「……脳無?」
嫌な予感がした。護衛についていた公安職員の一人が、すぐに通信機を取り出す。
「本部、こちら九州班。現在、指定区域内で大規模戦闘を確認。エンデヴァー、ホークス両名が交戦中と思われます」
「……」
祈は、何も言わなかった。ただ、窓の外を見る。遠くに見える炎のなか、赤い影が動いているのが見えた。
「……ホークスくん」
小さく呟く。約束の時間は、もうすぐだった。なのに、彼はあの中にいる。
「神代さん」
公安職員が振り返った。
「本部と確認を取ります。ここから動かないでください」
「はい」
祈は素直に頷いた。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面を見ると、表示された名前は「俊典さん」だった。祈はすぐに電話に出た。
「はい」
『祈くん』
俊典の声が聞こえる。いつもより少し低く、落ち着いているようでいて、どこか緊張していた。
「どうしました?」
『今、どこにいる?』
「ホークスくんと待ち合わせしているお店にいます」
『ああ、良かった。ニュースは見ているかい?』
「いえ。今、外で大きな音がして……」
『そうか』
一瞬の沈黙があった。
『九州で、エンデヴァーたちが脳無と交戦している』
「……」
祈の目が、窓の外へ向く。遠くで、また炎が上がった。
「そうですか」
『そして、ホークスくんもいる』
「……彼が」
祈の声が、ほんの少しだけ揺れた。公安職員がこちらを見る。祈はその視線を受けながら、静かにスマートフォンを握り直した。
『祈くん』
「はい」
『君は、戦ってはいけないよ』
「……」
俊典の声は優しかった。けれど、そこには明確な意思があった。
『公安の方々の指示に従って、そこで待いてほしい』
祈はしばらく黙っていた。窓の外を見る。炎、煙、そしてその向こうにいるはずのホークス。
もし彼が怪我をしているのなら、苦しんでいるのなら、自分の個性で助けに行きたいという思いが過る。
けれど、俊典の声がもう一度耳に蘇った。
――君は、戦ってはいけないよ。
「……分かりました」
祈は静かに答えた。
『祈くん』
「そうですか、エンデヴァー様とホークスくんが……」
窓の外を見る。赤い羽根が、一瞬だけ炎の向こうに見えた気がした。
「はい、分かりました。公安の方々の指示通りに動きます」
『……ありがとう』
俊典が、ほっと息を吐くのが分かった。
「俊典さん」
『うん?』
「心配しないでください。私は大丈夫です」
その言葉に、電話の向こうで俊典が少しだけ黙った。
『……それは、私が一番心配する言葉なんだけどな』
「……」
祈が目を瞬く。それから、少し困ったように笑った。
「では……気をつけます」
『うん。それでいい』
通話が終わる。祈はスマートフォンをゆっくり下ろした。
窓の外では、まだ戦闘が続いている。轟音、炎、建物の向こうから立ち上る黒煙。
「神代さん」
先ほどまで本部と通信していた公安職員が、祈の前に立った。
「本部から指示が出ました」
「はい」
「まず、この店から退避します」
祈が目を瞬く。
「ここも危険なのですか?」
「現時点で直接の被害は確認されていません。ただし、戦闘区域が拡大する可能性があります」
公安職員は淡々と続ける。
「神代さんは、今回の戦闘に関与しないでください」
「……はい」
「具体的には、戦闘区域への接近禁止。エンデヴァー、ホークス両名への独断での接触も禁止します」
祈の指が、僅かに動いた。
「ホークスくんにも、ですか?」
「はい」
即答だった。
「ホークスから救援要請があった場合も、まず我々を通してください。それから、個性の使用もこちらの許可があるまで控えてください」
「個性も……」
「はい」
祈は静かに頷いた。理由は分かっている。自分の個性は、傷ついた人間を前にすれば使える。けれど、だからこそ、戦闘が起きている場所へ行けば救助に動いてしまう可能性が高い。救える命を選別しているとまでは言いたくはないが、公安はそれを懸念しているのだ。
「神代さんには、これからこちらで用意した車両に乗っていただきます」
「どこへ向かうのでしょう?」
「戦闘区域から離れた待機場所です。安全が確認されるまで、そこで待機してください」
「……ホークスくんとは」
「連絡が取れた場合も、神代さんから会いに行くことはできません」
祈は少しだけ俯いた。
「……そうですか」
約束の時間は、もう過ぎている。本当なら、今頃ホークスと食事をしているはずだった。
「申し訳ありません」
公安職員が言った。
「お約束があったことは承知しています。ただ、現在は神代さんの安全確保を最優先します」
「いいえ」
祈は首を横に振った。
「私のことを考えてくださっているのですから」
そして、窓の外を見る。また大きな音が響き、店の窓がわずかに震えた。祈の青い瞳が、炎の向こうを見つめる。
「……ホークスくん」
