神様にはなれない私たち   作:琴ノ葉しずく

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第73話 鏡のなかのトガヒミコ

 

 

 訓練場に、乾いた靴音が響く。

 トガヒミコは、冷たい鉄の重みを持つナイフを片手に、筑紫と向かい合っていた。

 

「じゃあ、いきますね!」

「おう」

 

 気怠げな返事と同時に、トガが鋭く地面を蹴った。

 正面から直線的に踏み込む。筑紫は微動だにしない。ナイフの刃先が彼の胸元へ届く寸前、トガの身体がぐにゃりと不自然に横へ流れた。正面を囮にして死角に回り込み、背後から無防備な首筋へ向けて刃を振るう。

 しかし。

 

「遅い」

 

 筑紫は振り返りもせず、背後から伸びてきたトガの手首を正確に押さえた。

 

「わっ!」

 

 手首を軽く捻られ、金属音が鳴ってナイフが床に落ちる。

 

「今のは?」

「えっと……正面から行くと見せかけて、横に回りました!」

「見れば分かる」

「ひどい!」

「はぁ、お前の動きは分かりやすいんだよ」

 

 筑紫は無造作に手を離した。トガは赤くなった手首をさすりながら、不満そうに頬を膨らませる。

 

「さっきはちゃんと騙せたと思ったのに」

「あん?何をだ」

「師匠がこっちを見ると思ったんです」

「おう、見てたぞ」

「え?」

「お前が動く前からな」

 

 トガは大きく目を丸くした。筑紫は床に落ちたナイフを拾い上げ、彼女の前に差し戻す。

 

「相手の目を見て動きを決めるな。相手がどこを見ているかに頼るな。視線を外したからといって、見ていないとは限らん」

「……難しいです」

「難しくしているのはお前だな」

「えー!」

 

 筑紫は相変わらず表情を変えない。

 

「お前は相手の反応を見るのが好きだろう?」

「好きです!」

「なら、相手に反応を見せるな」

「師匠みたいに?」

「そうだ」

 

 トガは筑紫の顔をじっと見つめた。

 眉も動かない。口元も変わらない。怒っているのか、呆れているのか、それとも何も考えていないのか、その平熱の仮面からは何も読み取れなかった。

 

「師匠って、何を考えているか全然分かりませんね」

「分かる必要はないからな」

「でも、知りたいです!」

「とりあえず訓練に集中しろ。実践だったら死んでるぞ」

「はーい」

 

 トガはナイフを構え直した。今度は正面から突っ込まない。一度大きく距離を取り、わざと無防備な隙を見せる。

 筑紫は動かない。トガは一歩、また一歩と慎重に近づいた。そして、突然深くしゃがみ込む。床を強く蹴り、低い位置から懐へ潜り込もうとした。

 

 その瞬間。

 筑紫の足が、トガの進路を遮るように塞いだ。

 

「そこだ」

「わっ!」

 

 勢いを殺せず、トガは床に手をついた。

 

「……また失敗です」

「今のは悪くない」

「本当ですか?」

「最初の動きはな」

「じゃあ、最後は?」

「読んでたな」

「むー……」

 

 トガは立ち上がり、服についた埃をパタパタと払った。それから、ふと筑紫を見上げる。

 

「師匠は、私が何をするか分かるんですか?」

「全部じゃねぇが、ある程度は読める」

「じゃあ、どうして?」

「お前が何をしたいかを考えている」

「……何をしたいか?」

「相手を傷つけたいのか。逃げたいのか。近づきたいのか。何かを守りたいのか」

 

 筑紫は淡々と続ける。

 

「動きだけを見ていても分からん。人間は、理由があって動く」

 

 トガは少し考えた。

 

「じゃあ、師匠は私のことも考えてくれてるんですね」

「訓練だからな」

「ふふ。そういうことにしておきます」

 

 筑紫は答えない。

 

「もう一回お願いします!」

「休憩しろ」

「まだできます!」

「息が上がってんぞ」

「大丈夫です!」

「ダメだ、休め。大丈夫かどうかは俺が決める」

 

 トガは一瞬だけ口を尖らせたが、すぐにいつも通りの笑顔を浮かべた。

 

「…師匠って、意外と心配性ですよね」

「気のせいだろ」

「絶対そうです!」

 

 筑紫は時計に目を向けた。

 

「五分休憩。そのあと再開だ」

「はーい!」

 

 トガは床に座り込む。筑紫はその様子を見てから、何も言わずに冷たい水のペットボトルを置いた。

 

「ありがとうございます、師匠!」

「飲め」

「はい!」

 

