訓練場に、乾いた靴音が響く。
トガヒミコは、冷たい鉄の重みを持つナイフを片手に、筑紫と向かい合っていた。
「じゃあ、いきますね!」
「おう」
気怠げな返事と同時に、トガが鋭く地面を蹴った。
正面から直線的に踏み込む。筑紫は微動だにしない。ナイフの刃先が彼の胸元へ届く寸前、トガの身体がぐにゃりと不自然に横へ流れた。正面を囮にして死角に回り込み、背後から無防備な首筋へ向けて刃を振るう。
しかし。
「遅い」
筑紫は振り返りもせず、背後から伸びてきたトガの手首を正確に押さえた。
「わっ!」
手首を軽く捻られ、金属音が鳴ってナイフが床に落ちる。
「今のは?」
「えっと……正面から行くと見せかけて、横に回りました!」
「見れば分かる」
「ひどい!」
「はぁ、お前の動きは分かりやすいんだよ」
筑紫は無造作に手を離した。トガは赤くなった手首をさすりながら、不満そうに頬を膨らませる。
「さっきはちゃんと騙せたと思ったのに」
「あん?何をだ」
「師匠がこっちを見ると思ったんです」
「おう、見てたぞ」
「え?」
「お前が動く前からな」
トガは大きく目を丸くした。筑紫は床に落ちたナイフを拾い上げ、彼女の前に差し戻す。
「相手の目を見て動きを決めるな。相手がどこを見ているかに頼るな。視線を外したからといって、見ていないとは限らん」
「……難しいです」
「難しくしているのはお前だな」
「えー!」
筑紫は相変わらず表情を変えない。
「お前は相手の反応を見るのが好きだろう?」
「好きです!」
「なら、相手に反応を見せるな」
「師匠みたいに?」
「そうだ」
トガは筑紫の顔をじっと見つめた。
眉も動かない。口元も変わらない。怒っているのか、呆れているのか、それとも何も考えていないのか、その平熱の仮面からは何も読み取れなかった。
「師匠って、何を考えているか全然分かりませんね」
「分かる必要はないからな」
「でも、知りたいです!」
「とりあえず訓練に集中しろ。実践だったら死んでるぞ」
「はーい」
トガはナイフを構え直した。今度は正面から突っ込まない。一度大きく距離を取り、わざと無防備な隙を見せる。
筑紫は動かない。トガは一歩、また一歩と慎重に近づいた。そして、突然深くしゃがみ込む。床を強く蹴り、低い位置から懐へ潜り込もうとした。
その瞬間。
筑紫の足が、トガの進路を遮るように塞いだ。
「そこだ」
「わっ!」
勢いを殺せず、トガは床に手をついた。
「……また失敗です」
「今のは悪くない」
「本当ですか?」
「最初の動きはな」
「じゃあ、最後は?」
「読んでたな」
「むー……」
トガは立ち上がり、服についた埃をパタパタと払った。それから、ふと筑紫を見上げる。
「師匠は、私が何をするか分かるんですか?」
「全部じゃねぇが、ある程度は読める」
「じゃあ、どうして?」
「お前が何をしたいかを考えている」
「……何をしたいか?」
「相手を傷つけたいのか。逃げたいのか。近づきたいのか。何かを守りたいのか」
筑紫は淡々と続ける。
「動きだけを見ていても分からん。人間は、理由があって動く」
トガは少し考えた。
「じゃあ、師匠は私のことも考えてくれてるんですね」
「訓練だからな」
「ふふ。そういうことにしておきます」
筑紫は答えない。
「もう一回お願いします!」
「休憩しろ」
「まだできます!」
「息が上がってんぞ」
「大丈夫です!」
「ダメだ、休め。大丈夫かどうかは俺が決める」
トガは一瞬だけ口を尖らせたが、すぐにいつも通りの笑顔を浮かべた。
「…師匠って、意外と心配性ですよね」
「気のせいだろ」
「絶対そうです!」
筑紫は時計に目を向けた。
「五分休憩。そのあと再開だ」
「はーい!」
トガは床に座り込む。筑紫はその様子を見てから、何も言わずに冷たい水のペットボトルを置いた。
「ありがとうございます、師匠!」
「飲め」
「はい!」
トガは水を飲みながら、もう一度筑紫を見上げる。やっぱり、何を考えているのか分からない。でも。
「……師匠」
「あん?」
「私、強くなれますか?」
