退院して、まだそれほど日が経っていない。
長らく祈の身体を物理的に拘束し、公安の管理下にあることの証明でもあった『首輪』が外され、病院から解放されてから、ほんの数日。まだ自宅の空気にも馴染みきっていない、それだというのに。
「福岡へ行ってきますね」
護衛ついでにお茶に誘われた八木俊典は、突然の祈の告白にティーカップを落とした。
まるで、少し先のコンビニまで日用品を買いに散歩へ出かけるかのような、あまりにも淡々とした日常のトーンだった。
「ふ、福岡…?」
その言葉を真っ正面から受け止めた八木俊典は、思わず眉を寄せる。
「はい。ホークスくんに会いに」
「いや、待ってくれ、祈くん」
思わず声が低くなる。
「君はつい先日まで入院していたんだぞ?」
「もう退院しましたから」
「そういう問題ではない!」
俊典は珍しく強い口調になった。普段の彼であれば、祈に対してこれほど感情を剥き出しにすることはない。
向けられた想定外の熱量に、祈が少しだけ目を丸くする。
「まだ本調子ではないだろう。長距離の移動だって身体に負担がかかる。ましてや、今回は――」
そこまで言って、俊典は不意に言葉を濁し、重く口を閉じた。
福岡。九州の地。
プロヒーロー・ホークスの本拠地であり、雄英高校からあまりにも離れすぎている。そこへ、ホークスに会うために、祈が向かうというのだ。
もちろん、祈が完全に一人で放り出されるわけではない。聞けば、首輪が外れたとはいえ、彼女の安全と「万が一の暴走」を監視するため、公安の手配した実力派の護衛職員がぴったりと同行することになっているそうだ。道中でヴィランの襲撃に遭うような危険があるわけではない。
そんなことは、頭では分かっている。合理的に考えれば、何一つ問題はないはずの小旅行。
それでも。
「……私が付き添えればよかったんだが」
ぽつりと、掠れた声が零れる。
引退宣言までしたというのに。トップヒーローとしての第一線を退いたとはいえ、彼は今も雄英高校の教師という肩書きを持っている。生徒たちの指導や、目まぐるしく変わる社会情勢への対応、そして何より「オールマイト」という名前が持つ政治的な影響力を考慮すれば、彼が私用で軽々と本拠地を離れ、九州まで一人の女性の付き添いで新幹線に乗るなど、許されるはずがなかった。
「ですが、俊典さんは雄英のお仕事がありますから」
「分かっている」
祈の至極真っ当な指摘に、俊典は自嘲気味に苦笑した。大きな手の平で自身の顔を覆うようにしながら、吐き出す溜息はどこまでも重い。
「分かっているからこそ、悔しいんだ」
守るべき存在を、自分の目の届かない場所へ送り出さなければならない。俊典の脳裏には今なお鮮烈なトラウマとして焼き付いている。自分がついていけないということは、もし彼女の身に何かが起きた時、再びあの日のようにただ絶望するしかなくなるのではないか――そんないいようのない恐怖が、英雄の心を蝕んでいた。
祈は、そんな俊典の葛藤をすべて見透かしているかのような、どこまでも凪いだ瞳で、しばらく俊典を見つめていた。
「……そんなに心配ですか?」
「心配だとも」
即答だった。一切の躊躇いも、ヒーローとしての体裁もない。剥き出しの本音だった。
「君は、自分のことになると途端に無頓着になるからね。他人の怪我や痛みの前には、自分の肉体がどうなろうと構わないと、そうやって平然とした顔で笑う。……私は、それが恐ろしいんだ」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
きっぱりと言われて、祈は首を少し傾げ、少し考えるような仕草を見せた。彼女自身には、自傷行為をしているという自覚は全くない。ただ、目の前に救える命があるから、己の個性を、その最適解として行使しているだけなのだ。
「……気をつけます」
申し訳なさそうに、祈がそう言葉を紡ぐ。だが、俊典は納得がいかないというように首を横に振った。
「それでは足りない」
