公安から指定された待機場所は、戦闘現場から少し離れた建物の一室だった。
祈は窓辺に立ち、外の様子を眺めていた。
ホークスに会うために九州まで来た。それなのに、今はこうして待機するように言われている。
もちろん、事情は理解していた。現場では激しい戦闘が続いている。祈の身に何かあれば、公安にとっても大きな問題になる。だからこそ、戦闘に巻き込まれない場所で待つよう指示されていたのだ。
それでも。
「……啓悟くん」
小さく名前を呼ぶ。
外ではなるべく「ホークス」と呼ぶようにしていた。彼にとって、本名は足かせにしかならない。弱みにしかならないから、名前では呼ばない。
考え始めれば、いくらでも気になることが出てくる。
会ったら、何を話そう。
お久しぶりです、と言って。元気でしたか、と尋ねて。できれば、少しだけでも一緒に過ごせたら。
そんなことを考えていた、そのときだった。
窓の外を、担架に乗せられた人が運ばれていく。少し離れた場所では、腕を押さえた男性が壁にもたれ、うずくまっていた。そばにいる女性が、必死に声をかけている。
血が流れていた。
祈はその光景から目を離せなかった。
「……すみません」
そばに立つ護衛の職員へ声をかける。
「少しだけでも、ダメですか」
職員は、祈の視線を追った。
「…神代さん。ここで待機するようにと指示が出ています」
「はい。分かっています」
「でしたら――」
「ほんの少しだけです、お願いします。怪我をされている方がいますから」
祈は静かに言った。それは、祈にとってごく自然なことだった。ホークスに会いに来たからといって、目の前で苦しんでいる人を見捨てるわけにはいかない。
職員はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……無理はしないでください」
「ありがとうございます」
男性の傷は、幸いにも致命的なものではなかった。
祈は膝をつき、傷口を確かめる。
「少し、触れてもよろしいですか?」
男性が戸惑いながら頷いた。苦痛に歪んでいた顔には冷や汗が浮かんでいる。
祈の指先が、そっと傷に触れる。
淡い光が滲み、傷口が少しずつ塞がっていった。完全に治す必要はない。出血を止め、痛みを和らげ、医療機関で適切な処置を受けられる状態にする。それだけでいい。
「……あれ。痛くない…?」
「まだ無理はなさらないでくださいね。念のため、病院で診てもらってください」
「っあ、ありがとうございます、本当に……」
「いいえ。お大事になさってください」
祈は立ち上がった。
個性を使ったのは、ほんのわずかだった。身体に大きな負担はない。けれど、護衛の職員は念を押すように言った。
「これ以上は控えてください。あなたの安全を確保することも、こちらの任務です」
「……はい」
祈は素直に頷いた。
それから、もう一度だけ、遠くの現場へ目を向ける。
啓悟くんも、あちらにいるのでしょうか。どうか、無事でいてください。胸の中でそう願い、祈は待機場所へ戻った。
それからしばらくして。
「神代さん」
公安職員が足早に部屋へ入ってきた。
「すぐに病院へ向かってください」
「……病院、ですか?」
「エンデヴァーの治療をお願いします」
祈の表情が変わった。
「エンデヴァー様がお怪我を?」
「詳しい状況は移動中に説明します。現場で重傷者が出ています。通常の治療だけでは回復に時間がかかる可能性があります」
職員は一度言葉を切った。
「あなたの個性が必要です」
「……分かりました」
祈は頷く。
迷いはなかった。誰かが助かる可能性があるのなら、行かない理由はない。
それに。病院へ行けば、彼に会えるかもしれない。
祈は、胸の奥に生まれた小さな期待を自覚した。会いたい。その気持ちは、九州に来ると決めたときから変わっていない。
◇
病院の中は、慌ただしかった。
消毒液と血の匂い。微かに火薬の匂いも混じっている。医療スタッフの足音。次々と運び込まれる負傷者。