「なるために来たんだろうが」
「はい!」
「なら、なれよ」
あまりにも簡単な返事だった。けれどトガは嬉しそうに笑った。
「私、師匠のこと大好きです!」
「おう、そうか」
筑紫は表情ひとつ変えず、訓練用の道具を片付け始めた。その広い背中を見ながら、トガは小さく笑う。嫌われてはいないらしい、それなら、今は十分だった。
「師匠」
「何だ」
「共感層って、相手の気持ちになることですよね?」
「半分は合ってるな」
筑紫は机の上に置いた紙を一枚、トガの前に滑らせた。そこには、至極簡単な状況が書かれていた。
――目の前の人間が、あなたを見て怒鳴っている。
「どうする」
「えっと……怒っている理由を考えます!」
「何故怒っていると思う」
「私が何かしたから?」
「決めつけるな」
「じゃあ、何か嫌なことがあった?」
「それも可能性の一つだな」
トガは紙を見つめた。
「うーん……難しいです」
「難しくていい。簡単に分かった気になるな」
筑紫は淡々と言った。
「相手の感情を読むとき、最初にすることは何だ」
「観察?」
「そうだ。何を言ったか。どういう声だったか。どこを見ていたか。何に反応したか」
「でも、顔を見れば分かることもありますよね?」
「いや、顔は嘘をつく」
「えっ」
「声も、言葉も、態度もだ。人間は自分の感情を隠す。本人が自分の感情を理解していないこともある」
トガは筑紫の顔を見た。相変わらず、何も読み取れない。
「師匠も隠してます?」
「何をだ」
「感情です」
「訓練に戻れ」
「隠してますね!」
筑紫は返事をしなかった。トガは楽しそうに笑い、それから紙に視線を戻す。
「怒っている人は、本当は悲しいのかもしれない?」
「そういう場合もある」
「怖いのかもしれない?」
「ある」
「寂しいのかもしれない?」
「ある」
「じゃあ、怒っているんじゃなくて、寂しいって言ってあげたらいいんですか?」
「違う」
筑紫の声が、少しだけ低くなった。
「お前が勝手に決めるな」
トガは目を瞬かせた。
「相手の感情を想像するのはいい。だが、それを本人の答えにするな。お前が理解したつもりになるだけだ」
「……そっか」
「共感は、相手の中に入って考えることだ。相手の代わりに答えを決めることじゃない」
筑紫は紙を人差し指で静かに叩いた。
「それから、もう一つ」
「はい」
「相手の中に入ったら、必ず戻ってこい」
「戻る?」
「相手が怒っているなら、その怒りを理解しろ。相手が悲しんでいるなら、その悲しみを想像しろ。だが、それを自分の感情と混ぜるな」
「どうしてですか?」
「混ざれば、判断を誤る」
筑紫はトガを見た。
「相手が泣いているからといって、お前まで泣く必要はない。相手が苦しんでいるからといって、お前が苦しむ必要もない」
「ベースに、苦しい人がいたら助けたいです」
「助けるかどうかは、そのあとに決めればいい」
トガは少しだけ考えた。
「相手の気持ちが分かっても、助けなくていいこともある?」
「ある」
「嫌な人でも?」
「ある」
「好きな人でも?」
「ある」
トガは口を閉じた。筑紫は続ける。
「共感することは、相手の望みを叶えることじゃない。相手を理解したうえで、自分がどうするかを決めることだ」
「……師匠は、いつもそうしてるんですか?」
「そうしている」
「誰に対しても?」
「できる限りはな」
トガは筑紫をじっと見つめた。その顔からは、やはり何も読み取れない。
「師匠のことも、共感層で分かりますか?」
「さあな」
「分からないんですか?」
「分からせる必要がない」
「ずるいです!」
「は、そう思うなら見抜いてみろ」
筑紫は椅子から立ち上がった。
「次は実践だ。俺を相手にやってみろ」
「はい!」
トガも立ち上がる。筑紫は彼女の前に立った。
「今、俺は何を考えていると思う」
トガは筑紫の目を見た。表情は変わらない。声にも揺れがない。けれど、さっきからずっと、自分の答えを待っている。
「……私が、ちゃんと考えられるか見てる?」
「それだけか?」
