白を基調とした病室には、独特の匂いがある。消毒液の冷たい香りと、どこか時間の流れが淀んでしまったかのような静寂。しかし、その日の病室には、いつもとは違う奇妙な熱気が、テレビの液晶画面から容赦なく流れ込んできた。
画面の中で華やかに催されているのは、『ヒーロービルボードチャートJP』の生放送。
かつてその頂点に不動の「象徴」として君臨していた男は、祈のベッドの傍らに置かれたパイプ椅子に腰掛けていた。八木俊典。オールマイトと呼ばれた男は、鋭い視線をじっと画面に向けている。
『――それでは発表いたします! 栄えある、ヒーロービルボードチャートJP下半期! 第2位は……!』
アナウンサーの興奮した声と共に、画面に映し出されたのは、あまりにも若い一人の男の姿だった。
背中に生やした鮮やかな剛翼。どこか挑戦的で、同時に全てを諦観したかのような、ひどく整った顔立ち。九州を拠点に、恐るべき速度で事件を解決し続ける「速すぎる男」――ホークス。
彼は壇上でマイクを握ると、いつも通りの軽い、しかし芯に冷徹さを秘めたトーンで、世間を挑発するようなスピーチを始めた。
『俺は支持率とか気にしないタマなんで、正直2位とかどうでもいいんすよね。まぁ、先輩方がお堅いこと言ってる間に、俺は俺の仕事を淡々とこなすだけっつーか』
テレビの中のホークスは、あえて波風を立てるように言葉を並べていく。その生意気とも取れる態度に、会場からはどよめきが漏れていた。しかし、画面を見つめる祈の隣で、俊典はふっと息を漏らすように、その大きな身体をわずかに揺らして、どこか遠い目できつく唇を結んだ。
「ホークスくんは……あんなことを言う子だったんだね」
俊典の声は低く、地を這うような重みがあった。世界を一人で支えていたその巨躯には、未だ「象徴」としての絶対的な影が張り付いている。
「ええ。昔から、意地っ張りで…。でも、誰よりも周りをよく見ている、優しい子ですよ。……少し、無理をしているようには見えますけれど」
「無理、か。そうだな……彼は急ぎすぎている。まるで、迫り来る何かに追いつかれまいとするかのように」
俊典が鋭い目をさらに細めた、その時だった。画面の中のホークスが、マイクを握り直し、その本音を世間に叩きつけた。
『俺が欲しいのは、ヒーローが暇を持て余す世の中です。ヒーローがやることなくて、暇すぎてあくびでもしてるような、そんな世界。それを俺たちの代で作りたい。……なんなら、俺より前にいるエンデヴァーさんには、もっとシャキッとしてもらわないと困るんすよね』
会場の空気は完全に凍りついていた。No.1となったエンデヴァーへの公然たる煽り。けれど、その言葉の根底にある「理想」に触れた瞬間、祈の手が、お茶を注ぐ動きを一瞬だけ止めた。
ヒーローが、暇を持て余す世界。誰も傷つかず、誰も血を流さず、誰も「誰かのために自分を犠牲にする」必要のない世界。
「……ヒーローが暇な世界、私は良いと思いますよ」
祈は淹れたてのお茶を俊典の前のテーブルに置きながら、心からの実感を込めて呟いた。その声は、どこか切なる願いが混ざり合っていた。
祈にとって、その言葉は救いそのものだった。ホークスが、そんな優しい未来を望んで戦っているのだと知れたことが、何よりも愛おしかった。
「そうだね」
俊典は祈を見上げ、その大きな、厚みのある手でお茶の湯気を受け止めながら、少しだけ口元を緩めた。
「私も、そんな世界が来ればいいと思うよ。ヒーローが戦う必要のない世界。私が『平和の象徴』として走り続けた先に、そんな景色が待っているのだとしたら……私の歩みにも、少しは意味があったのかもしれない。……いや、そうであらねば困る」