 トガは水を飲みながら、もう一度筑紫を見上げる。やっぱり、何を考えているのか分からない。でも。

 

「……師匠」

「あん?」

「私、強くなれますか?」

「なるために来たんだろうが」

「はい!」

「なら、なれよ」

 

 あまりにも簡単な返事だった。けれどトガは嬉しそうに笑った。

 

「私、師匠のこと大好きです!」

「おう、そうか」

 

 筑紫は表情ひとつ変えず、訓練用の道具を片付け始めた。その広い背中を見ながら、トガは小さく笑う。嫌われてはいないらしい、それなら、今は十分だった。

 

「師匠」

「何だ」

「共感層って、相手の気持ちになることですよね?」

「半分は合ってるな」

 

 筑紫は机の上に置いた紙を一枚、トガの前に滑らせた。そこには、至極簡単な状況が書かれていた。

 

 ――目の前の人間が、あなたを見て怒鳴っている。

 

「どうする」

「えっと……怒っている理由を考えます!」

「何故怒っていると思う」

「私が何かしたから?」

「決めつけるな」

「じゃあ、何か嫌なことがあった?」

「それも可能性の一つだな」

 

 トガは紙を見つめた。

 

「うーん……難しいです」

「難しくていい。簡単に分かった気になるな」

 

 筑紫は淡々と言った。

 

「相手の感情を読むとき、最初にすることは何だ」

「観察?」

「そうだ。何を言ったか。どういう声だったか。どこを見ていたか。何に反応したか」

「でも、顔を見れば分かることもありますよね?」

「いや、顔は嘘をつく」

「えっ」

「声も、言葉も、態度もだ。人間は自分の感情を隠す。本人が自分の感情を理解していないこともある」

 

 トガは筑紫の顔を見た。相変わらず、何も読み取れない。

 

「師匠も隠してます?」

「何をだ」

「感情です」

「訓練に戻れ」

「隠してますね!」

 

 筑紫は返事をしなかった。トガは楽しそうに笑い、それから紙に視線を戻す。

 

「怒っている人は、本当は悲しいのかもしれない?」

「そういう場合もある」

「怖いのかもしれない?」

「ある」

「寂しいのかもしれない?」

「ある」

「じゃあ、怒っているんじゃなくて、寂しいって言ってあげたらいいんですか?」

「違う」

 

 筑紫の声が、少しだけ低くなった。

 

「お前が勝手に決めるな」

 

 トガは目を瞬かせた。

 

「相手の感情を想像するのはいい。だが、それを本人の答えにするな。お前が理解したつもりになるだけだ」

「……そっか」

「共感は、相手の中に入って考えることだ。相手の代わりに答えを決めることじゃない」

 筑紫は紙を人差し指で静かに叩いた。

 

「それから、もう一つ」

「はい」

「相手の中に入ったら、必ず戻ってこい」

「戻る?」

「相手が怒っているなら、その怒りを理解しろ。相手が悲しんでいるなら、その悲しみを想像しろ。だが、それを自分の感情と混ぜるな」

「どうしてですか?」

「混ざれば、判断を誤る」

 

 筑紫はトガを見た。

 

「相手が泣いているからといって、お前まで泣く必要はない。相手が苦しんでいるからといって、お前が苦しむ必要もない」

「ベースに、苦しい人がいたら助けたいです」

「助けるかどうかは、そのあとに決めればいい」

 

 トガは少しだけ考えた。

 

「相手の気持ちが分かっても、助けなくていいこともある?」

「ある」

「嫌な人でも?」

「ある」

「好きな人でも?」

「ある」

 

 トガは口を閉じた。筑紫は続ける。

 

「共感することは、相手の望みを叶えることじゃない。相手を理解したうえで、自分がどうするかを決めることだ」

「……師匠は、いつもそうしてるんですか?」

「そうしている」

「誰に対しても?」

「できる限りはな」

 

 トガは筑紫をじっと見つめた。その顔からは、やはり何も読み取れない。

 

「師匠のことも、共感層で分かりますか?」

「さあな」

「分からないんですか?」

「分からせる必要がない」

「ずるいです!」

「は、そう思うなら見抜いてみろ」

 

筑紫は椅子から立ち上がった。

 

「次は実践だ。俺を相手にやってみろ」

「はい!」

 

 トガも立ち上がる。筑紫は彼女の前に立った。

 

「今、俺は何を考えていると思う」

 

 トガは筑紫の目を見た。表情は変わらない。声にも揺れがない。けれど、さっきからずっと、自分の答えを待っている。

 

