「ほら神代さん。あいつらにろくな飯食わされてないみたいで、心も体もボロボロのひねくれ坊主だよ。君の得意な『博愛』とやらで、優しくお世話しちゃってよ」
筑紫のぶっきらぼうな声を、俺はうつむいたまま、背中の赤い羽を小さく丸めて聞いていた。
――怖かった。
世界中のすべてが、怖くて仕方がなかった。
いつも殴ってくるお父さんも、助けてくれなかったお母さんも。
テレビの向こうでしか笑わないエンデヴァーも。
お家から連れてこられた後、俺を冷たい部屋に閉じ込めて『今日からお前の名前は無い』って言った、黒い服を着た公安の大人たちも。
誰も俺に優しくしてくれない。どこへ行っても、俺は邪魔者か、お仕事の道具なんだって思ってた。
だから、隣にいる筑紫って男も、この先にいるっていう『おねえさん』も、どうせ俺をいじめる悪い大人に違いない。そう思って、俺は唇をぎゅっと噛み締めて、心をカチカチに硬くしていた。
だけど。
「――っ」
静かに振り返ったその人が、俺の姿を見た瞬間、小さく息を呑んだ。
頭から被った白いレースのヴェールの向こう。その人は、ゆっくりと、ふらふらした足取りで俺に近づくと、静かに膝をついた。
そして――白くて綺麗なレースのヴェールを、自分の手でためらわずに、完全に跳ね上げたんだ。
(……うわぁ、きれいだ……)
剥き出しになった、神様みたいに綺麗な、人間離れした美貌。
夕日の赤に染まるお部屋の中で、そのおねえさんの大きな瞳から、涙がボロボロと溢れ落ちるのが見えた。
どうして、泣いているんだろう。
俺みたいな、薄汚くて悪いガキのために、なんでこの綺麗な人は、そんなに悲しそうな顔をしてくれるんだろう。
「……よく、がんばって……生きて、いてくださいましたね……」
震える声が、俺の耳に届いた。
それは、公安の大人たちのような冷たい声じゃなかった。生まれてから一度だって言われたことのない、俺が今まで生きてきた痛みのすべてを、丸ごと包み込んでくれるような、本当の、優しい声だった。
「あ……」
俺の心の中にあった、世界に対するカチカチの壁が、その一言で一瞬にして消えてなくなった。
涙が、我慢できなくて溢れ出して止まらなくなる。
(あったかい。……すごく、あったかい……)
おねえさんからは、不思議な、温かい匂いがした。
その腕の中にいるだけで、背中の逆立っていた羽の強張りが、嘘みたいにすうっと解けていく。
ああ、この人は、怖くない大人だ。
この人は、俺に優しくしてくれる人だ。
この人には……たくさん、甘えてもいいんだ。
「もう、大丈夫です。ここには、あなたを傷つける大人も、冷たい機械も、何もありません。……神代の家へ、ようこそ。啓悟くん」
耳元で優しく呼ばれた、俺の名前。
世界で一番綺麗なそのおねえさんの胸の中で、俺は彼女のお洋服を小さな手で、ちぎれそうになるくらい、ぎゅっと握りしめていた。
(失いたくない。このおねえちゃんを、絶対に失いたくない……)
親の顔色を伺って、いつも怯えて、道具みたいに扱われてきた俺の短い人生のなかで、こんなに優しくされたことなんて一度もなかった。
もし、この世界でたった一人、俺のために涙を流してくれたこの綺麗な人に、これからずっと大切にされたら、それはどんなに幸せなことだろう。
この温かい腕の中から、もう二度と離されたくない。
その一心で、俺は必死に彼女の服にすがりついていた。
それが、まだ幼い子供の胸に宿った、初めての光。
テレビの中のエンデヴァーへの憧れとはまた違う、これからの人生のすべてになっていく、狂おしいほどの『憧れのおねえさん』への、初めての恋が淡く色づいた瞬間だった。
「……チッ。なんなんだよ、一体」
少し離れた廊下の影で、筑紫がポケットの中で拳を握りしめ、ひどく苦い顔をして目を逸らす。
彼のエグい個性『共感層』には、幼い子供のこの「この人を失いたくない、大切にされたい」という、小さな体が張り裂けそうなくらい切実な好意の熱量が、痛いほどに流れ込んでいっているはずだ。
「……本当に、やりづらいったらありゃしない」
筑紫は吐き捨てるようにそう呟き、足早に礼拝堂を立ち去っていった。
お仕事だから、と割り切っていた彼の心を、必死なすがりつきが容赦なく揺さぶる。
祈を甘えさせてくれる唯一の大人、頼れる大人、と認識した子供は、腕の中で、遠ざかる筑紫の足音を聞きながら、ただその温もりに溺れるように、いつまでも、いつまでも泣き続けた。