俊典の言葉には、引退したことへの寂しさや未練以上に、祈という存在に対する重い執着と、彼女と共に「ヒーローが暇でいられる世界」という理想の終着点を共有できたことへの、どこか狂気を孕んだ穏やかな充足感が満ちていた。
祈は静かに頷き、自身の衣服の袖を少しだけ整えた。
「……私、本格的に退院に向けて動こうと思っています」
「もう、退院できるのかい?」
「ええ。少しずつですが、検査の数値も安定してきましたから。もちろん、まだ公安の管理下に置かれている身ではありますが……それでも、以前よりは『自分の人生を選ぶ』許可をいただけるようになりました」
それは、祈にとっても、そして彼女を取り巻く歪な環境にとっても、小さく、しかし確かな一歩だった。六年もの間、自由を奪われ、誰かのための「道具」として扱われてきた彼女が、自らの意志で一歩を踏み出しようとしている。
俊典は深く何度も頷いた。
「もし君が外へ出るなら私も嬉しい。君がこれ以上傷つかない世界を、私も望んでいる」
「ありがとうございます、俊典さん。……少しだけ、行きたい場所があって」
やがて生中継が終わり、天気予報のニュースが流れ始める。
「…祈くん」
「はい、どうしましたか?」
「私は君を守りたいと思っているが、この気持ちは君にとって迷惑なのだろうか…」
誰に何を言われたのか分からないが、目の前で項垂れる俊典に祈は優しく声をかけた。
「迷惑などではありません。むしろ嬉しいです」
「本当かい?」
「はい。…でも、あまりお姫様のように扱われるのは…その、慣れませんから、控えていただけるとありがたいですね」
「…ははは、それはちょっと難しいかもしれないな。まぁ、善処するよ」
俊典は乾いた笑みを浮かべると、パイプ椅子から腰を浮かばせた。
「先の予定に、B組と合同戦闘訓練があるんだが、その時までに完全に退院できるようなら、祈くんにも学校へ来てもらいたいんだ」
「ええ、それはもちろんです。私にお手伝いできることがあれば喜んで」
「…あくまで救護員として、だからね?無茶はダメだからね?」
「大丈夫ですよ」
「君の『大丈夫』はあまり信用できないんだよ…」
「ふふ、今までよりも出来ることが増えるので、問題ありませんよ」
「本当かなぁ。無茶する前私に相談して欲しいな」」
「分かりました」
「うん、じゃあ私は一旦学校に戻るからね」
そう言って、俊典は病室を出て行った。
「心配性ですね」
俊典の背中を見送った祈はそう言うと、ベッドの脇に置かれていた、公安から支給された通信端末を手に取った。
その端末にかかる制限は、数日前から劇的に緩められていた。祈は画面を操作し、よく知る臨時の連絡先へと発信する。
数回のコール音。まるで、その着信をずっと待ち詫びていたかのような速さで、通話が繋がった。
『――おねえさん?』
スピーカーから聞こえてきたのは、先ほどまでテレビの中で不敵に笑っていた、ホークスの声だった。テレビの時のような軽薄さは一切なく、どこか緊張し、硬くなった、彼本来の少年のような声。
「こんにちは、けい…ホークスくん。テレビ、拝見しましたよ。ビルボードチャート第2位、おめでとうございます」
『あー……見られてましたか。恥ずかしいな。あんなの、ただのパフォーマンスですよ。大衆ってのは、ああいう分かりやすい刺激を求めてるんで』
電話の向こうで、ホークスが照れ隠しに頭を掻くような気配が伝わってくる。祈はくすくすと小さく笑った。
「でも、あなたの言った『ヒーローが暇な世界』。私は、本当に素敵だと思いました。あなたがそういう世界を作ってくれるのを、楽しみにしていますね」
『……っ、おねえさんがそう言ってくれるなら、あのスピーチをした甲斐もありましたよ』
