扉が閉まった。
無機質な音が静かに響き、外界との境界を告げる。
その音を聞いた瞬間、ホークスは廊下を歩く足を止めた。
「…………」
何も言わずに、冷たい壁へ背中を預けそのままずるずると床にしゃがみこむ。
頭の中が、妙に静かだった。さっきまで、あんなに胸の奥が焦げるほど腹が立っていたのに。今はただ、自分が口にしてしまった言葉の残響だけが、やけに鮮明に残っている。
『そういうおねえさん、大嫌いです』
「……最悪」
小さく呟く。
自分で言ったくせに、ひどいことを言ったという自覚が、冷や水のように全身の血を凍らせていく。
分かっていた。あれが、祈にとってどれほど重く、逃げ場のない言葉なのか。彼女の過去を、彼女の歪みを少しでも知っているのなら、絶対に選んではいけない拒絶の刃。それを、自分は分かっていて、彼女に向けて放ってしまった。
「……なんであんなこと言ったんだよ」
誰に聞かせるでもなく呟く。答えなんて、自分の中で最初から分かっていた。
怖かった。ただ、それだけだ。
さっき処置室でエンデヴァーを見たとき。あの凄まじい傷を見た祈の横顔が、ほんの一瞬だけ迷った。もっと治せる、そう思った顔だった。
自分なら治せる。この傷も、この怪我も。死にそうな人間だって、すべて。そういう顔だった。
そして、あの人は本当に治してしまう。自分にできることだから。目の前で苦しんでいる人がいるなら、迷わず手を伸ばす。当たり前みたいに。自分がどれだけ疲れていても、痛くても、その力を使うことが自分自身を削り取るのだとしても、それでも彼女は躊躇わない。
「……そういうところなんだよな」
ホークスは目を閉じた。
昔からそうだった。祈は、いつもそうだった。誰かが困っていれば助ける。誰かが泣いていれば手を差し出す。誰かが死にそうなら、自分のことなんて簡単に後回しにする。
それが悪いことだなんて、本人は少しも思っていない。むしろ、どうして助けないのかと、そんな不思議そうな顔をする。子どもの頃から、ずっと。
「……おねえさんは、変わってない」
それが嬉しいと思ったこともある。過酷な公安の訓練のなか、変わらない優しい彼女の存在は、自分にとって唯一の救いだった。自分がどんな暗闇の中にいても、どんなヒーローになっても、祈だけは昔と同じように自分を見てくれる。
だから、九州にいる自分を訪ねると聞いたとき、ものすごく嬉しかった。会いに来てくれる、自分に。それだけで胸の奥が熱くなった。
病院の廊下で顔を見たときも、思わず笑みが溢れてしまった。元気そうで、自分のことを心配してくれていた。それが嬉しくて、もっと話したかった。いつまでいるのか、どこを観光したいのか、何を食べてみたいのか。そんなくだらない話でもよかった。少しでも長く、一緒にいたかった。
なのに、今は。
「……嫌い、って」
ホークスは自分の口元を強く手で覆った。
「何言ってんだ俺……」
嫌いなわけがない。むしろ、その逆だ。大切だから、昔からずっと特別だったから、だからこそ怖いのだ。
祈が傷つくのが、倒れるのが、いつか本当に帰ってこなくなることが、どうしようもなく怖い。
けれど、その恐怖を本人にうまく言葉で伝えられない。だって祈は、きっと首を傾げる。「どうしてそんなことを言うのですか」と。「自分は治せますよ」「大丈夫です」と、いつものように穏やかな顔で言うのだ。
だから余計に腹が立つ。自分のことを大丈夫だと思い込んでいることに。自分が死ぬかもしれないということを、あまりにも簡単に受け入れてしまっているその在り方に。
「全然、大丈夫じゃない」
エンデヴァーの治療をして、あれだけの重傷を前にして、それでも祈は自分の負担なんてほとんど考えていなかった。治せるなら治す、ただそれだけ。だから、自分が止めなければいけないと思った。あのまま全部治させたら、きっと祈はまた笑ってしまうのだ。「これくらいなら大丈夫ですよ」と、自分がどれだけ消耗していても。
それでいいわけがない。エンデヴァーには休む時間が必要だ。それと同じくらい、祈にだって休む時間が必要なのだ。誰かを助ける側の人間だって、傷つくし、疲れるし、眠るし、食べる。誰かに守ってもらうという、そういう普通のことが必要なのに、彼女はそこを全部飛ばしてしまう。
「……人はすぐに死ぬから」
さっきの彼女の言葉が脳裏に蘇る。あまりにも静かな声だった。まるで当たり前の前提を口にするみたいに、怪我は簡単には治らない、病気になったら死ぬかもしれない、だから私なら治せるから大丈夫、と。
「それが嫌なんだよ」
ホークスは深く目を伏せた。
自分なら治せるから大丈夫。その言葉の裏に、自分なら死なない、自分なら壊れない、自分ならいくらでも他人の代わりになれるという、そんな歪んだ自己軽視があるように聞こえてしまった。
でも、それは違う。祈だって人間だ。どれだけ強くても、どれだけ長く生きても、どれだけ人を救える力を持っていても、傷つくし、疲れるし、痛いし、苦しい。そして、いつか死ぬ。
その当たり前の事実を、本人だけが、どうしてか自分のことには当てはめようとしない。
「……俺は、おねえさんに死んでほしくないだけなのに」
声が掠れた。
言えなかった。そんな簡単なことが、どうしても本人を前にすると言葉にならなかった。