小さく名前を呼ぶ。けれど、すぐに視線を戻した。
「分かりました。指示に従います」
「ありがとうございます」
「ただ……」
祈が少しだけ迷う。
「ホークスくんの安否が分かったら、教えていただけますか?」
公安職員は一瞬だけ祈を見る。それから頷いた。
「可能な限り、情報は共有します」
「……ありがとうございます」
祈は小さく頭を下げた。護衛が周囲を確認する。
「では、移動します」
「はい」
祈は立ち上がった。テーブルの上には、まだ何も手をつけていない飲み物が残っている。
その向かいの席。本来なら、もうすぐホークスが座るはずだった。祈は一度だけそこへ視線を向ける。
「……お待たせしてしまいますね」
誰に言うでもなく呟いて、公安職員に促されるまま店を出た。
エンデヴァーは、瓦礫の上に立っていた。
全身が傷だらけだったが、それでも拳を握りしめる。目の前のハイエンドは、もう動かない。勝った。
その事実を理解するより先に、周囲から歓声が上がった。
「エンデヴァー!」
「勝ったぞ!」
けれど、エンデヴァー自身には、そんな声を聞いている余裕などなかった。膝が軋み、息が苦しい。視界も霞んでいる。
その時だった。
「――随分、派手にやったな」
瓦礫を踏む音とともに、別の声が響いた。エンデヴァーが顔を上げる。煙の向こうから、兎の耳を揺らしながら一人のヒーローが姿を現した。
「ミルコ……」
「よぉ、エンデヴァー」
ミルコは周囲を見回す。焼け焦げた道路、崩れた建物、そして動かなくなったハイエンド。
「やったじゃねぇか」
その声には、感心が混じっていた。
「……貴様、何故ここに」
「近くにいたんだよ。派手な音がしたから来てみりゃ、この有様だ」
ミルコがエンデヴァーを見る。その傷の多さに、わずかに眉を上げた。
「お前も大概だな」
「……まだ、動ける」
「そうは見えねぇけどな」
ミルコが一歩近づいた、その時だった。
「――随分、派手にやったな」
聞き慣れない声がした。二人が同時に振り向く。炎の向こう、蒼い炎を纏った男が立っていた。
「……誰だ」
「知らなくてもいいさ」
荼毘が笑う。その視線がエンデヴァーへ向けられた。ミルコがわずかに身構える。
「……ヴィランか」
「だったら?」
「蹴り飛ばすだけだ」
ミルコが脚を引く。しかし、エンデヴァーがそれを制した。
「待て。……俺がやる」
身体は限界だったが、視線だけは荼毘から逸らさない。その時だった。
「ねえ」
少し離れたところから、穏やかな声がした。
「そろそろ帰ろうよ」
荼毘が眉を寄せる。
「うるせぇな」
声の主は動かない。大きなフードをすっぽりと被っており、顔は見えなかった。ただ、風が吹いた瞬間、フードの隙間から銀色の髪がほんの少しだけ覗いた。
「……」
エンデヴァーの目が、その色を捉えた。月明かりを受けて、白銀が揺れる。ミルコもそれを見た。
「……女?」
だが、次の瞬間にはフードの中へ消えた。
「おい」
荼毘が振り返る。
「勝手に先に行くなよ」
「遅いんだもん、置いていくよ」
「……はぁ、ったく」
「早く帰ろう」
少女は淡々と言った。
「お前な……」
荼毘が苛立ったように頭を掻く。
「っち」
少女はそれ以上何も言わない。ただ、炎の向こうにいるエンデヴァーを一度だけ見た。
「……あの人、まだ生きてるね」
「当たり前だろ」
「そう」
それだけだった。ミルコが一歩踏み出す。
「待て!」
しかし、その前に荼毘の蒼い炎が大きく燃え上がった。熱気にミルコが腕で顔を庇う。
「チッ!」
炎が収まった時には、二人の姿はすでに距離を取っていた。
「行くぞ」
「うん」
二人が歩き出す。エンデヴァーは追おうとしたが、身体が動かなかった。
「待て……!」
声を絞り出す。蒼い炎が遠ざかっていく。その隣を歩く、小さな影。最後にもう一度、風が吹いた。フードの端から銀髪が覗き、その色だけが妙に目に残った。やがて二人の姿が、夜の闇へ溶けていく。
「……逃げられたか」
ミルコが舌打ちする。けれど、エンデヴァーは答えなかった。あの銀色、どこかで見たような気がした。しかし、今は考えるだけの余裕がない。膝が、とうとう崩れた。
「おい!」
ミルコが駆け寄り、その身体を支えた。
――遠くで、また大きな音がした。
窓ガラスが、びり、と震える。
「……っ」
祈の肩が、小さく揺れた。公安に用意された待機所の中、祈は窓の外を見つめていた。
「まだ戦闘が続いているのでしょうか」
「……現場からの情報では、戦闘は収束に向かっています」
公安職員が答える。
「ですが、まだ安全とは言えません」
「そうですか……」
祈は頷いた。けれど、視線は窓から離れない。遠くの空が赤く染まっている。その向こうに、ホークスがいる。
「……連絡は」
「まだありません」
「……」
祈の指が、膝の上でそっと絡む。スマートフォンは、何度確認しても静かなまま、次の着信を告げることはなかった。