翌朝。
九州を離れる前に、祈は公安の護衛職員と今後の予定について話をしていた。
「雄英までお送りします。到着後は学校側へ身柄を引き継ぐ予定です」
「ありがとうございます。お手数をおかけします」
「いえ。こちらの任務ですので」
淡々としたやり取りだった。
昨夜の電話のおかげか、祈の表情は幾分穏やかになっていた。もっとも、完全に元気になったわけではない。時折、何かを深く考え込むように視線を床へ落とすことがある。護衛の職員もそのタイムラグに気づいていたが、あえてそこへ触れることはしなかった。
帰路につく前に、祈は博多駅構内の土産物店へ立ち寄った。
「……少し、見てもよろしいでしょうか?」
「お土産ですか?」
「はい。皆さんに」
店内には、菓子類や地域の名産品が整然と並んでいる。
祈はひとつひとつ、丁寧に棚の商品を眺めていた。雄英の先生方には何がいいだろう。生徒たちにも、何か。今回の件で、彼らには多大なる心配をかけてしまったから。
そんな他愛のないことを考えていた、その時だった。
「――ねえ」
背後から、声がした。
祈は静かに振り返る。
そこにいたのは、銀色の髪。青い瞳。見慣れた自分自身の顔だった。
しかし、黒いワンピースを着たその少女は、祈とは違って白いヴェールを身につけていなかった。手にする杖もない。笑ってもいない。ただ無表情に、十五歳程度に見える少女が、祈の前に平然と佇んでいた。
「……あなたは」
「やっと見つけた」
少女は無表情のまま、祈を見つめている。その声に、感情の起伏はほとんどなかった。
「……クローン、ですか」
「そう」
瓜二つ。
そしてあまりにも簡潔な返事だった。
次の瞬間、少女が動いた。祈の視界から、突如としてその姿が消える。
「――っ!」
祈は咄嗟に身を引いた。直後、先ほどまで祈の頭部があった空間を、少女の鋭い拳が猛烈な速度で通り過ぎる。
がしゃんっ
背後の商品棚が風圧で大きく揺れた。ガラスの擦れる音が響き、周囲の買い物客から一斉に悲鳴が上がる。
「皆さん、離れてください!」
祈は周囲へ声を上げながら、追撃を繰り出してきたクローンの腕を自身の腕で受け止めた。
しかし――重い。それは想像を遥かに超える質量だった。
単なる力任せの一撃ではない。正確にこちらの急所を狙い、こちらの反応を冷徹に見て、次の動きを合理的に変えている。祈は腕を捻ってその圧力をいなし、後方へと距離を取った。
「……どうして」
「連れて帰る」
「なんのために?」
「教えない」
少女は短く答える。その間にも、彼女の青い瞳は祈の足元、肩、そして呼吸へと細かく動いていた。観察しているのだ、オリジナルである祈の身体の癖を。
祈は一瞬、周囲へと視線を走らせた。店員、客、逃げ遅れて立ち尽くす子供。
この土産物店は、戦うにはあまりにも狭すぎる。このままここで個性の応酬を始めれば、確実に周囲の無関係な人間を巻き込むことになる。
「……少し、待ってください」
「だめ、待たない」
即答だった。
少女は再び、床を強く蹴って踏み込んできた。
祈は容赦なく繰り出される攻撃を紙一重で避けながら、彼女をどうにか店の外の広い通路へ誘導しようとする。しかし、その意図的な動きすらも完全に読まれていた。クローンは祈が避けようとする方向へ先回りし、物理的に逃げ道を塞ぐ。
鋭い足払い。
祈は上方へと跳び退いてそれをかわしたが、着地の瞬間、強固な力で首元を掴まれた。
「――っ!」
強引に身体を引き寄せられる。直後、衣服を抜けて重い膝蹴りが腹部へと突き刺さった。
肺の空気が強制的に押し出され、息が詰まる。祈は咄嗟に個性を使おうとした。けれど、その発動よりも早く、クローンの指先が祈の首筋へと真っ直ぐに伸びる。
正確な位置。迷いのない動き。
祈は腕を上げてその指をどうにか防いだが、逆に手首を強引に捻られ、重心の体勢を完全に崩された。背中が硬い壁に強くぶつかる。
「……っあなた、強いですね」
「冗談でしょ? あなたが弱いだけ」
少女は淡々と言った。
祈は、わずかに息を呑む。否定はできなかった。
今の自分は、確かに本調子ではない。ホークスとの衝突による精神的な摩耗から、身体の動きが鈍い。判断も僅かに遅れている。
けれど、それ以上に。目の前の少女は、祈自身が戦闘において意図して「持とうとしなかったもの」を、すべて高い水準で備えていた。圧倒的な肉体の力、相手の次の動きを正確に読む観察力、状況に応じて迷わず最適な暴力を選択する判断力。
そして――人を傷つけること、周囲を巻き込むことに、何のためらいもないという冷酷さ。
祈は、周囲に素早く視線を走らせた。紛れていた護衛の職員たちが、こちらへ向かって一斉に距離を詰めてくるのが見える。
(いけない、この少女とここで戦ってはいけない)
周囲の被害が拡大する。「連れて行く」と彼女は言った。ならば、ここで即座に殺されることはないはずだ。