ホークスの声が、目に見えて柔らかくなる。彼にとって、世間のどんな支持率や称賛よりも、祈からの「肯定」が何よりの報酬だった。
祈は一呼吸置き、ずっと伝えたかった、彼にとって最も重要であろう事実を口にした。
「それから……ホークスくん。私、首輪が外れました」
その瞬間、電話の向こうの空気が、ぴり、とひりついた。
ホークスの息を呑む音が、微かに受話器を通じて伝わってくる。
祈の言う『首輪』。それは、彼女の自由を物理的に縛っていた制御装置のことであり、同時に、公安委員会が彼女を「神代祈」という個人の尊厳を踏みにじり、ただの実験材料として監禁・管理していた、六年間という暗黒の象徴そのものだった。
それが、外れた。
ホークスは、声にならなかった。胸の奥から爆発的な歓喜と、救われたような痛みが同時に込み上げてくる。
『……そう、ですか。外れたんすね。本当に、本当によかった……』
ホークスの声は震えていた。感情を殺す訓練を受けてきたはずの彼が、今、泣きそうなのを必死に堪えているのが分かった。彼は声に出して叫びたかった。「おめでとう」と、「ごめん」と、「やっと自由になれたんだね」と。けれど、公安の耳があるかもしれない環境で、彼はただ、壊れ物を扱うようにその喜びを噛み締めるしかなかった。
「はい。ですので、もしよろしければ……退院の手続きが全て終わりましたら、九州へ行ってもよろしいでしょうか。お祝いを兼ねて、あなたに会いに行きたいのです」
『九州に……? 俺に、会いに?』
「ええ。ホークスくんが忙しくなければ、ですが」
『忙しいわけないでしょう! いつでも、何時でもいいです。おねえさんが来るなら、俺、全部の予定をすっ飛ばしてでも迎えに行きますから』
ホークスの声は、弾むような、純粋な喜びに満ちていた。
二人の会話は、どこまでも穏やかで、優しかった。
『美味い店、たくさん調べておきます。おねえさんはただ、新幹線に乗ってのんびり来てくれればいいですから』
「ふふ、楽しみにしていますね。それでは、また」
『ええ。また後で』
通話が切れる。祈は端末を胸に抱き、静かに微笑んだ。
もうすぐ、普通に会える。
ほんの少し先の未来で、そのささやかな幸福が、あまりにも無残に、迅速に、破壊されることになるなど、この時の祈は知る由もなかった。
◇
数日後。祈は公安の護衛職員を伴い、新幹線に揺られていた。
護衛は俊典ではない。あの日言っていた、B組との合同戦闘訓練の用意をしなければならないらしい。その点、祈はただの救護員だ。しかも公安から派遣されている形のため、正直ずっと学校にいる必要はない。公安職員が近くにいれば、とりあえずの自由行動は許されているのだ。
車窓を流れていく景色は、ビル群から、徐々に緑豊かな地方の風景へと移り変わっていく。首元にはもう、あの冷たい金属の感触はない。ただ、自由という名の、少しだけ心細い軽さがあるだけだった。
祈が新幹線の中で静かに目を閉じ、ホークスとの再会を夢見ていた、ちょうどその頃。
――九州・福岡の賑やかな街並みを、ホークスはいつものようにパトロールを兼ねて飛び回っていた。頭の中は、もうすぐやってくる彼女のことでほぼ一杯だった。…エンデヴァーとのチームアップのための会合があるのだが、今のホークスの頭には半分程度も残っていない。
駅へ続く雑踏のなかで、ホークスはふと足を止めた。
見覚えのある銀色が、人混みの向こうを横切った。
白い肌。細い背中。見間違えるはずのない、あの髪。
「……あれ?」
思わず声が漏れる。
「今のは…いや、まさか」
ホークスは通行人の間から、もう一度その姿を探した。
いた。
少し先の歩道を、ひとりの少女が歩いている。
顔までははっきり見えない。それでも、見間違えようがなかった。
「おねえさん……?」