「……私が、ちゃんと考えられるか見てる?」

「それだけか?」

「私が間違えたら、教えてくれる?」

「それだけか」

 

 トガは少し考えた。それから、にっこり笑う。

 

「私がちゃんとできるようになるって、思ってる?」

 

 筑紫は答えなかった。しばらくして、短く言う。

 

「いい調子だな、続けろ」

 

トガは嬉しそうに頷いた。筑紫の表情は変わらない。ただ、彼女が次の答えを探すのを、静かに待っていた。

 

 

 

 

 

     

「師匠」

 

 すべての訓練が終わったあと、トガは床に座り込んでいた。汗を拭きながら、ぼんやりと自分の手を眺めている。

 

「私、好きな人がいると、その人になりたくなっちゃうんです」

 

 筑紫は道具を片付けながら、特に驚いた様子もなく答えた。

 

「ああ、知ってる」

「その人の血を飲んで、その人の姿になって。その人と同じものを見て、同じように笑って……」

 

トガは自分の指先を見つめる。

 

「そうしたら、もっと近くにいられる気がするんです」

「そうか」

「でも、師匠は違うって言うんですよね」

「違うとは言ってねぇ」

 

 筑紫は手を止めた。

 

「それも、お前の好きの形なんだろう」

 

 トガが顔を上げる。

 

「……怒らないんですか?」

「何に怒る?」

「私の好きの形です」

「俺が決めることじゃない。ただし、それでお前自身をなくすな」

「自分を……?」

「相手になろうとするな、という話じゃない。相手を好きになるために、自分を捨てる必要はないってことだ」

 

 トガは黙って聞いていた。

 

「相手のことを知りたいなら、相手を見ろ。何を考えているのか、何を嫌がるのか、何を大切にしているのか。お前の望みを押しつけず、相手の望みも考えろ」

「……それが共感層?」

「その一つだ」

 

 筑紫はトガの前に静かに腰を下ろした。

 

「相手の中に入って考える。だが、戻ってこい。お前は相手じゃない。お前はトガだ」

「私は、トガ……」

「そうだ」

「でも、相手が私じゃない誰かを好きだったら?」

「それも相手の自由だ」

「私と一緒にいたくないって言ったら?」

「その意思を尊重しろ」

 

 トガの口元から笑みが消えた。

 

「……寂しいです」

「そうだろうな」

「悲しいし、嫌です」

「そうだな」

「それでも?」

「ああ、それでもだ」

 

筑紫は目を逸らさなかった。

 

「相手を好きでいることと、相手のすべてを自分のものにすることは違う」

 

 トガは膝を抱えた。

 

「じゃあ、好きな人と一緒にいたいときは、どうしたらいいんですか?」

「簡単だ、一緒にいたいと言えばいい」

「それだけ?」

「それだけだ。相手にも選ぶ権利がある。お前と一緒にいたいと思えば、そばにいる」

「……私のままで?」

「お前のままでいい。そのままのお前が好きな奴もいるだろうよ」

 

 トガは何度か瞬きをした。

 

「私が私のままでも、好きになってもらえるんですか?」

「それを決めるのは相手だ」

 

 筑紫は少し間を置いた。

 

「だが、お前が自分を捨てて手に入れた関係は、お前自身がそこにいない」

「…………」

「お前は、好きな相手と一緒にいたいんだろう?」

「はい」

「なら、お前もそこにいないとダメだろーが」

 

 トガは俯いた。その言葉を、すぐには理解できなかった。

 相手にならなくてもいい。相手と同じ姿でなくてもいい。自分の好きなものを、自分のまま好きでいていい。そんなことを、これまでの人生で誰かに教わったことはなかった。

 

「師匠」

「何だ」

「私、トガのままでいてもいいですか?」

「何度もそう言ってんだろ」

「えへへ」

 

 トガは笑った。いつものような、弾ける笑顔だった。

 

「じゃあ、私、トガのままで師匠のこと好きでいますね!」

「おう、好きにしろ」

「師匠は私のこと嫌いですか?」

「訓練を続けるぞ」

「答えてくれない!」

 

筑紫は立ち上がった。表情は変わらない。けれど、トガが立ち上がるのを待ってから、訓練場の扉へ向かった。

 

「置いていかないでください、師匠!」

「置いていかれたくないなら、ついてこい」

「はーい!」

 

 トガはその大きな背中を追いかけた。

 誰かと同じにならなくてもいい。自分の足で、その人の隣まで歩いていけばいい。まだ難しいけれど、少しだけ、その意味が分かった気がした。

 

 

 

 

 

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