ホテルの一室。
病院でのすべての治療を終え、宿泊先へ戻った祈は、手荷物を床へ置くと、備え付けの椅子にゆっくりと腰を下ろした。
テーブルの上には、公安委員会から貸与されている通信端末が静かに置かれている。
定時報告の時間だった。
祈は端末を取り上げて操作し、あらかじめ指定されていた番号へ発信する。数回の呼び出し音が静かな室内に響いたあと、画面がつながり、一人の女性職員の姿が映し出された。
『お疲れさま、神代さん』
「お疲れさまです。遅い時間に申し訳ありません」
『構わないわ。こちらこそ、現地での状況を早急に確認したくて。病院からの一次報告はすでに受けているわ』
「そうでしたか」
『エンデヴァーの治療にも直接関わったそうね』
「はい。幸い、命に別状はありませんでした。ほかの負傷者の方々も、必要な初期処置はすべて済ませています」
『あなた自身の状態は?』
「特に問題ありません」
淀みなく即答した祈に対し、画面の向こうの女性は、値踏みするようになぞるように少しだけ目を細めた。
『本当に?』
「……はい」
『神代さん』
穏やかな声だった。けれど、そこには公安の人間特有の、誤魔化しや逃げ道を許さない冷徹な響きがあった。
『あなたが問題ないと言うとき、どこまでを問題ないと判断しているのか、私には分かりらないの。数値上の疲弊がないことと、精神的な摩耗がないことは同義ではないのよ』
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
『謝罪が聞きたいわけではないわ。あなたの身体のことを、あなた自身にも大切にしてほしいのよ。あなたは国家の財産なのだから』
祈は、白いヴェールの下で小さく瞬きをした。大切にしてほしい、という言葉の意味を、自らの内側に正しく落とし込めないまま、ただ相手の言葉を拝聴する。
『今回の件について、あなたが現場の混乱に直接巻き込まれたわけではないことは承知しているわ。病院での臨時の治療に専念していたのでしょう』
「はい。現場の詳しい戦況については、私も護衛の方から報告を受けている範囲でしか把握しておりません」
『それで構わないわ。今日は、その現場で確認されたヴィランについて、少し聞いておきたいことがあるのよ』
女性は手元にある紙の資料に視線を落とした。
『エンデヴァー、ホークス、ミルコの三名が直接接触したヴィランについて』
「ヴィラン、ですか」
『ええ。青い炎を操る男と、もう一人。銀髪の少女が確認されているわ』
「……銀髪の、少女」
思わず、その言葉をなぞるように聞き返していた。
『ええ。報告によれば、男と親しげに行動を共にしていたようね。何か心当たりはあるかしら? 過去の公安の記録、あるいはそれ以外でも』
「いえ……」
祈は一度、言葉を切った。
銀髪。その言葉が、妙に耳の奥に残って離れなかった。自分と同じ色の髪を持つ少女。それだけなら、この広い世界のどこかには存在する、単なる珍しい色彩の偶然に過ぎないのかもしれない。
けれど、どうしてだろう。胸の奥に、ざらりとした小さな引っ掛けが生まれていた。
「その少女について、何かほかに分かっていることはあるのでしょうか」
『まだ詳しいことは分かっていないわ。生体データもなく、年齢も不明。ただ、現場のヒーローたちの報告では、かなり若い、幼さの残る少女に見えたらしくて』
「そうですか……」
『何か気になることでも?』
「いえ。銀髪の少女という情報が、少し気になっただけです」
『あなたと同じ髪色だから、かしら』
祈は少しだけ目を伏せた。
「……そうかもしれません。もしかしたら、という可能性がないことも」
『現時点では、それ以上の情報はないの。身元も個性も一切が不明。中央で引き続き調査を進めるけど、芳しくないわね』
「分かりました。何か新しく分かりましたら、私にも教えていただけますか?」
『もちろん。あなたも、何か思い当たることがあれば些細なことでも連絡してちょうだい』
「はい」
女性は手元の資料をパタンと閉じた。
『それから――彼とは会えたかしら?』
不意に出てきた、彼。その響きに、祈の指先がわずかに動いた。
「…はい」
『そう。彼も現場の最前線にいたのでしょう。何かと慌ただしかったと思うけど、久しぶりに顔を合わせられてよかったわね』
「……そうですね」
返事のなかに、ほんのわずかな、空白の間があった。
画面の向こうの女性は、その不自然なタイムラグに気づいたようだったが、それ以上は敢えて踏み込んで問いかけなかった。
『何かあったの?』
「いえ。大丈夫です」
『そう』
それ以上、プライベートの領域には入ってこなかった。
『ただ、ひとつだけ。神代さん』
「はい」
『あなたは、誰かの役に立つためだけにそこにいるわけではないのよ。自分のことも、きちんと考えてくれないと』
「……ありがとうございます」