心配なんです、無理してほしくないんです、自分をもっと大事にしてください、俺を置いていかないでください。それだけでよかった。それだけを真っ直ぐに言えばよかったのだ。なのに、出たのは「大嫌い」という最悪の拒絶。
言葉が違いすぎる。
心の中では、ずっと好きだった。昔からずっと、尊敬していた。優しい人だと思っていた。自分にとっての特別な拠り所だった。会えるだけで、笑ってくれるだけで嬉しかった。自分の名前を呼んでくれるだけで、少しだけ安心できた。
なのに、今、自分の言葉で、その人を最も深く傷つけた。
「……泣いてないよな」
ふと、そんなことを考える。祈は泣かない、たぶん。いつものように、静かな顔をしているはずだ。でも、閉まった扉の向こうからかすかに聞こえた『嫌われたくは、なかったのですが』というあの声が、頭から離れない。
「…………」
胸の奥が、鋭く痛んだ。
あれは、きっと自分が思っている以上に傷ついている。当然だ。大切に思っていた人から、あんなふうに言われたら、誰だって傷つく。
祈は、きっと怒らない。怒鳴らないし、どうしてそんなことを言うのですかと責めたりもしない。ただ、自分が嫌われたという事実を、そのまま受け取ってしまう。きっと今も、あの部屋で、自分の言葉を何度も思い返している。
さっきまで、あんなに嬉しそうにしていたのに。病院で自分を見つけたとき、「ホークスくん」と、あんな顔で笑っていた。九州まで来て、会いたかったと言って、元気でよかったと言って、治療が終わったら話したいと、そう言ってくれた。それなのに、自分は。
「……ひどすぎるだろ」
ホークスは額を押さえた。
あの人はきっと、「嫌い」と言われたことそのものより、自分が大切にしていた時間まで、全部否定されたように感じてしまう。会えて嬉しかった、また話したかった、これからも会えると思っていた、その全部が、自分の一言で壊れてしまったように。
そんなことを考えると、胸が締め付けられる。
きっと祈は自分を責める。自分が何か悪かったのだろうかと。治療しようとしたことが悪かったのか、自分が無理をしたことが悪かったのか、それとも、自分がホークスに会いに来たことさえ、迷惑だったのかと。
ホークスは顔を上げた。
「違うんだよ、おねえさん」
聞こえるはずのない扉の向こうへ、心の中で叫ぶ。
悪いのは、祈が会いに来たことじゃない。祈が心配してくれたことでも、誰かを助けようとしたことでもない。自分が怖かっただけだ。大切な人が、自分の目の前で自分自身を削っていくことが、どうしようもなく怖かった。
「嫌いなんかじゃない。……大事だから、怒ったんだ」
口にしてから、その言葉に自分自身が少し驚いた。「大事」という重い響きが、胸の中に残った。
それだけじゃない。祈が誰かを助けるたびに、自分より他人を優先するたびに、胸の奥がざわつく。怖い、腹が立つ、心配になる、自分のところに戻ってきてほしいと思う、無事でいてほしいと思う。自分のためにも、そうしてほしいと思ってしまう。
その感情の正体が何なのか、まだホークスには分からなかった。ただ、今はひとつだけ、はっきりしている。
「……謝らないと」
でも、すぐには戻れない。今戻ったら、また余計なことを言ってしまいそうだった。頭が冷えていない。祈の顔を見たら、さっきの言葉を取り消したくなって、謝りたくなって、それでも「どうしてそんなに無理するんですか」と、また責めてしまうかもしれない。だから、今は離れていたほうがいい。そう思った。
思ったけれど。
「……寂しいだろうな」
自分が出ていった部屋に、祈がひとりで残っている。九州まで、自分に会うために来てくれた人が、きっと今、ひとりで俯いている。
祈は、泣きながら誰かを責めるような人じゃない。だから余計に、静かに傷ついている気がした。
きっと今頃は、自分に向けていた手を、ゆっくり下ろしている。「治療をしよう」と伸ばした手。自分が払った手。その手を見ながら、どうして、と考えているかもしれない。
でも、たぶん怒ってはいない。ただ悲しくて、寂しくて、そして、自分に嫌われたことを受け入れようとしている。
「……そんな簡単に受け入れないでよ」
ホークスは目を閉じた。
嫌われたくなかった。自分がそう思うのと同じように、祈だって自分に嫌われたくなかったはずだ。それなのに、あの人はきっと、それ以上自分を責めることもなく、ただ俯いてしまう。その姿を想像するだけで、胸が痛かった。
「……ごめん」
今度の言葉は、誰にも聞こえなかった。
もう一度だけ、閉じた扉を見る。
「俺、おねえさんのこと嫌いじゃないから。……だから、あんなこと言ったんです」
それでも、その言葉を今すぐ本人に伝える勇気はなかった。
ただ、いつかちゃんと伝えなければいけない。あれは嘘だったと。本当は、ずっと大切だったのだと。そして、できるならこれからも、自分のところへ帰ってきてほしいのだと。
ホークスはそう思いながら、ゆっくりと歩き出した。
その胸の奥にはまだ、自分自身への激しい怒りが残っていた。もっと上手く言えたはずなのに、もっと優しく言えたはずなのに、どうしてあの人を傷つける言葉しか出てこなかったのか。
その答えを、ホークスはまだ知らなかった。
ただひとつ、祈が自分の前からいなくなることだけは、どうしても、嫌だった。