目を覚ましたときに最初に感じたのは、冷たいコンクリート床の感触だった。
「……ここは……」
祈は身体を起こす。
視界に映ったのは、見慣れない薄暗い部屋だった。剥き出しの壁。天井から吊り下げられた無機質な照明。閉鎖的な空間の遠くから、微かに誰かの話し声が反響して聞こえてくる。
祈は静かに周囲を見回した。
「……どこ……?」
「ここはヴィラン連合のアジトのひとつ」
すぐ側から、声がした。
振り向いた祈の視線の先に佇んでいたのは、自分と全く同じ形をした顔だった。
白銀の髪。透き通るような深い青の瞳。ただし、祈とは決定的に異なっていた。黒いワンピースを着たその少女は、白いヴェールも持たず、ただ無表情のまま、床に座り込む祈を見つめていた。戦う気はないようだ。
「あなたが……私を連れてきたのですか?」
「そう」
「どうして?」
「弱ってたから」
あまりにも簡単な答えだった。祈はしばらく沈黙した。
「……弱っていた?」
「戦ったとき、すぐわかった。抵抗する気がなかったでしょ。戦ってるのに、全然集中できてなかった」
「……」
「かわいそう。力があるのに、それを使わせてもらえないなんて」
図星だった。
あのときの祈には、自らがどこへ連れ去られるかを冷静に考えるだけの精神的な余裕すら残っていなかったのだ。脳裏に、病院の別室で突きつけられたホークスの言葉が、今なお冷たい棘となって突き刺さったまま抜けない。
――大嫌いです。
「……私の個性は、嫌われてしまうようなので」
クローンの少女は小さく瞬きをした。
「それで?」
「……少し、悲しくなってしまって」
「それだけ?」
「はい」
「変なの」
「そうでしょうか」
「もし嫌いって言われたなら、嫌いって言い返せばいい」
祈は自身の白い手元を見つめながら、少しだけ寂しげに笑った。
「そう簡単にはできませんね」
「どうして?」
「相手の方を否定したくないのです…それに、私はこの個性に生かされてきましたから、怖いと思っていても嫌いにはなれません」
その言葉に、クローンの無表情な顔がほんの少しだけ動いた。
「……ジキルとハイド?」
「ええ」
祈は両膝を抱え込むようにして、床の上で座り直した。
「最初はできることも少なくて、失敗ばかりして…でも、分からないから怖いと思う。私は、自分の個性を理解したい。理解して、一緒に生きたいと思いました」
「なにそれ、おかしいの」
「そうかもしれませんね」
「個性に意思があるみたいに言うんだもん、変だよ。ハイドは反動なしでも使えるはずなのに、なんでちゃんと使わないの?」
「そのやり方は、他の方を代償にしますから」
祈は困ったように微笑む。
「私なら、どれだけ削られてもまだ耐えられますから。だから、代わりに誰かが傷つく必要はないのです」
「それ、嫌い」
遮るような冷淡な声に、祈が顔を上げる。クローンの少女の瞳には、やはり感情がなかった。
「自分のこと、大事じゃないみたい。自分が死んでもいいみたいに聞こえる」
「……そう、ですね」
祈は否定できなかった。そして、ふと自嘲気味に呟く。
「……同じようなことを、彼にも言われたのかもしれません」
「彼?」
「私の大切な子です」
祈は静かに目を伏せた。
「自分一人で全部背負えばいいと思っているところが、大嫌いだと。自己犠牲はただの独りよがりだと……そう、真っ正面から拒絶されてしまいました」
その事実を自らの口で言葉にした瞬間、胸の奥の冷たい痛みが再び強く疼いた。
「……嫌われたくは、なかったのですけれど」
「好きだった?」
「今も好きですよ。これからも、きっとずっと好きです」
そこに迷いはなかった。
「だからこそ、嫌いと言われたことが、思った以上に悲しいのです」
クローンの少女は何も言わなくなった。祈はそんな彼女の様子を見て、首を少しだけ傾げた。
「あなたは……どうしてヴィラン連合にいるのですか? 私を拐った目的はなんですか?」
「私は施設から逃げてきただけ。あんたをあいつらの言う通りに引き渡すのはムカついたから、ここに隠して置いておくことにしたの。覚えてないけど、ムカつく奴の命令なんか聞きたくない」
「ムカつく奴…?」
「私を造った人」
「……そう、ですか。気になりますね」
「何が?」
「あなたと…皆さんのことです」
祈は、部屋の隅、天井の近くに設置された小さな監視カメラの存在に気づいていなかった。
カメラの灯す小さな赤い光。その無機質な映像は、別室の監視モニターへとリアルタイムで送られていた。
◇
薄暗い監視室。モニターの前に、数人のヴィランが集まっていた。
「……あのお嬢さん、普通に喋ってるねぇ」
コンプレスがカウンターに深く腰掛けたまま、画面を見ていた。同意するように、荼毘が舌打ちをする。
「ここが敵のアジトだって分かってんのか?あの女は」
「分かってると思いますよ? でもおねえさん、全然怖がってないみたいですね!」
トガが画面に顔を近づけ、興奮気味に声を弾ませる。黒霧が背後で静かに、霧の身体を揺らした。
「ただ、それ以上に彼女は……目の前にいるあの不完全な少女を、純粋に心配しているのでしょう」
その隣で、死柄木弔は何も言わず、ただフードの奥の赤い瞳で画面の中の祈の姿をじっと見つめ続けていた。