『今日はゆっくり休みなさい。何かあれば、いつでも連絡を』
「はい。おやすみなさいませ」
通話が切れる。
電子音が消え、暗くなった液晶画面に、祈の自身の顔がぼんやりと反射して映り込んだ。
しばらくの間、その生気のない輪郭を見つめてから、祈は端末をテーブルの上へと静かに置いた。
◇
完全に静まり返ったホテルの部屋で、祈はゆっくりと息を吐いた。
銀髪の少女。
その言葉が、まだ頭の中に残っている。自分と同じ色の髪をした、見知らぬ少女。青い炎を操る男。十中八九、林間学校で祈を拐い、そして焼いた男だ。どうして、そんな少女がヴィランと一緒にいたのだろう。
単なる偶然だろうか。それとも。
「……」
そこまで考えかけて、祈は小さく首を振った。何も情報が分かっていない。今の段階で推測を重ね、何かを決めつけることはできない。それでも、胸の奥に生まれた小さな不安は消えてくれなかった。
やがて祈は、今日一日の出来事へと思考の針を戻した。
エンデヴァーの負傷。病院でのひっ迫した治療。ホークスとの再会。
そして――。
『大嫌いです』
別室に響いた、彼のあの鋭い言葉だけが、妙に耳に残って離れない。
祈はゆっくりと視線を落とした。自分の白い手を見つめる。
処置室でエンデヴァーの肉体に触れ、その傷を治していた手だ。何も変わらない。いつも通りの、自分の個性を行使するための手。
なのに。
胸の奥だけが、冷たく、少し痛い。
「……どうしてでしょう」
小さく呟く。その疑問は、自分自身にとっても不思議なことだった。
何故、こんなに傷ついているのだろう。
ホークスに怒られることくらい、最初から覚悟していたはずだった。自分が周囲から見れば無茶をしていることも自覚している。彼の言っている言葉の道理も、間違ってはいない。それなのに。
「……大嫌い、ですか」
ぽつりと、誰もいない空間に向けて繰り返す。その言葉をなぞった途端、胸の奥がまた静かに痛んだ。
「……ふふ」
祈は、自嘲するように小さく笑った。
「おかしいですね」
かつて、雄英高校のなかで、緑谷出久にも同じようなことを言ったことがあった。
誰かを助けるために、当たり前のように自分を犠牲にしようとした彼に対して。自分だけが傷つけばいいと思うことは、助ける側の身勝手な都合なのだと。残される人間の気持ちを、少しは考えてほしいと。
「……私も言ったではありませんか」
祈は深く目を伏せる。
「自己犠牲は、独りよがりだと」
緑谷にあの言葉を投げつけたとき。彼はきっと、深く傷ついたはずだ。自分の信じる正しさを、真っ正面から否定されたように感じたかもしれない。それでも祈は、彼を引き留めるために必要なことだと思って、その言葉を選んだ。
なら。
「……どうして私は」
少しだけ笑う。その横顔は、誰の目にも触れない。
「同じことを言われて、こんなに傷ついているのでしょうね」
自分でも、その矛盾に呆れてしまう。
言葉の持つ意味は、全く同じなのに。立場が、投げつける側から投げつけられる側へと変わっただけで。こんなにも苦しく、息が詰まる。
「……本当に勝手ですね、私は」
祈は椅子に腰を深く掛け直した。
無機質な背もたれに身体を預ける。まぶたを閉じると、さっき別室で対峙したホークスの顔がありありと浮かんできた。
彼は怒っていた。けれど、ただ怒り散らしているだけではなかった。
ひどく苦しそうだった。何か、取り返しのつかないものを前にしているかのように、怖がっているようにも見えた。
「……」
祈は、静かに考える。
ホークスは、昔からそうだった。あの小さな教会のなかで、自分が怪我をすると途端に心配をして、少し姿が見えなくなっただけでも、必死になって自分を捜しに来た。自分が彼の前で無茶をすると、いつも困ったような、泣き出しそうな顔をしていた。
昔から。ずっと、彼はそういう少年だった。
「心配を、かけてしまいましたね」
申し訳なさそうに、小さな部屋の静寂へ向けて呟く。
「あの子は優しいから」
けれど。それと同時に、胸の奥に残っているこの冷たい痛みは、どれだけ理由を並べても消えてはくれなかった。
嫌いと言われたこと。その事実が、自分の想定を遥かに超えて、ただ悲しかった。
「困りましたね。まさかこんなことで、これほど傷つくなんて」
祈は、自身の胸元にそっと手を置く。
もっと強くなければいけない。もっと平気でいなければいけない。他者の感情の揺らぎなど、すべて平熱で受け流すべきなのに。たった一人の、かつて共に過ごした少年の言葉が、いつまでも棘のように刺さって残っている。
「…私もまだまだですね」
また、小さく笑う。
今度の笑い声は、先ほどよりも少し低く、寂しい響きを帯びていた。
そして祈は、深く目を伏せた。
「……もう、仲良くしてくださらないのでしょうか」
その部屋の隅々へ溶けていった言葉だけは。
彼女の内に眠る、驚くほど素直な願いそのものだった。