深夜の雄英高校、教員宿舎の一室。
静まり返った部屋のなかで、八木俊典は椅子に深く身体を預けていた。
今日、テレビのニュースでは九州で起きたハイエンド脳無との大規模戦闘、エンデヴァーの重傷、そしてホークスの負傷が繰り返し報じられていた。
(祈くんは、無事だろうか)
その事実を確認してからは、胸の奥にある焦燥感がずっと消えずにいた。彼女もあの福岡の地に赴いているのだ。公安の監視と護衛がついているとはいえ、万が一の事態が起きていれば、自分はなにもできない。何もしてやることができない。護衛として自分がそばにいてやれれば、とわずかに後悔のため息をつく。
その時、机の上に置かれていた通信端末が、電子音を鳴らした。
俊典は少しばかり驚いた。こんな時間に、一体誰からの連絡だろうか。
不審に思いながら画面に表示された名前に目を向けた瞬間、彼は思わず大きく目を瞬かせた。
――神代祈。
液晶画面に白く浮かび上がったのは、他ならぬ彼女の名前だった。
彼女の方から電話をかけてくること自体、極めて珍しい。ましてや、日付が変わるかというこの深夜に。
一瞬の戸惑いのあと、俊典は慌てて通話ボタンを押して受話器を耳へと当てた。取り乱したような動作になってしまったのは、自らの胸の奥から湧き上がった、単純で、あまりにも純粋な嬉しさを抑えきれなかったからだ。
「……祈くん?」
『はい』
耳腔に滑り込んできた、鈴を転がすような静かな声。
その声を聞いた瞬間、俊典の胸の奥で頑なに強張っていた緊張が、ふっと嘘のように緩んでいくのが分かった。
けれど、安堵の直後、彼の脳裏には再びニュースの凄惨な映像が過る。
「昼間の…大丈夫だったかい?エンデヴァーたちも酷い怪我を負ったと聞いたが。君は……君の身に、何かありはしなかったかい?」
心配していた。ずっと、気が気ではなかったのだと、声音に滲む焦燥が隠せない。
受話器の向こうから、医療班の手配や公安の処理は滞りなく進み、自分自身の肉体にも何一つ問題はないという丁寧な報告が返ってくる。無事だという事実を彼女の口から直接聞いて、俊典はようやく、深く長く息を吐き出すことができた。
それでも。
電話越しの祈の気配は、どこまでも静かすぎた。
いつもと変わらない、他者を気遣う丁寧な口調。穏やかな声音。その微かな声のなかに、ほんの少しだけ、いつもより元気が欠落しているような違和感があった。
(何か、あったのだろうか)
戦闘の恐怖か、あるいは公安の理不尽な命令に心を痛めたのか。いや、彼女は戦闘には関わっていないはずだ。だとすると、もっと別の何かだろう。
「祈くん…何か、あったんだね?」
俊典がそう、静かに尋ねたときだった。電話の向こうの祈は、しばらくの間、何かを迷うように小さく黙り込んだ。受話器を通じて、彼女の微かな呼吸の音だけが、深夜の部屋に寂しく響く。
そして。
彼女は、ひどく素直な声を零した。
『……俊典さんの、声が聞きたくなって』
「――っ」
俊典は、完全に言葉を失った。
胸を強く突かれたような衝撃。あまりにも思いがけない、彼女の口から溢れた欲求。
彼女が。神代祈という女性が、初めて、自らの意志で「あなたの声を聞きたい」と思ってくれた。
それだけの事実が、どうしてこれほどまでに自分の心を激しく揺さぶり、歓喜で満たしてしまうのだろう。
深く落ち込んだ眼窩の奥にある瞳が、熱い光を帯びて潤む。胸の奥が、じわじわと、火を灯されたかのように温かくなっていく。
「……はは。そうか。そうだったんだね」
思わず、嬉しさのあまりに口元が緩み、小さな笑い声が零れてしまった。
