窓の外に小さな鳥がいた。
赤い羽根を持つ、この辺りでは見かけない珍しい野鳥だった。
幼い啓悟は窓辺に立ち、ガラス越しにその姿をじっと眺めていた。
教会の敷地内に、どこからか迷い込んできたのだろう。鳥は中庭の植え込みに降り立ち、警戒するようにしばらく辺りを見回していた。
その時、建物の影から祈が中庭へ出ていくのが見えた。
「……?」
啓悟は窓に一歩近づき、視線を凝らした。
祈は地面に降り立っている鳥を見つけると、驚かせないようにゆっくりと、時間をかけてその場にしゃがみ込んだ。
逃げられないように壁際へ追い詰めることも、無理にその小さな身体を捕まえようとすることもしない。ただ、白く細い手のひらを、そっと地面の近くへ差し出している。
鳥は少し迷うように首を傾げていたが、やがてその手のひらに警戒を解いたのか、小さな爪で祈の指先に止まった。
「まあ……羽根を怪我しているのですね」
祈が小さく声を上げた。
その表情が、いつもより柔らかくなる。公安の大人たちに見せる微笑みではない、どこか痛みを労るような、静かな光を孕んだ顔だった。
啓悟は、なぜだかその光景から目を離せなかった。
祈は鳥の小さな身体を、壊れ物を扱うように両手で包み込んで支えた。これ以上傷つけないように、その美しい色彩を乱さないように。
それから、祈は自身の腕を少しだけ引き寄せた。
赤い羽根に、そっと口づけた。
ほんの一瞬、触れるだけの優しいキスだった。その指先から微かに滲み出た個性の光が、鳥の傷ついた羽根の組織を静かに癒やしていくのが、遠くからでも分かった。
「さ、あなたは好きな所へお行きなさい」
祈はそう言って、両手をそっと開いた。
鳥は一度、彼女の手の上で不思議そうに首を傾げた。それから、力強く羽ばたいた。
癒えたばかりの赤い羽根が斜めから差し込む陽の光を受けて、鮮やかにきらめく。鳥は中庭を鮮麗に横切り、塀を容易く越えてどこまでも広がる青い空へと飛んでいった。
祈は、その姿が完全に見えなくなるまで、ずっと空を見上げて見送っていた。
寂しそうではなかった。引き止めるために手を伸ばす様子もなかった。ただ、自らの手から無事に飛び立っていったことを純粋に喜ぶように、穏やかに微笑んでいた。
「…………」
啓悟は、窓辺で完全に固まっていた。
顔が熱い。自分でもはっきりと分かるくらい、急速に熱が昇っていく。
鳥に、キスをしていた。祈が。さっき、自分の目の前で。あの、いつも静かな祈が。
「…………っ」
啓悟は慌てて窓際から離れた。
部屋には自分しかおらず、誰も見ていないはずなのに、見てはいけない決定的なものを見てしまったような気がした。胸の奥が、妙に騒がしくて落ち着かない。
何だ、今の。何で、あんなことをするんだ。鳥にキスなんて。
……いや、鳥だから、なのか。
考えれば考えるほど思考が絡まって分からなくなり、啓悟は引きつるように両手で顔を覆った。耳の裏まで熱い。自分は何もしていないのに、ただ、窓から見ていただけなのに。
「啓悟くん?」
「うわっ!」
突然、背後から声をかけられ、啓悟は床を蹴って飛び上がった。
振り返ると、いつの間にか中庭から戻ってきた祈が室内の入り口に立っていた。
「どうしました?」
「な、何でもなか!」
「……そうですか?」
「はい!」
返事が大きすぎた。
祈は不思議そうに瞬きをしたが、それ以上は何も追及しなかった。ただ、啓悟が先ほどまで見ていた窓の外へ、静かに視線を向ける。
「先ほど、可愛らしい鳥がいたんですよ」
「……見ました」
「まあ。啓悟くんも見ていたのですね」
「……はい」
啓悟は、祈の顔をまともに見ることができなかった。見れば、さっきの唇が触れた瞬間の光景が、鮮明に脳裏に蘇ってしまう。
あんなふうに笑うのだ。あんなふうに、優しく触れるのだ。そして――「好きな所へ行きなさい」と、簡単に手放してしまう。
「赤い羽根が、とても綺麗でしたね」
祈が言った。
「……そうですね」
ようやく、それだけを絞り出すように答える。
鳥の羽根は確かに綺麗だった。けれど、今の啓悟の頭には、別のことばかりが強烈に残っていた。
鳥を支えていた祈の白い指先。羽根に触れた唇。そして、遠ざかる背中を見送る、あの寂しげでいて満ち足りた横顔。
「……おねえさん」
「はい?」
「鳥って……」
そこまで言って、言葉に詰まった。
何を聞こうとしたのか、自分でも分からなかった。どうしてキスをしたのか。鳥が好きなのか。どうして、あんなに優しい顔をしていたのか。どれも、今の自分には聞いてはいけない問いのように思えて、喉の奥に引っかかった。
「……何でもないです」
「そうですか」
祈は、いつものように穏やかに微笑んだ。その歪みのない笑顔を見た瞬間、啓悟はまた顔が熱くなるのを感じた。
――駄目だ。今日は、もう彼女の顔を正面から見られない。
◇
その日の午後。
啓悟は、筑紫から課せられた厳しい訓練の合間、短い休憩時間に再び窓の外を眺めていた。
赤い羽根の鳥は、もうどこにもいなかった。きっと今頃は、ここから遥か遠くの街か、あるいは山の方へと飛んでいったのだろう。好きな所へ。誰にも行き先を制限されずに、自らの翼の向くままに。
「……いいなあ」
ぽつりと、掠れた声が呟きとなって漏れる。
自分にも翼がある。大人たちが「誰よりも速く飛ぶための、素晴らしい個性の翼だ」と称賛する、生まれ持った赤い剛翼。けれど、自分がどこへ飛ぶべきなのか、その行き先を自分自身の意志で決めることは許されていない。
祈は、あの鳥を捕まえて籠に入れておこうとはしなかった。せっかく手の届くところに来てくれたのに。せっかく触れられたのに。「好きな所へ行きなさい」と、あっさりと手放した。
啓悟には、それがどうしても不思議でならなかった。
自分にとって大切で、愛おしいものなら、ずっと手元に置いておきたくなるものではないのだろうか。いなくなったら、二度と会えなくなったら、寂しくて耐えられなくなるのではないだろうか。それなのに、どうして祈は、あの鳥が自分から離れていくことを、あんなに嬉しそうに受け入れられるのか。
「……おねえさんって、変な人」
小さく呟いた。けれど、その声には、自分でも気づかないほどの微かな笑みが混ざり合っていた。
また、あんなふうに笑ってくれないだろうか。今度はあの赤い鳥ではなく、じっと彼女だけを見つめている自分を見て、あんなふうに優しく触れてくれないだろうか。
そう深く、強く願ってしまった自らの感情の正体に、幼い啓悟は、まだ気づいていなかった。