外では、激しい雨が降っていた。
祈と筑紫と啓悟が共に生活している教会の一室――その部屋の窓ガラスを狂おしく叩く雨音は、外の世界との隔絶を嫌というほど強調していた。
雨音のに混じって、遠くの方で地を這うような重低音が響く。
ゴロゴロ、と不穏な音が大気を震わせた、その瞬間。
部屋の隅、ベッドに横たわっていた幼い啓悟の身体が、びくりと跳ねた。
「……っ」
細い肩が、強張ったように跳ね上がる。
胸が不自然に静止し、呼吸が止まる。
思考の猶予などない。次の雷撃がいつ落ちてくるのか、それを待つように、彼の全身の筋肉が意思に反して鋼のように硬直していた。
ベッドの脇で静かに本をめくっていた祈が、異変を察知して顔を上げる。
「啓悟くん?」
「……」
返事がない。いや、返す余裕などなかった。
啓悟はすでに、小さな両手で強く耳を塞いでいた。現実の音をすべてシャットアウトしようとするかのように、爪が頭皮に食い込むほどきつく、きつく。
それでも防ぎきれずに、鼓膜を通じて脳髄を直接揺るがしてくる低い雷鳴。その音を認識するたび、彼の背中に生えたばかりの、未だ不揃いで小さな剛翼が、恐怖に怯えるように指先までガタガタと震えている。
「……大丈夫」
啓悟は、膝の間に顔を埋めるようにして、ぽつりと呟いた。
「大丈夫だから……」
言い聞かせるような呪文。かつて、あの地獄のような実家で、狂った父親と無気力な母親の怒声から逃れるために、押し入れの隅で何度も繰り返した言葉。けれど、その声もまた、自らの意思では制御できないほど、情けなく震えていた。
次の瞬間。
重いカーテンの隙間を突き抜けて、窓の外が真っ白に光った。
世界が一瞬だけ、不気味な白銀に染まる。
遅れて、鼓膜を裂くような轟音が、教会全体を揺るがした。
「っ……!」
啓悟は咄嗟に床へと滑り落ち、さらに身体を小さく縮めた。
両膝を胸元へ抱え込み、耳を塞いだ手の平にさらに力を込める。肺が押し潰されたかのように、浅く、速い呼吸しかできなくなる。
「……っ、は……」
過呼吸の一歩手前。彼の脳裏には、雷の音と共に、かつて自分を怒鳴りつけ、暴力を振るっていた父親の影が、生々しい肉体の記憶としてフラッシュバックしていた。頭では、ここは教会で、あの男はもういないと分かっているのに。身体の芯に染みついた恐怖の回路が、彼の理性を容赦なくすり潰していく。
祈がその様子を見て、静かに、音もなく彼の方へと近づいていく。
「啓悟くん」
「来ないで……!」
それは、半ば悲鳴に近い、反射的な声だった。
怯えた獣が、近づくすべてのものを敵とみなして威嚇するかのような、鋭い拒絶。
言った本人が、自分の暴言に驚いたように目を見開く。いつも自分に優しく接してくれる、この暗い鳥籠の中でたった一人の理解者である祈に対して、何てことを言ってしまったのか。最悪の自己嫌悪が、彼の小さな胸を締め付ける。
「……ごめん、なさい」
「謝らなくていいですよ」
祈は、啓悟の叫びを真っ正面から優しく受け止め、彼の手前、少し離れたところでピタリと歩みを止めた。それ以上近づいて、彼の心の領域を脅かさないように。
啓悟はまだ震えている。奥歯がカチカチと小さく音を立てて鳴っていた。
また、遠くで空が鳴る。そのたび、彼の細い肩がびくりと跳ねる。
身体が勝手に反応しているのだ。頭では「大丈夫」「怖くない」と思おうとしているのに、暴力の記憶を刻まれた肉体だけが、本能的にここではないどこかへ逃げようと悲鳴を上げていた。
「……怖いんですね」
祈の、静かな声。
「……違う」
啓悟は頑なに顔を伏せたまま、掠れた声で否定した。公安の大人たちからは、「お前はヒーローになるんだ」「怖がってどうする」と、毎日呪いのように叩き込まれている。恐怖を感じることは、ここでは『欠陥』でしかないのだ。
「はい」
「怖くない」
「はい」
祈は、彼の見え透いた強がりを、決して否定しなかった。馬鹿にすることも、叱りつけることもなく、ただ、静かに彼の震えを見守った。その絶対的な肯定の空間が、啓悟の張り詰めた精神の糸を、少しずつ、緩めていく。