「まあ」
あまりにも過保護で行き過ぎた俊典の態度に、祈がくすりと笑う。その微笑みは、困った大人をからかう時のような、ひどく無邪気なものだった。
俊典はさらに困ったように、大きな指先で額を押さえた。自分が今、どれほど無様で、どれほどみっともない執着を彼女に向けているか、自覚しているからこそ辛かった。
「……せめて、無理をしないと約束してくれ」
「はい」
「体調が悪くなったら、すぐに連絡すること」
「はい」
「一人にならないこと」
「はい」
「食事もきちんと――」
「俊典さん」
次から次へと溢れ出る禁止事項と確認の言葉を、祈の声が優しく遮った。
「何だい?」
「私、遠足に行く子どもではありませんよ?」
クスりと口元を綻ばせながら放たれた言葉は、あまりにも真っ当な正論だった。
俊典は言葉に詰まり、しばらく黙ったあと、自身の小さく縮んでしまった器を恥じるように、深く小さく息を吐く。
「それでも、心配なんだ」
その聲音だけは、先ほどまでの頑固なヒーローのそれではなく、ひどく素直で、脆いものだった。世界を救い続けた男が、たった一人の女性の不在を前に、これほどまでに怯えている。
祈は、その俊典の脆さに触れて、少しだけ目を細める。彼がどれほど自分を大切に想ってくれているか、祈は決して拒絶しない。
そして。
「では、ちゃんと帰ってきます」
そう言って、祈は咲くような暖かさで、柔らかく笑った。
「もちろん、俊典さんにもお土産買ってきますね!」
「え?」
「ふふ」
呆気にとられる俊典の顔を見て、祈は本当に楽しげに笑う。
「初めてのおつかいです」
「……祈くん」
「はい?」
「それは私が言う台詞じゃないか?」
「そうでしょうか?」
「そうだとも」
立場がまるで逆ではないか。俊典は肩の力を抜き、呆れたように笑った。けれど、どこか救われたように、ひどく嬉しそうだった。彼女が自分を置いてどこか遠くへ行ってしまうのではないかという恐怖が、そのささやかな約束によって、少しだけ和らいでいく。
「では……楽しみにしているよ」
「何がいいですか?」
「君が選んでくれたものなら、何でも嬉しいさ。君が無事に、その足でここへ帰ってきてくれるなら、それが一番の贈り物だよ」
「福岡らしいものを探してきますね。ホークスくんにも、何か良いお店を教えてもらいましょう」
「ああ」
そう答えながら、俊典は祈の姿をじっと見る。
本当に大丈夫だろうか。無理をしていないだろうか。ちゃんと食事をするだろうか。少しでも辛くなったら、誰かに頼れるだろうか。
心配は尽きない。けれど。
「……気をつけて、行っておいで」
「はい。行ってきます、俊典さん」
祈は笑って頷いた。
――そして、出発の当日。
祈の自宅の前に滑り込んできたのは、陽光を不気味に撥ね返す、公安委員会が手配した黒塗りの高級車だった。
私服に身を包んだ、目つきの鋭い護衛の職員が恭しく車のドアを開ける。首輪が外れたとはいえ、彼女を取り巻く環境の本質は何一つ変わっていないのだと、その無機質な光景が雄弁に物語っていた。
祈は俊典に一度だけ小さく一礼すると、吸い込まれるように後部座席へと乗り込んだ。静かに閉まる、重厚なドアの音。
動き出した車が、排気ガスの匂いを残して雑踏の向こうへ去っていく。
その光景を、俊典はしばらくの間、ただじっと見つめ、大きな身体を微動だにさせず道路の脇に立ったままだった。
彼女の乗った車影が完全に雑踏へ溶け込み、見えなくなってもなお、英雄だった男の視線は動かない。自分がついていけないことが、やはり少し悔しいと、強固な拳をきつく握りしめる。
あの黒塗りの車が、再び彼女を連れてこの場所へ戻ってきたとき。
車から降りた祈が、いつも通りの穏やかな声で、
「ただいま」
と言ってくれるなら。
今は、それだけでいい。そうやって彼女を待つ場所があるだけで、自分はまだ救われているのだからと、元・平和の象徴は、去っていった車の軌跡を見つめながら静かに祈るのだった。