「こちらです!」
「神代さん、治療は最低限でお願いします。あなたまで倒れたら、他のヒーローに何かあった時に困りますので」
案内されるまま、祈は廊下を進んだ。そして。見慣れた金色の髪が、視界に入った。
「……ホークスくん」
思わず、声がこぼれた。
壁際に立っていたホークスが振り向く。
「……おねえさん?」
目を見開いた彼を見て、祈は自然と頬を緩めた。会えた。ようやく。
「お久しぶりです」
「えっ、ちょっと……なんでおねえさんがここに? 待ち合わせ場所にいるはずじゃ…」
「公安の方に、エンデヴァー様の治療をとのことで呼ばれました。あと…病院に来ればあなたにも会えるかと思いまして」
あまりにも素直に言われて。ホークスは、一瞬だけ言葉を失った。
「……俺に?」
「はい」
祈は小さく頷く。
「少しでもお顔を見られたらと」
「……そっか」
ホークスは、ふっと表情を緩めた。
「……会えた」
「はい。会えましたね」
祈は微笑んだ。
「お元気そうでよかったです」
「おねえさんも」
ホークスは彼女の顔を見つめる。
「……元気そうでよかった」
「あなたも、ご無事でよかったです」
祈は彼の顔を見上げた。疲れている。いつもより顔色も悪い。羽も少ないうえ、体中に傷がある。それでも、こうして立っている。そのことにひとまず安堵した。
「お怪我はありませんか?」
「まあ、多少は。でも大丈夫ですよ」
「本当ですか?」
「本当です。俺、結構頑丈なんで」
「……そうでしょうか」
「そこは信じてくださいよ」
軽いやり取り。祈は小さく笑った。
「……よかった」
その声があまりにも柔らかくて。ホークスは少しだけ目を細めた。
「それでは、エンデヴァー様の治療に行ってきますね」
「俺もついていきます、中には入れないかもしれませんけど」
祈は少し迷ってから尋ねた。
「……終わったら、またお話しできますか?」
「もちろん」
ホークスはすぐに答えた。
「待ってます」
「ありがとうございます」
「無理はしないでくださいよ」
「……ふふ。気をつけます」
そう言って、祈は処置室へ入った。
そこには、傷だらけのエンデヴァーの姿があった。
顔の左側を中心に、ひどい怪我を負っている。身体にも深い傷が残っていた。祈は一瞬、言葉を失った。
「これは…」
思っていたよりも、ずっとひどい。だが―――自分なら、治せる。
祈はそっと手を伸ばした。
「…始めます」
個性を発動する。
傷口に淡い光が集まり、裂けた組織が少しずつ繋がっていく。出血が止まる。呼吸が安定する。内側の損傷も、危険な部分から順に修復されていく。
「最低限と伺っていますが」
祈の手が止まった。目の前の傷を見つめる。
最低限。命を取り留めるための治療だけで良いと言われている。しかし。
「……すぐに治した方がいいのでは……」
傷を残す必要などない。治せるのなら、治せばいい。そう思って、もう一度手を伸ばそうとした。
「っ、おねえさん」
背後から声がした。
「ダメだ」
祈が振り返る。
「確かに、戦えるようになった方がいいですよ」
ホークスは、エンデヴァーを一度見てから祈を見る。
「でも、エンデヴァーさんには休む時間も必要です」
「……」
「それに」
ホークスの視線が、祈の手へ落ちる。
「おねえさんの負担にもなる」
「ですが……」
「ダメです、必要最低限でいい」
今度ははっきりと言った。
ホークスがそう言うなら、と祈は黙った。
「……分かりました」
祈は再びエンデヴァーへ向き直る。
傷を完全に消すことはしない。生命に関わる損傷を塞ぎ、出血を止め、身体がこれ以上悪化しないところまで。そして、残った傷はそのままにする。
やがて、エンデヴァーの呼吸が安定した。
「……これで大丈夫です」
祈が手を離す。エンデヴァーの左顔面には、後に残る傷がまだ残っていた。けれど、命の危険は去っている。
「安定しました」
医療スタッフが確認する。祈は小さく頷いた。