長い沈黙。雨音だけが部屋を支配する中、しばらくして。
啓悟は、小さく顔を上げた。涙と脂汗で濡れた顔で、縋るように祈を見つめる。
「……おねえ、ちゃ」
「はい」
「……行かんで」
その声だけは、ヒーローの卵としての『ホークス』ではなく、守ってくれる親を持てなかった、ひどく幼い一人の子供のものだった。
祈は、その言葉を聞くや否や、すぐに柔らかく頷いた。
「行きませんよ」
そして、ゆっくりと足を進め、啓悟のすぐ隣へと腰を下ろす。床の冷たさを遮るように、彼女がいつも使っている毛布をふわりと広げた。
「一緒に寝ましょう」
「……え?」
「それなら怖くないですよ。私の隣なら、絶対に安全です」
祈が毛布を広げて待っている。
啓悟は迷った。公安の規則では、訓練生同士がこのような距離感で過ごすことは推奨されていない。甘えは排除すべきだと、そう教わってきた。
けれど、また遠くでピカピカと空が白く光り、低い雷鳴が部屋の空気を震わせ――啓悟の身体が、理性を置き去りにして、勝手に祈の方へと寄っていた。
自分でも驚いたように、祈の体温を感じる距離でピタリと止まる。
祈は何も言わず、ただ包み込むような眼差しで、彼の小さな身体へと大きな毛布をふわりと掛けてやった。
「大丈夫です」
「……」
「ここにいますから」
温かい毛布の感触と、祈の体から漂う、どこか現実離れした清らかな香りが、啓悟の鼻腔を満たす。彼は毛布の中で、さらに小さく丸くなった。
ずっと耳を塞いでいた両手を、少しだけ下ろす。冷え切った指先を伸ばし、恐る恐る、祈の衣服の裾をぎゅっと掴んだ。
「……触っててもいい?」
「もちろんですよ」
その確かな許可の言葉を聞くと、啓悟の指に、少しだけ力が戻った。離してなるものかと、命綱を掴むように強く握りしめる。
また、至近距離で凄まじい雷が鳴り響いた。
ドォン! と窓が激しくガタつくだけの衝撃。
啓悟の身体は、やはり恐怖でびくりと震える。
けれど今度は、耳を塞ぐ手の代わりに、祈の白く細い手の平が、彼の背中をゆっくりと撫で始めた。
「大丈夫」
一定の速度で。まるで、狂ってしまった啓悟の心音を正しく調律していくかのように。
「大丈夫ですよ」
何度も、何度も。手の平から伝わってくる祈の温もりが、彼の背中の羽を通じて、冷え切った内臓まで染み渡っていく。
「怖くても大丈夫ですよ。怖いと思うことは、決して悪いことではありませんから」
その一言が、公安の大人たちに否定され続けた彼の『恐怖』を、初めて真っ当な感情として救い上げてくれた。啓悟の浅く乱れていた呼吸が、喉の奥で震えを伴いながらも、少しずつ、少しずつ元の深さを取り戻していく。
「……おねえちゃん」
「はい」
「雷が鳴っても……ここにおって」
「いますよ」
「朝まで?」
「朝までです。目が覚めたときも、ちゃんと隣にいますから」
啓悟は、深く息を吐き出して、静かに目を閉じた。
雨は未だ衰えず、また何度も空で激しい雷鳴が轟いた。そのたび、彼の小さな身体はびくりと震え、祈の服を掴む手に力がこもる。
けれど、今度はもう、両手で耳を塞ぐことはしなかった。
祈の服を握ったまま、彼女の手の平の温もりを背中に感じながら、じっとその音に耐える。
「……怖い」
生まれて初めて、他人の前で、自らの弱さを素直に口にした。ヒーローの卵ではなく、ただの子供として。
祈は彼の背中を優しく撫で続けながら、穏やかに答える。
「はい」
「……でも、おねえちゃん、おるから」
「はい」
「……大丈夫」
その夜。
世界の終わりを告げるかのような激しい雷が鳴るたび、啓悟の身体は小さく震え続けた。
それでも、彼の心はもう、あの暗い押し入れの隅のように、一人きりで震えてはいなかった。隣には、自分を全肯定してくれる、自分だけの『聖者』がいる。
この人がいるなら、どんな嵐が来ても、自分は生きていける――。
ベッドの中で、幼い啓悟は、祈の服を強く握りしめたまま、泥のような深い眠りへと落ちていくのだった。