神様にはなれない私たち   作:琴ノ葉しずく

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第8話 鷹見啓悟の独白

 

 

「ほら神代さん。あいつらにろくな飯食わされてないみたいで、心も体もボロボロのひねくれ坊主だよ。君の得意な『博愛』とやらで、優しくお世話しちゃってよ」 

 

 筑紫のぶっきらぼうな声を、俺はうつむいたまま、背中の赤い羽を小さく丸めて聞いていた。 

 

 

 ――怖かった。

世界中のすべてが、怖くて仕方がなかった。

 

 

 いつも殴ってくるお父さんも、助けてくれなかったお母さんも。

 

テレビの向こうでしか笑わないエンデヴァーも。

お家から連れてこられた後、俺を冷たい部屋に閉じ込めて『今日からお前の名前は無い』って言った、黒い服を着た公安の大人たちも。

 

 誰も俺に優しくしてくれない。どこへ行っても、俺は邪魔者か、お仕事の道具なんだって思ってた。 

 

 だから、隣にいる筑紫って男も、この先にいるっていう『おねえさん』も、どうせ俺をいじめる悪い大人に違いない。そう思って、俺は唇をぎゅっと噛み締めて、心をカチカチに硬くしていた。 

 

 だけど。 

 

「――っ」 

 

 静かに振り返ったその人が、俺の姿を見た瞬間、小さく息を呑んだ。

 頭から被った白いレースのヴェールの向こう。その人は、ゆっくりと、ふらふらした足取りで俺に近づくと、静かに膝をついた。 

 

 そして――白くて綺麗なレースのヴェールを、自分の手でためらわずに、完全に跳ね上げたんだ。 

 

(……うわぁ、きれいだ……) 

 

 剥き出しになった、神様みたいに綺麗な、人間離れした美貌。

 

 夕日の赤に染まるお部屋の中で、そのおねえさんの大きな瞳から、涙がボロボロと溢れ落ちるのが見えた。

 

 どうして、泣いているんだろう。

 

俺みたいな、薄汚くて悪いガキのために、なんでこの綺麗な人は、そんなに悲しそうな顔をしてくれるんだろう。 

 

 

 

「……よく、がんばって……生きて、いてくださいましたね……」 

 

 

 

 震える声が、俺の耳に届いた。

 

 それは、公安の大人たちのような冷たい声じゃなかった。生まれてから一度だって言われたことのない、俺が今まで生きてきた痛みのすべてを、丸ごと包み込んでくれるような、本当の、優しい声だった。 

 

「あ……」 

 

 俺の心の中にあった、世界に対するカチカチの壁が、その一言で一瞬にして消えてなくなった。

 

 涙が、我慢できなくて溢れ出して止まらなくなる。

 

 

(あったかい。……すごく、あったかい……) 

 

 

 おねえさんからは、不思議な、温かい匂いがした。

その腕の中にいるだけで、背中の逆立っていた羽の強張りが、嘘みたいにすうっと解けていく。

 

 ああ、この人は、怖くない大人だ。

この人は、俺に優しくしてくれる人だ。

この人には……たくさん、甘えてもいいんだ。 

 

「もう、大丈夫です。ここには、あなたを傷つける大人も、冷たい機械も、何もありません。……神代の家へ、ようこそ。啓悟くん」 

 

 

 耳元で優しく呼ばれた、俺の名前。

 世界で一番綺麗なそのおねえさんの胸の中で、俺は彼女のお洋服を小さな手で、ちぎれそうになるくらい、ぎゅっと握りしめていた。 

 

 

 

(失いたくない。このおねえちゃんを、絶対に失いたくない……) 

 

 

 

 親の顔色を伺って、いつも怯えて、道具みたいに扱われてきた俺の短い人生のなかで、こんなに優しくされたことなんて一度もなかった。

 

 もし、この世界でたった一人、俺のために涙を流してくれたこの綺麗な人に、これからずっと大切にされたら、それはどんなに幸せなことだろう。

 

この温かい腕の中から、もう二度と離されたくない。

その一心で、俺は必死に彼女の服にすがりついていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それが、まだ幼い子供の胸に宿った、初めての光。

 

 テレビの中のエンデヴァーへの憧れとはまた違う、これからの人生のすべてになっていく、狂おしいほどの『憧れのおねえさん』への、初めての恋が淡く色づいた瞬間だった。 

 

「……チッ。なんなんだよ、一体」 

 

 少し離れた廊下の影で、筑紫がポケットの中で拳を握りしめ、ひどく苦い顔をして目を逸らす。

 

 彼のエグい個性『共感層』には、幼い子供のこの「この人を失いたくない、大切にされたい」という、小さな体が張り裂けそうなくらい切実な好意の熱量が、痛いほどに流れ込んでいっているはずだ。 

 

「……本当に、やりづらいったらありゃしない」 

 

 筑紫は吐き捨てるようにそう呟き、足早に礼拝堂を立ち去っていった。

 

 お仕事だから、と割り切っていた彼の心を、必死なすがりつきが容赦なく揺さぶる。

 

 祈を甘えさせてくれる唯一の大人、頼れる大人、と認識した子供は、腕の中で、遠ざかる筑紫の足音を聞きながら、ただその温もりに溺れるように、いつまでも、いつまでも泣き続けた。

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