「よかった……」
「神代さん」
公安職員が声をかける。
「こちらは医療班に任せます。別室へ移動をお願いします」
「はい」
祈は立ち上がった。そして、ホークスを見る。
「ホークスくんも、こちらへ」
「……」
ホークスは祈について、別室へ移動した。
別室に入ると、祈はすぐにホークスへ向き直った。
「では、ホークスくんも」
「え?」
「治療をしましょう」
祈が手を伸ばす。その手を、ホークスが掴んだ。
「……?」
「どうして」
ホークスの声は、先ほどまでとは違っていた。
「どうして今まで、さっきみたいな治療をしなかったんです?」
「……?」
「今まで、完治させてましたよね。でもさっきは完治させなかった」
「はい」
「どうして今まで、本人の治癒力に任せなかったんですか」
祈は少し考えた。
「…人はすぐに死にますから」
「え?」
「怪我も簡単には治りません」
祈は静かに答える。
「病気になったら、死ぬかもしれない」
「……」
「私なら治せるから…大丈夫です」
ホークスの眉が寄った。
「そういう問題じゃない」
「ですが」
「っそういう問題じゃないんです!」
握られていた力が、少し強くなる。
「おねえさんが治せるからって、全部治す必要なんてないでしょう?!」
「治せるものを治さない理由が、私には分かりません」
「っ俺には分かる」
ホークスは言った。
「おねえさんが、無理するからです」
「私は無理など――」
「してるでしょう!」
ホークスの手が離れ、言葉が重なった。祈が黙る。ホークスは一度だけ息を吐いた。
「…自分が傷つくこと、全然気にしてない」
「……」
「誰かが怪我してたら、自分が治せばいい。死にそうなら、自分が助ければいい。自分がどうなるかなんて、後回し」
「……」
「それじゃ、おねえさんが壊れる」
「私は壊れませんよ」
「そうやって言うところも嫌なんです」
祈は目を瞬いた。
「……ホークスくん?」
「っもう、いいです」
祈が再び手を伸ばす。
「せめて治療だけでも――」
その手を、ホークスはばしんと払った。
「……必要ありません」
祈の手が宙で止まる。
「今、おねえさんと話したくない」
「……」
静かな部屋に、重い沈黙が落ちた。祈はしばらくホークスを見つめた。
「どうして」
小さな声だった。ホークスは答えなかった。代わりに、苦しそうに目を伏せる。それでも、祈は続けた。
「私が、何か……」
「自己犠牲はただの独りよがりって、知ってます?」
ホークスが遮った。
「……」
「自分が助けたいからって、周りの気持ちを置いていくのは、独りよがりでしょう」
その言葉を聞いて。祈の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
「……そう、ですね」
「……」
「…ホークスくんは、そういう私が」
祈は静かに尋ねる。
「お嫌いですか?」
ホークスは答えようとして。できなかった。
好きだから。大事だから。だからこそ、腹が立った。けれど、その感情をうまく言葉にできない。出てきたのは、もっと幼くて、もっと傷つける言葉だった。
「……そういうおねえさん、大嫌いです」
祈の目が、僅かに見開かれた。
ホークス自身も、その言葉を口にした瞬間に後悔した。けれど。
「……」
もう取り消せなかった。
「……すみません」
そう言い残して、ホークスは部屋を出ていった。
扉が閉まる。静かだった。
ひとり残された祈は、先ほど払われた自分の手をゆっくりと見つめる。痛くはない。けれど、胸の奥が妙に冷たかった。
「……」
九州まで来た。会いたかった。会えたことが、嬉しかった。無事だったことが、嬉しかった。少しだけでも話したかった。それなのに。
「……嫌われたくは、なかったのですが」
ぽつりと呟く。返事はない。
祈は俯いた。白いヴェールの向こうで、その表情は誰にも見えない。
ただ、膝の上で。行き場をなくした手だけが、静かに握られていた。