「私が間違えたら、教えてくれる?」
「それだけか」
トガは少し考えた。それから、にっこり笑う。
「私がちゃんとできるようになるって、思ってる?」
筑紫は答えなかった。しばらくして、短く言う。
「いい調子だな、続けろ」
トガは嬉しそうに頷いた。筑紫の表情は変わらない。ただ、彼女が次の答えを探すのを、静かに待っていた。
「師匠」
すべての訓練が終わったあと、トガは床に座り込んでいた。汗を拭きながら、ぼんやりと自分の手を眺めている。
「私、好きな人がいると、その人になりたくなっちゃうんです」
筑紫は道具を片付けながら、特に驚いた様子もなく答えた。
「ああ、知ってる」
「その人の血を飲んで、その人の姿になって。その人と同じものを見て、同じように笑って……」
トガは自分の指先を見つめる。
「そうしたら、もっと近くにいられる気がするんです」
「そうか」
「でも、師匠は違うって言うんですよね」
「違うとは言ってねぇ」
筑紫は手を止めた。
「それも、お前の好きの形なんだろう」
トガが顔を上げる。
「……怒らないんですか?」
「何に怒る?」
「私の好きの形です」
「俺が決めることじゃない。ただし、それでお前自身をなくすな」
「自分を……?」
「相手になろうとするな、という話じゃない。相手を好きになるために、自分を捨てる必要はないってことだ」
トガは黙って聞いていた。
「相手のことを知りたいなら、相手を見ろ。何を考えているのか、何を嫌がるのか、何を大切にしているのか。お前の望みを押しつけず、相手の望みも考えろ」
「……それが共感層?」
「その一つだ」
筑紫はトガの前に静かに腰を下ろした。
「相手の中に入って考える。だが、戻ってこい。お前は相手じゃない。お前はトガだ」
「私は、トガ……」
「そうだ」
「でも、相手が私じゃない誰かを好きだったら?」
「それも相手の自由だ」
「私と一緒にいたくないって言ったら?」
「その意思を尊重しろ」
トガの口元から笑みが消えた。
「……寂しいです」
「そうだろうな」
「悲しいし、嫌です」
「そうだな」
「それでも?」
「ああ、それでもだ」
筑紫は目を逸らさなかった。
「相手を好きでいることと、相手のすべてを自分のものにすることは違う」
トガは膝を抱えた。
「じゃあ、好きな人と一緒にいたいときは、どうしたらいいんですか?」
「簡単だ、一緒にいたいと言えばいい」
「それだけ?」
「それだけだ。相手にも選ぶ権利がある。お前と一緒にいたいと思えば、そばにいる」
「……私のままで?」
「お前のままでいい。そのままのお前が好きな奴もいるだろうよ」
トガは何度か瞬きをした。
「私が私のままでも、好きになってもらえるんですか?」
「それを決めるのは相手だ」
筑紫は少し間を置いた。
「だが、お前が自分を捨てて手に入れた関係は、お前自身がそこにいない」
「…………」
「お前は、好きな相手と一緒にいたいんだろう?」
「はい」
「なら、お前もそこにいないとダメだろーが」
トガは俯いた。その言葉を、すぐには理解できなかった。
相手にならなくてもいい。相手と同じ姿でなくてもいい。自分の好きなものを、自分のまま好きでいていい。そんなことを、これまでの人生で誰かに教わったことはなかった。
「師匠」
「何だ」
「私、トガのままでいてもいいですか?」
「何度もそう言ってんだろ」
「えへへ」
トガは笑った。いつものような、弾ける笑顔だった。
「じゃあ、私、トガのままで師匠のこと好きでいますね!」
「おう、好きにしろ」
「師匠は私のこと嫌いですか?」
「訓練を続けるぞ」
「答えてくれない!」
筑紫は立ち上がった。表情は変わらない。けれど、トガが立ち上がるのを待ってから、訓練場の扉へ向かった。
「置いていかないでください、師匠!」
「置いていかれたくないなら、ついてこい」
「はーい!」
トガはその大きな背中を追いかけた。
誰かと同じにならなくてもいい。自分の足で、その人の隣まで歩いていけばいい。まだ難しいけれど、少しだけ、その意味が分かった気がした。