その瞬間、クローンは祈の視線の先――護衛の動きを捉えた。
そして、祈が護衛の方へ意識を向けた、ほんの一瞬の隙を彼女は見逃さなかった。
少女の手のひらが、祈の顎を容赦なく打ち上げた。
ぐわん、と視界が激しく揺らぐ。続けて、後頭部への正確な打撃の衝撃。
全身の身体から、急速に力が抜けていく。
床へ倒れ込む直前、祈の視界の端に、少女の顔が映った。そこには、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、確実に目の前の任務を遂行したという事実だけが、平熱のままそこにある。
(――強い)
意識が薄れるなかで、そう思った。悔しいほどに。
そして、祈の意識は、そこで完全に途切れた。
◇
公安委員会の特定管理室。
室内の無機質なモニターに映し出された監視カメラの映像には、その一部始終のすべてが残されていた。
土産物店で、黒いワンピースの少女に声をかけられる神代祈。
最初の突進を最小限の動きで避ける反応。狭い店内で、周囲の一般人間を庇うようにして自らの動きを制限しながら戦う姿。そして、その躊躇の隙を突かれ、徐々に壁際へと追い詰められていく様子。
映像のなかで、周囲の護衛職員が武器を手に駆けつけた時には、すでにすべてが遅かった。
少女は完全に気絶した祈の身体を抱え、店の裏口の方向へと向かっていた。職員たちが即座に追おうとする。
しかし、少女は振り返りもせず、ただ一言、冷淡に言い放った。
『来ないで』
その声の持つ、絶対的な威力に、画面の中の護衛たちの足が一瞬だけ完全に止まった。
次の瞬間、少女の姿はカメラの死角へと消え、映像から完全に消滅した。
画面に残されたのは、無残に倒れた商品棚と、呆然と立ち尽くす店員たちの姿だけだった。
そして、画面の中で、最後まで周囲の一般客を気にしていた祈の姿。戦いながら、何度も人を庇おうとしていた。そのために、攻撃を完全に避けきれなかった。そのために、判断が遅れた。そのために――彼女は、負けたのだ。
映像を凝視していた公安の職員たちは、誰も口を開かなかった。
祈が本調子ではなかったことは、前夜のデータからも明らかだった。だが、それ以上に。
クローンの少女が、あまりにも強すぎた。
神代祈が持つポテンシャルを、全く同じ顔をした少女が、まるで別の生き物のように効率的に使いこなしていた。迷わず。躊躇わず。誰かを守るために、自分の動きを制限することもなく、ただ、目の前のターゲットを無力化するためだけに、最適化された暴力を行使している。
その決定的な差は、個性の出力の違いだけではなかった。
祈が持たないもの。
祈が、これまでの人生で頑なに「持とうとしなかったもの」――相手を徹底的に傷つける明確な意志と、暴力。それをクローンの少女は持っていた。
「……待て」
監視映像を何度も巻き戻していた一人の職員が、画面を静かに止めた。
黒いワンピースの少女。銀髪。青い瞳。そして、神代祈と一卵性の双子のように同じ顔。
「何故、神代祈のクローンが存在している?」
誰かが、掠れた声で呟いた。
室内が、冷たい静寂に包まれる。
「彼女の細胞組織は、この中央の最深部で厳重に管理していたはずだ。個性の研究データも、身体情報も、外部へ持ち出せる状態のものは一切存在しなかったはずだろう」
「……過去の、六年前に解体した古い研究施設は?」
「すでにすべて解体済みだ。関係資料も、あの夜に我々が完全に回収している」
別の職員が、険しい表情で静止した画面を見つめた。
「それでも、現実としてあの少女は存在している」
映像の中で、クローンの少女は、倒れた祈の身体を抱き上げている。明確な体格差があるにも関わらず、まるで軽い荷物でも扱うかのように、ひょい、と。その無駄のない動きは、あまりにも自然だった。まるで、最初から彼女をこの場所から連れ帰ることだけが、目的だったかのように。
「……一体誰が、何のために作った?」
問いに対する答えは、誰からも出なかった。
ただひとつ、これ以上ない確かな事実があった。
国家最高機密である神代祈という人間の情報が、公安委員会の絶対的な管理下から、いつの間にか完全に失われていた可能性。そして、その失われた最悪の情報を利用して、彼女と同じ顔をした、迷いのない少女が生み出されていたという事実。
「おそらく、現場から報告があったヴィランの一人と行動を共にしていたという銀髪の少女だな」
「……これは、単なる突発的な誘拐ではない」
一人の職員が言った。
「神代祈そのものの身柄を狙った、極めて計画的な犯行だ」
画面は、少女が祈を連れ去る最後の瞬間で止まっていた。
白銀の髪が、監視カメラの蛍光灯の光を受けて淡く揺れている。その無表情な顔は、彼らが六年もの間管理し続けてきた神代祈と全く同じ形をしていた。