まだ、彼が『ホークス』という名前の重みを知る前のことだ。
中央の息がかかった過酷な訓練施設から、いくつかの手順を踏んでこの古い教会へと戻ってくる日、少年の背中にある赤い羽は、いつも緊張で固く強張っていた。
教会の重い木製の扉が静かに開いた。
「ただいまー……」
聞こえてきたのは、いつも通りのどこか軽薄さを装った声だった。けれど、玄関で靴を脱いだ啓悟の顔を見た瞬間、祈には彼の状態がすぐに分かった。
その瞳の奥はひどく濁り、肩の位置が不自然に落ちている。彼はひどく疲れていた。
「おかえりなさい、啓悟くん」
台所から小さく顔を出した祈を見るなり、啓悟の張り詰めていた表情がふっと目に見えて緩んだ。
「……おねえさん」
「はい?」
啓悟は手荷物を床に置くことも忘れたまま、ふらふらとした足取りで祈のところまで真っ直ぐに歩いてきた。そして、何の躊躇いもなく、その小さな身体を預けるように重ねてきた。
ぽす、と。
祈の華奢な肩口に、啓悟が頭を乗せた。
「わ」
予想外の重みに、祈の口から小さく声が漏れる。
けれど、退けるようなことはしなかった。
「どうしました?」
「んー……」
明確な返事になっていない。ただの心地よさそうな鼻鳴らしだった。
祈は困ったように小さく笑いながら、白く細い手を伸ばし、啓悟の少し硬い金色の髪をそっと撫で始めた。
「今日は大変だったんですか?」
「……ちょっと」
「そうですか」
さらさら、と、一定の速度で髪を撫で続けていく。その手のひらの温もりが心地いいのか、啓悟は次第に目を細めていった。
「……もうちょっと」
「はい?」
「もうちょっと、撫でて欲しか」
微かに零れ出た、彼の生まれ故郷の訛り。祈は拒むことなく、その小さな頭を変わらない速度で撫で続ける。
「ふふ。いいですよ」
その言葉を聞いた瞬間、啓悟は全身の力を抜いた。
戦闘訓練の反動で常に警戒を怠らなかった肩の力が完全に抜け、背中が小さく丸くなっていく。しまいには、祈の衣服の袖に自身の頬を擦り寄せるようにして、小さく呟いた。
「……あったかい」
その、あまりにも無防備な一幕を、少し離れた廊下の壁際から見ていた筑紫が、心底呆れたような顔をして鼻を鳴らした。
「お前な」
「んー?」
気怠げな筑紫の声に、啓悟は祈の肩に頭を乗せたまま、億劫そうに視線だけを向けた。
「帰ってきた途端、それかよ。だらしねーな。公安の訓練生が聞いて呆れるぜ」
「だって、きつかんやもん」
「おいおい。公安の教官たちの前じゃ、そんな間抜けたツラしてねぇだろ」
「公安とここは違うやん」
一切の迷いのない即答だった。
筑紫がわずかに眉を上げる。
「何が違うんだよ」
啓悟は祈の肩に頬を押し付けたまま、当然のことを口にするように答えた。
「ここ、おねえさんおるし」
「……」
「あと、筑紫さんも」
「へえ。俺はついでか?」
「うん」
「殴るぞ、お前」
「こわーい」
言葉とは裏腹に、その声には一ミリの恐怖も混ざっていなかった。筑紫が自分を本気で害することなどないという、この空間への絶対的な信頼がある。
二人のやり取りを間近で聞いていた祈が、くすくすと楽しそうに笑った。
「二人とも、喧嘩しないでくださいね」
「してねぇよ」
「しとらん」
口を揃えて放たれた否定の言葉だけは、奇妙に綺麗に揃っていた。
祈はまた、啓悟の耳の後ろのあたりを優しく指先で撫でる。すると啓悟は、今度は祈の腰のあたりに細い両手を回し、ぎゅっと抱きついてきた。
「啓悟くん?」
「……このままでよか?」
「ええ。構いませんよ。気が済むまでどうぞ」
「やった」
その声があまりにも素直で、子供らしく弾んでいたので、祈は少しだけ目を細めて笑った。
「猫みたいですね」
「猫?」
「ええ。とても可愛らしい、甘えん坊さんです」
「……猫なら、おねーさんにこうして撫でてもろうてもよか?」
「もちろんです」
「じゃあ、俺、猫でよか」
「ふふ」
撫でられるたびに、啓悟の長い睫毛が伏せられ、目が細くなっていく。その様子は、本当に喉を鳴らしている猫のようにも見えた。
筑紫がその光景を眺めながら、煙草を咥えるような仕草でぼそりと言った。
「完全に懐いてんな、こりゃ」
「うん」
啓悟は否定しなかった。むしろ、それが自分の当然の権利であるかのように、祈の肩へさらに深く頬を押しつける。
「おねえさん、今日どこ行ってた?」
「ずっと教会にいましたよ。どこへも行っていません」
「そっか」
「ええ。啓悟くんが帰ってくるまで、ずっとここで待っていました」
その言葉を聞いた瞬間だった。
啓悟の小さな身体から、最後に残っていた強張りのような緊張が、完全に抜けて消えた。
「……そっか」
小さく、満足そうに呟いて、彼は完全に目を閉じた。
「じゃあ、よかった」
「何がです?」
「帰ってきたら、ちゃんとおねえさんおるから……」
祈は少しだけ目を細め、その愛おしい少年の頭頂部を見つめた。
「ええ。いますよ。私はどこへも行きませんから」
「……うん」
それからしばらくすると、啓悟は完全に黙り込んだ。規則正しい、小さな呼吸の音だけが、祈の胸元に直接伝わってくる。
祈がそっと顔を覗き込んだ。
「啓悟くん?」
返事はなかった。
彼はそのまま、祈の身体に預けた姿勢のまま、完全に眠りに落ちていた。
「まあ……」
祈は苦笑して、せっかく深く沈んだ眠りを起こさないように、そのままの姿勢を維持しながら、髪を撫でる手の速度だけを落として続けた。
筑紫が小さくため息をつき、肩をすくめる。
「寝るなら最初から布団で寝ろってんだ。重いだろ、そいつ」
「いいえ、それほどでもありませんよ。……今日はよほど、あちらでの訓練が疲れていたんでしょうね」
「……だろうな。ガキの限界を超えたメニューを平気で組むからな、あそこの連中は。感情を殺せとか言われてんだろ」
筑紫はそれ以上、公安への愚痴を口にすることはしなかった。
教会の、静かで穏やかな午後。
祈の隣で、啓悟は世界中の何よりも安心しきったような顔をして、無防備に眠り続けている。
外の世界では、どれだけ大人たちに囲まれ、ヒーローの卵として張り詰め、気を張ることを強要される少年であっても。
この祈のいる空間だけは、彼はただの一人の、彼女に無条件で甘えることの許された少年だった。