画面の向こうで、祈の静かな声がスピーカーから流れ続ける。
『ねえ、祈って呼んでいい?』
『…ふふ、お好きにどうぞ。私はあなたをなんとお呼びすればよろしいですか?』
『名前は、ないの。ずっと「あいつ」とか「お前」だったから』
『不便ではないですか?』
『興味ない。でも、祈が呼んでくれるなら名前があると便利かもね』
『そうですね』
『じゃあさ、私に名前つけてよ。クローンだし、妹みたいなものでしょ』
『うーん、そうですねぇ…では、「灯」はいかがでしょうか?』
『あかり?』
『あなたには周囲を優しく照らす存在になってほしい。暗闇でも希望を失わない人になってほしい…これは私のワガママですけれど』
『ふぅん、私、一応ヴィランなんだけど。そんな綺麗な名前つけちゃっていいの?』
『私の「妹」なのでしょう?おねえちゃんからのお願いということで…それとも、嫌ですか?』
無表情だった少女は、ふるふると首を横に振る。
『嫌じゃない。祈は?親につけてもらったの?』
クローンこと、灯が尋ねる。
『この名前は…「いつか誰かの救いになるよう、世界を呪わず、穏やかな光を願える子であるように」と私を育ててくれた人がつけてくれました』
『親じゃないの?』
『……その方は、育ての親です。本当の両親は…私を子供として見てはいませんでしたから、名前もあったかどうかも…今では分かりません』
親。
その一言が響いた瞬間、モニターの前で、トガの笑顔がわずかに消えた。
荼毘も、ポケットの中で煙草を弄ぶ手をピタリと止める。彼らもまた、親という存在によって自らの本質を否定され、遺棄されてきた人間だからだ。
祈の声は、どこまでも淡々としていた。
『産みの親は、私の個性ばかりを見ていたのではないでしょうか。だから私は、個性あっての自分であり、私としての個人は、この世界に存在する価値がないのだと思っていました』
『今も?』
『……少し、根深く残っているのかもしれませんね』
『じゃあ、育ての親に何をしてもらったの?』
『何もしなくてもいいと、教えていただきました。怪我をしていなくてもいい。少しだけ、自分に余裕があった時に人を助ければいい。大きなことはできなくていい。個性を使えなくてもいい。ただそこに、生きていていいのだと』
祈は穏やかに微笑んでいた。
けれど、モニターの向こう側の監視室では、誰一人として言葉を発する者がいなくなっていた。絶対的な静寂が部屋を支配する。
『だから、私も子供には同じようにしてあげたいと思っているのです。子供は、無条件で守られていいものですから』
トガが、小さく瞬きをした。その瞳に、奇妙な動揺が走る。
『……子供』
『ええ』
『じゃあ、大人は?』
『大人も、守られていいと思いますよ』
『……じゃあ、祈は?』
『私は……私は大丈夫です』
『なんで?』
『私なら治せますから。他の方だったら死んでしまいますよ』
モニターの前で、死柄木の指先がカリ、と自らの首筋に触れたまま停止した。
「……また、それか」
誰にも聞こえないほどの低い声で、死柄木が呟く。
「他の奴らは死ぬから、自分がいくら傷つけてもいいってか。馬鹿じゃねえの」
荼毘が吐き捨てるように言ったが、その視線は画面から逸れることはなかった。
「でも」と、トガが画面を見つめたまま、ぽつりと零す。
「おねえさん、本気でそう思ってるんじゃないですか?」
「ええ。だからこそ、歪であり、厄介なのです」
黒霧が答える。画面の中では、祈が自らの両手を見つめていた。
『……私も、自分のことを大切にできるようにならなければいけないのでしょうけれど。少し、苦手です』
荼毘が、ふいとモニターから目を逸らした。
「……くだらねえ」
「荼毘くん、悲しいんですか?」
「うるせえ、殺すぞ」
けれど、もう画面の前から離れる者は誰もいなかった。死柄木もまた、祈の言葉から目を背けることができなかった。
祈はまだ、何もない部屋で話し続けている。
『ここにいる皆さんも、きっと、最初からヴィランになりたかったわけではないのでしょうね。何か事情があって、そうならざるを得なかった人もいるのではないでしょうか。もちろん、だからといって犯罪をしていい理由にはなりません』
『うん、祈ならそう言うと思ってた』
『……私は、罪を犯したからといって、その人が最初から悪い人だったことは、同じではないと思います』
トガの目が、少しだけ細くなる。
『……私、昔は誰かに守ってほしかったんです。だから、これは私の勝手な憶測ですが』
『うん』
『皆さんも本当は……誰かに見つけてほしかったのかもしれませんね』
その言葉に、監視室はしんと静まり返った。誰も彼女の言葉を否定しなかった。
祈は、彼らが自分を見ていることを知らない。ただ目の前の灯を見て、優しく微笑みかけた。
『あなたも、そうだったのではありませんか?』
『……分からない。でも、祈の話はもっと聞きたい』
『はい、喜んで』
祈が嬉しそうに頷いた瞬間、モニターの前にいたトガが、小さく笑った。
「……変な人ですね、私たちのこと心配してるみたい」
「ただの馬鹿だろ」
そう言いながらも、荼毘は席を立たなかった。誰も監視をやめようとはしなかった。