それ以上動けば、文字通り心臓を貫くと言わんばかりの、完璧なチェックメイト。レースのヴェール越しに、祈りの青い瞳と常闇の目が合った。
「……ここまで、ですね」
演習場に、試合終了を告げる長いブザーが鳴り響いた。
常闇は仰向けの姿勢のまま、しばらく呆然と天を仰いでいた。胸元に触れる杖の冷たさだけが、現実の敗北を告げている。
「……見事だ。……だが、先生。一つ、訊ねても?」
「ええ、何でしょう?」
祈は杖を引き、常闇に手を差し伸べた。常闇はその手を取り、ゆっくりと身体を起こしながら、自身の疑問を口にする。
「先ほどの『鉄槌』……あれは、ダークシャドウを直接狙えば、私へのダメージもなく完全に無力化できたはずだ。なぜ、あえて私自身の真横を狙った? 一歩間違えれば、私自身が吹き飛んでいたはずだ」
祈は、ふふ、と悪戯っぽく微笑んだ。その表情は優しさに満ちている。
「ダークシャドウくんは、常闇くん、あなたから完全には切り離せない存在です。先ほど触れて分かりましたが、彼の力の源はあなたの精神力そのもの。ならば、相性の悪いダークシャドウくんを直接私の『ハイド』で壊してしまうよりも――」
祈は差し出した手を引っ込め、自身の顎に指を当ててみせる。
「本体である常闇くん自身の動きを、衝撃で止めてしまった方が早いでしょう? 個性の使い方を手本として見せるなら、『敵の強みに付き合わない』こと。それが一番の合理性です」
常闇は少しだけ目を見開いた。
自身の持つ『ジキルとハイド』という、扱いを一歩間違えれば大惨事を引き起こす二面性の個性を、ここまで完璧に制御し、戦闘のピースとして使いこなしている。その卓越した戦術眼と、躊躇いのなさに、常闇は深い感銘を覚えざるを得なかった。
「……完全に、こちらの思考の先を行かれていたな。脱帽だ」
常闇が静かに頭を下げると、彼の背後から小さくなったダークシャドウが、不満そうに、けれどどこか気まずそうに顔を出して唸った。
「負ケタノカ……? アノ黒イ光、スッゲエ怖カッタゾ……」
「ああ、完敗だ。俺たちの連携が、一瞬の隙を突かれた」
「……悔シイ」
常闇が静かに拳を握りしめる。その瞳には、敗北の悔しさだけでなく、次なる成長への確かな渇望が宿っていた。
祈はその様子を見て、本当に嬉しそうに目を細めた。
「でも、常闇くん」
「何だ?」
「ダークシャドウくんを、単なる『便利な能力』や『道具』としてではなく、ちゃんと一人の独立した相棒として、尊重して扱っているところ」
祈は一歩近づき、常闇と、その背後でパチクリと目を丸くしているダークシャドウを交互に見つめた。
「とても素敵だと思います。自分の内にある『影』や二面性を恐れず、自分自身として愛せるヒーローは、きっと強いですよ」
その言葉は、自身の内なる闇やダークシャドウの暴走に葛藤を抱えてきた常闇の胸に、深く、温かく染み渡っていった。『ジキルとハイド』という究極の二面性を抱える祈だからこそ、その言葉には絶対的な説得力があった。
常闇は少しだけ沈黙し、それから衣服の襟を正して、心からの敬意を込めて言った。
「……ありがとう、神代先生」
ダークシャドウも、祈の言葉に嬉しくなったのか、常闇の肩のあたりでぶんぶんと激しく首を縦に振った。
「褒メラレタ!!先生、俺ノコト『素敵』ダッテ!」
「お前が喜ぶな、恥ずかしい」
「ダッテ嬉シインダモン!」
「……ふっ」
相棒の現金な態度に、常闇の口元がほんの少しだけ、和らいだように緩んだ。
その、年相応の少年らしい微笑みを見ていた祈もまた、夕暮れの演習場に、静かで穏やかな笑い声を響かせるのだった。