呼びかけかけて、ホークスは口を閉じた。
おかしい。彼女は今、九州へ向かっているはずだ。自分が見間違えたのか、それとも予定が変わったのか。
考えながらも、視線は自然と彼女を追っていた。
そのとき、少女が顔を上げた。青い瞳が、こちらを向き、目が合った。
ホークスは反射的に片手を上げかけたけれど、少女は何の反応も示さなかった。
ただ一瞬こちらを見て、それから何事もなかったように視線を戻し、歩いていく。
ホークスの手が、宙で止まった。
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
今の、本当におねえさんか?いや、違う。
彼女なら、自分に気づかないはずがない。
たとえ人混みのなかでも、どれほど離れていても、祈はホークスを見つければ必ず気づく。こちらが声をかけるより先に、いつものように丁寧に頭を下げるか、少し困ったように微笑むか。
少なくとも、あんなふうに知らない人間を見るような目はしない。
「……誰だ、今の」
呟いたときには、少女の姿はもう人混みに紛れていた。
ホークスはしばらくその場に立ち尽くし、それから携帯電話を取り出した。
祈に連絡しようとして、指が止まる。
彼女は今、移動中だ。
こんな曖昧な話を伝えても、困らせるだけかもしれない。
それに、もし本当に見間違いだったら。
「……いや、でもなぁ」
ホークスは眉を寄せた。
顔は、確かに祈だった。けれど、あれは祈ではない。彼女をよく知っているからこそ、そう思った。そして、その違和感だけが、いつまでも頭から離れなかった。
『早く会いたいな、おねえさん』
そう純粋に願う気持ちの裏側に、じっとりと張り付いた冷たい違和感。それが、破滅へ向かう前の、彼が抱いた最後の「幸福」だった。
夕刻。祈を乗せた新幹線は無事に博多駅へと到着した。
公安の護衛職員に促されるまま、祈はホークスがあらかじめ指定してくれていた、少し格式の高い、しかし落ち着いた雰囲気の食事処へと移動する。
個室に通され、用意された座布団に静かに腰を下ろす。部屋にはほのかに畳の香りが漂い、窓の外には福岡の美しい夕焼けが広がっていた。
「…まだでしょうか」
祈は手元に置いた時計をチラリと見ながら、穏やかな口調で呟いた。遅れているわけではない。むしろ、祈が少し早めにお店に到着しただけだった。約束の時間までは、まだあと十五分ほどある。
彼は今も、この空の下で、誰かのために「速すぎる男」として走り回っているのだろう。先ほどのスピーチを思い出し、祈の口元には自然と優しい笑みが浮かんでいた。
彼が来たら、まず何を話そうか。首輪が外れたことを、もう一度ちゃんと目を見て報告しよう。そして、あなたの望む「暇な世界」のために、私も何かお手伝いがしたいと、そう伝えよう。
祈の胸は、これまでにない温かい期待で満たされていた。
――しかし。
その穏やかな静寂は、突如として破られることになる。
遠くで、地響きのような不穏な音が鳴り響いた。
ガラス窓が、微かにカタカタと震え始める。最初は、ただのトラックの通行か、あるいは遠くの工事の音かと思われた。しかし、その振動は瞬く間に大きくなり、やがて、人々の悲鳴と、空を引き裂くような爆音へと変わっていった。
「……外が、騒がしいですね」
祈は微笑みを消し、静かに立ち上がって窓の外を見つめた。
夕焼けに染まる街の向こうから、黒い煙がモクモクと立ち上っているのが見えた。人々の「ヴィランだ!」「ヒーローはどこだ!」という絶交にも似た絶叫が、遠くから風に乗って個室の中まで侵入してくる。
平和な時間は、唐突に終わりを告げた。
運命の歯車が激しく噛み合い、狂い始める音が、祈の耳にはっきりと聞こえたような気がした。