嬉しいと、自らの内に募るこの狂おしいほどの熱を、そのまま素直に彼女へ伝えたかった。彼女に必要とされたことが、何よりも幸福だと感じた。
『すいません、ご迷惑でしたよね』
「いや、いいんだ」
けれど、それと同時に。
俊典の胸の奥には、小さく、冷たい心配が頭をもたげた。
祈は、寂しいときや苦しいときに、正しく誰かを頼ることができる人だろうか。
「君にことが心配で眠れなかったから…声が聞けて嬉しいよ」
否、違う。これまでの短い日々のなかで、彼女が自らの弱さや傷を誰かに見せ、縋るように甘えるところを、俊典はただの一度も見聞きしたことがない。彼女はいつも、他人の痛みを引き受ける側にしか立とうとしなかった。
だからこそ。
今夜、誰もいない福岡のホテルの一室で、彼女が他の誰でもない「八木俊典」という自分を選び、電話をかけてくれたことが、誇らしかった。
世界を支えていた平和の象徴としての誇りではない。一人の男として、彼女にとって『声を聞きたくなるような特別な相手』になれたという事実。
彼女に何かが起きたことは間違いない。そしてそれは身体に傷がつくようなものではなく、おそらく精神的なもの。
「寂しかったのかい?」
電話の向こうの祈はすぐには答えなかった。
『……少しだけ』
小さな声だった。
「そうか」
俊典はそれ以上聞かなかった。
『なら、今夜は少し話をしよう』
そこからは、お土産の選択についての他愛のない、本当に些細な会話が続いた。どちらのお菓子が良いか迷ってしまって、という彼女の言葉に、俊典は腕を組みながら、何度も思う。
(もう少し、このまま話していたい)
彼女が、今日の疲れを忘れて、眠くなるまで。
いや。できることなら、彼女の意識が深い眠りへと沈む、その直前の瞬間まで、この優しい声を自分の耳だけで独占していたい。
そんな重い独占欲をそのまま口にすれば、彼女を困らせ、警戒させてしまうだろう。
『本当は、あと二日ほど福岡に滞在する予定だったのですが…早めに切り上げて帰ろうと思います。皆さんのことも心配ですし』
「ははは、こっちでは皆君の心配をしていたよ」
『それは、申し訳ないことをしました…皆さんで分けられるお土産を買っていきますね』
「それがいい、きっと喜ぶよ」
俊典は優しく告げた。
「疲れもあるだろう。あまり夜更かしをしては、身体に障る。……また、いつでも電話しておいで。私は、ここにいるからね」
『はい。ありがとうございます、俊典さん』
ぶつ、と静かに通話が切れる。
通信が途絶え、完全に静まり返った教員宿舎の部屋で、俊典はしばらくの間、手の中の通信端末の黒い画面を見つめたまま動かなかった。
そして、先ほど彼女が口にした、あの愛おしい一言を、何度も、何度も脳内で繰り返す。
――俊典さんの、声が聞きたくなって。
思わず、自身の大きな頬が、子供のように緩んでいく。
「……参ったなぁ」
誰もいない暗がりのなかに、ぽつりと小さく呟く。声は少しだけ掠れていた。
こんなにも胸が弾み、嬉しい感情で満たされてしまっては、今夜はもう、どうあがいても眠れそうにない。
彼女は、きっと何も知らないのだろう。
自分が何気なく口にしたその一言が、一人の男を狂おしいほど喜ばせている。
そして。ただ彼女の優しい声を聞けたという、それだけのことで、これほどまでに世界が美しく見え、幸せになってしまう八木俊典の、重い恋心のすべてを。
「しまった、会いたくなってきた…」
頭の中で、彼女の朗らかな笑顔を思い浮かべる。
話したいことがたくさんあった。
「はやく帰ってこないかな」
まだ離れて数日も経っていないというのに、彼女が恋しかった。
祈にとって俊典は「安心出来る人」